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クープならどうする?

「何もあそこまでボロカスに言う必要なんて無かっただろう。他の生徒もドン引きしてたぞ」  いつも通り憎たらしい澄まし顔を浮かべているのかと思って、しばらく無視していた。だが振り返ったとき、リーの表情筋は顔面神経痛でも起こしたかのような引き攣りを浮かべている。どちらにしても対応は同じだ。ハルはありふれたガラスコップへ沈んだグリーン・オリーブを2粒、ドライ・マティーニごと、がぶりと口の中へ送り込む。 「愛の鞭さ」  しょっぱいおくびは手の甲で上品に押さえ込んだが、大袈裟にもリーはカウチの端まで身を引く。もう杯を干すのは6度目か7度目。用意してあったクラッカーとゴート・チーズはとっくに食べ尽くされている。新たな肴を探すのも面倒で、先ほどから瓶詰めの実をグラスへ直にぶち込んでいた。 「それに、良い面だって指摘した」 「『ともかく、君の横顔は若い頃のゲイリー・クーパーに似ていなくもない』ってところ? ルッキズムを脱却するよう世間は標榜してるんだぞ、全く呆れるね」  とは言うものの、俳優なんてものを目指す人間は、ある程度容姿が優れていなければやっていけない。許されるのは「個性的」まで。第二のアーネスト・ボーグナインを目指しているならともかく、あの青年の容姿はしっかりと端麗だ。  お世辞ではない。クープは少し大袈裟すぎるかも知れないけれど、すっと通った鼻筋や、キャラメル色の涼やかな瞳。そう言えば「曽祖母がユート族なんです」なんて自己紹介で口にしていた気がする。片鱗を僅かに窺わせるレッド・スキンは、肌一枚隔てた場所で、今まさに石炭が燃えようとしているかのようだった。 「だが彼は美しい」 「まあね。少なくとも欠点らしい欠点はないかな」 「君の今付き合ってるフランス人よりはな」  返事が気に入らないことを表明する為、殊更冷厳とした下目をぶつけてやる。それでも過ぎたジン・リッキーに鼻を啜りながら、往生際も悪く反撃を企んでいる目の前の男を大したものだと褒めてやるべきだろうか。  部屋に招いて以来、意地汚くグラスを傾けているのは奴も同じ事。30年以上も友人関係を続けているのだ。この男の絡み酒について、いい加減学習すべきなのに、結局今夜も許してしまった。そう腐せば、きっと只でも大きな目が極限まで丸くなり、声は無様に張り上げられることだろう。「君にだけは言われたくないよ!」 「だが俺の指摘は何も間違っていない」 「随分な自信だね、大先生」 「自信がないなら、人から金を取って演技なんか教えてないさ」  勿体ぶってもう一口アルコールを。いい加減塩分の取り過ぎで、こめかみがぎゅっと締め上げられるかのようだった。2ヶ月前の健康診断で、大学病院の賢しげな医者は「もう若くないんですから節制なさい」なぞと抜かした。奴は人の血圧よりも、自分の毛髪について心配するべきだ 「まずテーマの選択が酷い。彼が取り組んだのは『昼下りの情事』の時のクープ。20そこそこの坊やが、60も間近な百戦錬磨のプレイボーイを演じられると思うか」 「マーロン・ブランドだってゴッドファーザーを演じたときは48歳だった」 「彼はブランドじゃない。逆に聞くが、君がキャスティング・ディレクターをやってたとき、彼が集団オーディションに応募してきたら、書類を通してたか」 「通さないね」  「もしも彼がカウチへ向かったなら話は別だけど」と続けるつもりだったのかもしれない。だがリーは残ったなけなしの理性を振り絞る。唯一取りこぼされた不浄な微笑が、高貴な容貌にさざ波の如く広がった。奴は週に一度ニューヨークのティッシュ・スクールで映像マネジメントの教鞭を執っているが、未だ25歳以下の若者へ対して興味を隠さない。 「で、他の欠点は」 「それだけで十分致命的だ。彼はプレイボーイの洒脱が何たるかを理解していない。クープは大根かも知れんが、気品を理解していた。若い頃ヨーロッパの伯爵夫人に寵愛されて、散々仕込まれたのさ」 「いくらメソッド演技志望者でも、今時それは無理な相談だよ」  何が面白いのか、リーはくくっと喉の奥で笑いを転がした。 