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泡沫

「——それでは」 ぱさ、と音を立てて床に落ちたシャツを拾い上げる。飾り気の無い白い布地から、ふわりと汗の香りが立ち上ったが臣は眉ひとつ動かさない。衣服を脱ぎ散らかすこともいつもの事だと顔を上げ、既に寝台の縁に腰を下ろしている駿介が、いかにもつまらなそうに唇を尖らせている。鼻から抜いた吐息によって、臣の長い前髪が揺れた。 「明日は普段よりも早く起こしますからね」 「…ん、」 「一度目で起きてくださいね」 貴方は全く寝起きが悪い。普段と同じように小言を口にしかけて、止めた。何も今日のような夜までそんな小言を垂れる必要も無いだろう。だが、明日からはそれも叶わなくなるのだ。思い至ってはまた——やはり口を噤む。こうして入眠する前の駿介の傍に立ち、翌朝の事や就寝の挨拶を告げる日々は今日終わる。 明日の夜から、臣がこれまで担ってきた役割の全てはこの人の妻になる人が行うのだろう。気紛れな当主が脱ぎ捨てた衣服を拾うことも、朝目を覚ました主人がその日纏う洋服を選ぶ事も、眠る前の淡く静かな時間を独占することも、明日からは全て、自分の預かり知らぬところで自分の知らぬ女の役目となる。 傾き掛けた財閥の一人娘。まだ二十歳にも満たない女性は果たしてこの人を上手く盛り立て、従えるのだろうかと漠然と思う。その役割もまた、自分だけのものであった筈だった。 「…臣、」 「はい。なんですか駿介さん」 広過ぎる部屋に響く声が、今夜は一層朗々と響く。長い毛足のカーペットに下ろした裸足の足がぽんと蹴り上げられる。子供の様な動作を挟み、駿介はなおも不服そうに眉根を寄せる。 「駿介さん?」 没落間近の財閥の当主に指名されたのか、それともこの家が差し出したのか。ともあれ、お家復興の足掛かりとすべく駿介を婿養子として迎えるに辺り、かの家はこのぼんやりした三男坊で果たして良かったのだろうかと甚だ疑問に思う。 駿介の人格は悪くは無い。人あたりの良いだけの、陽だまりの様な青年にこれまで縁談が無かった事の方が不思議だと周囲は言っていたが、何のことは無い、生まれた時から傍に仕えていた自分が選り好みし、遠ざけていただけの話だ。 今度ばかりは互いの当主の意見が合致した。自分は手も口も出しようが無かった。 この人は明日、この家を出ていく。 この人は明日、人のものになる。 「…目が冴えてしまっている」 ぼんやりと臣を見上げる駿介の目を見ては浅い溜め息を吐き出す。甘え切った口調も目も、幼少の頃と殆ど変わっていない。 この家に使用人として迎えられ、十五の時に仰せつかった子守りはやがて世話人となり、そして気付いた時には側近になっていた。あれから二十年が経っている。 ——想いが、いつ芽生えたのかも判らない。 ただ気が付いた時には傍にいた。 あたかも常に自分が駿介の傍にいるように、想いは常に傍らにあった。 在り続けた想いに気付いたのも、その想いを口にする事も、何もかもが遅過ぎた。 口にしたところで、と思い至っては内心で自嘲する。想いを告げてしまったところで、駿介の道を捻じ曲げるような真似は自分には出来ないだろう。 「白湯でも持って来ましょうか」 「…要らない。臣、」 向けられた指が、人差し指を摘む。軽い力で引かれる手に、臣は抱えたままの衣類を床に戻す。もう少し話をしよう。それは駿介が幼少の頃に生まれた合図だった。眠れないと愚図る夜、臣は幾度も駿介の寝台の傍で何ともなしに話をした。甘える手に招かれて寝台に向かう。臣は、駿介の言動には逆らわない。 「寝坊しますよ」 「臣が起こしてくれるから」 甘えた声音を鼓膜に染み込ませ、刻み付ける。 せめて今夜、想いを遂げようなどとは今更想わない。 在り続けた想いは今宵死なせなければならない 自分はこの人を護り、育て、仕える事で意味がある。そして同時に、自分はこの生き方しか知らない。 燻り、抱え続けた想いを遂げる術も、その後どうするべきかという事も、自分は知らない。 初めて知る感情への向き合い方も、対処の仕方も知らずにいた。 