「カーダシアン一家の誰かと付き合って来いって勧める?」 「今より益々品が無くなりそうだな」  何て下手な切り返しだと、自分でも腹が立ってくる。そう、全く腹が立つ。どうして帰宅以来、この話題を延々と引きずり続けているのだろう。とっとと切り上げ、別の何かを槍玉に挙げるべきだった。リーだって決して楽しんではいない……そこまで思考が辿り着いて、ハルはようやっと気が付いた。だらだらと酒を煽り、あの青年について拘り続けているのは自らなのだと。 「何にせよ見所のある子だ」 「最近の若い子は打たれ弱いんだから、あまり厳しくするとクラスに出てこなくなるぞ。可哀相に彼、今にも泣き出しそうになってたじゃないか」 「これ位でへこたれてるようじゃ、とても業界じゃやっていけないさ」 「大丈夫だよ、最近はMe too運動のおかげで理不尽も減ってるし」  今やリーは難癖の段階を過ぎ、くすくす笑いへと移行している。肩の揺れは腕にまで伝播し、半分以上氷の溶けたグラスをちゃぷちゃぷと波打たせた。 「しかし、プレイボーイの洒脱ねえ。君に言われちゃ彼も形無しだな」  常の流れだと「『ロード・オブ・ザ・リング』でスチュアート・タウンゼントが降板したとき、君の為にどれだけ骨を折ったことか……でもワインスタインの奴『エルフやお姫様をコマせるような色気が奴のどこにある』って」と来る。だから己も涼しい顔で返しておけばいい。「感謝してるよ。君がヘマしたせいで、あいつと寝たから役を手に入れたって言われず済んだ」    「君、本当にアメリカ育ちなの?」と若い頃オーディションでよく尋ねられた。「てっきりイギリス人かと思ったよ。清廉で、高尚な感じがするからね」それが賞賛3割、敬遠7割なのだと気付いた時、ハルは己の活躍の場を銀幕やテレビ画面の中へ求めに行くのを止めた。  勿論、何の努力もせず諦めたわけではない。「君はまるで氷の女王だ。その魅力を押さえつけているものを溶かしてあげる」なんて甘言を手放しで信じるほど馬鹿でもなかったが、万が一という期待を抱く程度には若かった頃もある。結局大抵のペニスは熱さと無縁の腑抜け具合、それは別に構わない。寧ろ連中程度のものでは自らを汚すことなど不可能だったという事実に、誇らしさすら覚える。    それに、何も大仰で派手派手しいパッションだけが色気とは限らない。   クープを見てみるがいい。スチール写真の中の彼は絶世の美男子だが、いざスクリーンで動いている姿を見ると、驚くほど地味なのだ。落ち着いた美しさ。誰だったか、さる高名なプロデューサーの言だったはずだが「彼は『うん、うん』の天才だね。台詞なんて必要ない、あの『うん、うん』って頷きで、女の子はみんな自分をジュリエットだと思い込む」  ふらふらと伸ばされた手が膝を掠めたと思ったら、ローテーブルの上のスマートフォンを掴む。こびりついたクラッカーの屑を払い落とし、リーはフォルダを開いた。 「まあ、あんまり責めてやらずに。僕が見学に来てたから張り切って、焦ったのかも知れない」 「お前が来てたから失敗したって言うのか」  「本番に弱いなんて致命的じゃないか」と口にするつもりだった。しかし余りにも臆面なく、自信に満ちたリーの物言いは、ビーフィーターと混ざり胃の中をかっと燃やす。 「青田買いも大概にしろよ」 「僕だって才能のある子は好きだし、君よりコネを沢山持ってる」  数時間前に撮影された動画は、最新機種の賜物か映りも良い。まず青年は、シャンパン用のフルートグラスに見せかけた紙コップを傾け、がぶっと中のミネラルウォーターを一口流し込む。テーブルに乗せるや否や、ヒロイン役を務める垢抜けない女の子を追いかけ、壁際に追いつめるまでの動きに淀みはない。最初はそっと、左掌を彼女のこめかみへ触れるかどうかの位置に押しつける。何と勿体ぶって、自信無さげな仕草。30近く年下の初な乙女を追い詰めるのに、そんな情けない物腰の男がいてたまるものか。  その癖台詞回しときたら「うん、うん」どころか、マーロン・ブランド並のぶっきらぼうで、凍えるような冷たさなのだから。そう言えば矢継ぎ早の指摘の最中、あの青年は怯え上擦った声で必死に反論して見せた。「自分なりの観察の結果を取り入れて、現代風に解釈してみたんです」確かに今はもう、ポリティカル・コレクト的にも受けない物語だが、ならば最初から違うテーマを演じれば良かったのだ。実際そう諭したはず――彼はすっかりしゅんとなり、もしかしたら本当に泣いていたかも知れない。何だか無性に苛立ってしまい、それっきり彼の顔をまともに覗き込んではいないから、確かなことは分からないが。  もじもじまごつく輪をかけて不味い演技の女の子へ、やがて青年は熊が獲物へ襲いかかるかの如く相手へ覆い被さり、顔の脇へ突いた両腕で逃げ道を塞いでしまう。もはや半ば陥落しかかっている処女に、傲岸で強引な誘惑を仕掛けるシーケンスだ。『8時は?』『無理よ、早いわ』『なら9時は』『だめ、遅過ぎる』『5時。4時ならどう?』例えどれだけ厚かましかろうとも、クープはあの真摯なな眼差しを決してオードリー・ヘップバーンから逸らさず、ビリー・ワイルダーお得意の打てば響くような畳みかけをやってのけた。もしも監督が生きていたら、さぞや憤激していたことだろう。青年の表現方法はただただ、不遜なだけだ。下目遣いがはらむ色気は余りにも鋭敏で、情緒の欠片も見受けられない。    どうしようもなく青臭くて、それでいて生々しい。彼はまだ、演じると言うことを理解していなかった。観察の結果を身に溶け込ませる事が出来ず、上辺をなぞるだけ。或いはその身にあるものから直に引き出すか。技術は完璧なのだろう。だからこそ惜しかった。正しい方向へ導き、気品のように時と場所を弁えて取り外し出来る技術を教えてやればいい。きっと芽が出て、美しい花を咲かせることが出来るに違いなかった。  動画をタップして一時停止すると、リーは耳障りな溜息をついてみせた。 「今観直して分かったことがあるんだけど……」 「勿体ぶるな、鬱陶しい」 「この子、大して秀でた何かがあるとは思えない」  思わず手にしたままだったグラスの中身を、紅潮した顔へぶちまけてやるところだった。黙って促され、続きを述べる権利が与えられたのを幸いに思うが良いーーいや、この面の皮の厚い男は平然としていた。瓶の中から残り少ないオリーブを一粒摘み出し、ぽいと口へ放り込む。 「あと、彼が観察して真似をした存在も、何となく察しがついた……99パーセント当たってる自信があるよ」 「大方マーロン・ブランドか、アル・パチーノってところだろう」 「馬鹿だな、君は」  処置なしと言わんばかりに振られた後、頭は乱暴に背もたれへと投げられる。酔眼が表明する感情は一つだけ、煩わしさだった。今やもう、リーは隠すつもりなど無くしている。 「それと……こんなことを言うのは癪だけど。この子について怒ってる君って、信じられないほどセクシーだよ。僕が知ってる中で一番セクシーだ」 「よせよ」 「本当さ……その色気があれば、アラゴルン役は確実だったのに……」  天に向かって放たれた大欠伸から察するに、このまま泊まっていくつもりらしい。タクシーを呼ぼうかと思ったが、そもそも彼を誘ったのは自らでは無かったか。何のために?――あの可哀相な青年の才能の可否について、意見を聞くために。  例え誰が何と言おうと、彼に才能があることは間違いない。今やハルは確信していた。  次のレッスンは2日後だ。その時は先ほどの動画を参照しながら、徹底して答え合わせをしてやろう。自らがクープ役、彼をヘップバーン役にして。本当ならば、生徒のイマジネーションを固定しないよう、講師自らのデモンストレーションはあまり推奨されないのだが、今回ばかりは特別だった。  そう言えばあの子は、徹底した駄目出しの果てに「そんなに言うなら、先生がお手本を見せてくださいよ」なんて啖呵を切っていたのではないか。なんて根性の据わった坊やだろう。  上等だ。次こそ泣くまで追い詰めてやる。グラスの中へ最後に残ったオリーブを流し込み、じっくり噛みしめながら、ハルはまるで涙のような塩辛さにほくそ笑んだ。 終

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