だから——後悔などしようがないのだ。 「…明日からも、」 「はい、」 甘ったるい声。自分を信じて疑わない眼差し。繋いだままの指。無防備な駿介の全てが今自分へと向けられている事にどうしようもなく胸の奥が震えた。 駿介の瞳が泳ぐ。次の言葉を探している気配が伝わってくる。握られたままの指の腹から、自分の脈動が伝わってしまうのではないだろうか。そう思っては、臣が初めて一人動揺する。悟られぬよう、息を潜めて駿介の声を待った。 「……間違えた。明後日の朝も、臣が起こしてくれるから」 「——…」 熱に、浮かされたような心地だった。耳馴染んだ声に呼ばれて我に返る。見下ろした先には、自分は諾と答えると信じて疑わない眼差しが在る。 この人の、この不遜さまでもが愛おしかった。 自分が思う事は叶わない筈がないと思い込んでは譲らない。そんな風に育てたのは、家長として立つ為に施された教育なのか、それとも——常に傍に在り続け、従順に仕えた自分なのか。 もしそうであるのならば、この劣情は、殆どこの屋敷の中の世界しか知らない自分自身が作り上げた罪に近い。 「臣?」 返事をしろと、無垢な瞳に責められる。 ただ穏やかに灯っていた筈の火が、駿介の呼気に吹かれて激しく燃え上がるような錯覚がある。 堪え性の無さを誰かの所為にするなど愚の骨頂だろう。だが、吐き出す息が握り締められた指の熱さに震える。今この指を、もっと意志を持って引かれたのなら。 微かに指に力を込めた。辿り着いた寝台の上、この男を組み伏せてしまえたのなら。自らが整えた、皺ひとつないシーツの上に細身を縫い付け、この男の身体を余す所なく暴き、自分だけが知るものと出来たのなら。 たった一夜の記憶を、この人と共有出来たのなら。 自分は、もう、この想いごと死んでも良い。 深い呼吸をする。見上げる視線を全身に感じながら目を伏せ、甘え続ける指先、人差し指の爪を軽く擦った。臣の動作を不思議そうに見つめる様に笑いかけるも、上手く笑えているかは判らない。 「…明後日からは、奥方が起こしてくれるんですよ」 意思も、恋慕も、劣情も、乱れるばかりの吐息も全て飲み下し、声を発した。 俺はお役御免です。口にしてしまえば、自ら幕を引く事が出来ると思ったが、既の所でそれも飲み込む。最後の一夜を自らの手で終える意思は、自分には備わっていないのだと気が付き、また内心で自嘲した。 「……うん、」 渋々頷く青年の、洗いざらしの前髪がぱさりと揺れる。この髪を整えるのも明日の朝で最後になる。自分しか触れたことの無い髪の1本1本が。伏せた睫毛の1つまでが愛おしかった。 「…けれど、……貴方は、絶対ですから、」 少なくとも、自分にとって駿介の代わりは居ない。 娘婿の候補や、お家再興の為に必要とされる男子は数多いても、駿介は自分にとっては唯一無二だ。 恋を殺しても、結んだ縁は切れることはない。 「貴方が呼ぶのなら、俺はいつでも、」 知らぬ間に芽生えた感情の呼び名を探し当て、感情の一つとして札を貼り付けた後にも自分はただ従順に駿介に仕え続けていた。 焦げ付くような恋慕ではない。ただ、穏やかに射す灯りのような想いを抱いていた。 貴方に対するこの想いを抱けた事が。 初めて抱く想いの対象が貴方であった事が。 これ以上の幸せはきっと何処にも見当たらない。 「明日からも?」 指が結び直される。無垢で頑なな瞳が離すまいと言っている。 純粋に重ねるばかりの日は続く。 想いを殺した所で、それを知る由もないこの人は、恐らく明日も明後日もその先も、変わらず自分の名を呼ぶのだろう。 浅く頷く。明後日も、と上がる語尾にまた1つ顎を引く。青年の目が、安堵に緩むのを感じた。 「それなら、…良い」 訪れた静けさに落ちる声が波紋のように広がる。波紋の輪の中に立ち、もう一度指を擦ってやったのを合図にするように、駿介の手が離れた。 「おやすみ。臣。…また明日」 日は続く。 何処に行こうとも、この人は生きている。 だから自分も、未だ死なずに生きて行こうと思った。

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