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第1話

 水曜日の夜、叔父さんが死んだ。  父の弟に当たる叔父さんは、年は離れていたが僕の優しいお兄さんのような存在の人だった。特別何か変わった事をする訳でもなく、何か変わった性格な訳でもなく、そして、末っ子らしい甘えた考えをする人でもない、優しい人。  あえて言葉を選ばずに言うなら、影が薄い。  家族同士で集まっても、席の隅っこで小さく一人で酒を飲んでは、にこにこと周りの楽し気な雰囲気を確認して、ひっそりと小さくなっている人。道端で年に一回お辞儀されるかも分からない、地蔵のような人だった。  僕は彼の遺影を前に手を合わせ、いつ撮ったかもわからない写真を見つめる。焼香の一筋の煙が、ゆるゆると立ち上り、叔父さんの笑顔を濁していた。  叔父さんの死因は、突然死だった。  生きていく中で、特に身体を大きく壊したこともなかったのに、突然心臓が止まったのだと、母さんが言っていた。四十手前の若さで……母さんはまるで我が子を失ったような痛みを抱えた顔で眉を寄せ首を横に振っていた。 「叔父さん、何処で見つかったの?」 「アパート。無断欠勤しない人だったから、おかしいって、職場の人が実家に連絡くれたの」  東京に住んでる叔父さんの家に、警察とそのアパートの大家さんが入ると、叔父さんはベッドの上で眠るように死んでいたらしい。  もがき苦しんだ様子もなく、それは朝だと気づかずに眠り続けているように、静かで健やかでもあったと、大家さんが言っていた。  一通りの葬儀が終わると、会場の隣にある部屋でお寿司やお酒が振舞われた。個人を偲ぶ、と言う割に、出席した親類は叔父さんの名前を一つとして出さず、酒を楽しんでいるようだった。飛び交う言葉は、お互いの近況や、下世話なワイドショーネタに、仕事の愚痴と自慢話。  僕は賑やかな宴会場の隅を選んで、半ばうんざりしながら一人オレンジジュースをコップ一杯だけもらった。耳障りな酔っ払い大袈裟な笑い声に、耳を塞ぎたくなる。  しかし、そんな僕も、明日から大学の授業が通常通りに始まり、きっと何事もなかったような顔をして、学校に向かうのだ。  いつもと変わらない日常が、当たり前のように、歯車を崩すことなく回って行く。確かに、叔父さんと言う部品を失っているのに。 そう思うと、うるさいか、うるさくないかだけの違いで、僕もあの集団と何も変わらないのかもしれない。  僕の鼻孔の奥に、不意に線香の煙の臭いが蘇る。  叔父さんは地味だったけど、いつも柑橘系のコロンを控え目に付ける人だった。それなのに、今叔父さんを思い出すと、線香の香りばかりする。  僕はオレンジジュースを、勢いに任せて半分ほど飲み干した。百パーセントではないそのジュースは妙に口の中に残る甘さがあった。そして僕は改めて会場の中を見渡し、叔父さんを探した。  叔父さんの面影が、どこかにあるような気がした。けれど、それは気がするだけという事に過ぎなかった。  こんな時も叔父さんは、会場の隅っこで微笑みながら、小さなコップ一杯のビールを啜ってるような気がしたのだ。 *** 「これ、あんたに渡して欲しいって」  葬儀から二週間後、母さんに手渡されたのは、紺色の万年筆だった。薄っすらと小さな傷の入った、とても高級そうには見えないけれど、使い込まれ愛されていたのだろうと感じられる、見覚えのある万年筆。 「叔父さんの?」 「小さい頃、あんたそれ叔父さんに欲しい欲しいって強請ってたじゃない」  おばあちゃんがそれを覚えてたんだって。  そう言うと、母さんは大事にしなさいよ。と付け加えて、直ぐに台所へと戻って行った。食器のぶつかる音とと水の跳ねる音を聞きながら、僕はそんな事言っていたっけと首を傾げ、鞄にそれを仕舞うと家を出た。  大きなリュックの中で、教材やパソコンの中をパチンコ玉みたいにからころと揺れているのが、背中から伝わってくる。  僕は家から出て数分で、リュックの中から万年筆を取り出すと、ウィンドブレーカーのポケットに入れ直した。  ――ああ、そういえば。  僕はふと、何の前触れも切っ掛けもなく、叔父さんが青いインクで手紙を書いている事を思い出した。季節の花が添えられるでもない、不愛想な縦書きの便せんを、足の低い小さな机に広げ、背中を丸くしながら、叔父さんは何かに没頭する子供の様に、手紙を書いていた。 「いいなあ、それ。欲しいなあ」  小さい頃の僕は遠慮と言うものを知らずに、欲しいなあ欲しいなあと、手紙を書く叔父さんの横で、それを――叔父さんからの手紙を欲しがっていた。  しかし、それは傍から見たら、きっと僕が欲しい欲しいと強請っているのは、彼の指にしっかりと馴染む紺色の万年筆に見えたのだろう。けれど、僕は一ミリだって、万年筆が欲しいなんて言っているつもりはなかった。  僕が欲しかったものは、叔父さんの手の中にしっくりと溶けて手と繋がっているように納まるそれではない。  僕が欲しかったものは、叔父さんが書く、手紙。ただそれだけだった。  叔父さんはそんな僕に、 「いつかね」  と笑って、頭を撫でてくれたが、結局手紙は一通もくれなかった。それどころか、家族や親せきの中でも「筆不精で、年賀状すら寄越さない」と、そこだけは評判が悪かった。 「ねえ、おじさん。だれにおてがみなの?」  幼かった僕は小さく背を丸める叔父さんの隣で、まだ平仮名もあやふやなまま、彼の文字を見つめていた。幼いせいで、理解できる文字は少なく、漢字なんてものは一文字も読めなかった。しかし、叔父さんがそれを大事にしている事だけは何となくわかったので、僕はその秘密が知りたかった。 「うん……」  僕の質問に、叔父さんはそう曖昧に頷いて、筆を迷わせるように、先を揺らしていた。 「あつしくん?」  辛うじて読めた手紙の一番最初の名前を言葉にすると、叔父さんはじわじわと頬を赤らめて、僕を見つめた。 「おともだち?」  そう聞くと、彼は「そうだね」とか「たぶんね」と曖昧に頷いていた横顔を思い出す。  たしかあの時も、春が近い頃だった。窓から注ぐ陽や空気が、解れるように柔らかい日曜日。叔父さんは、決まって日曜日に手紙を書いていたような気がする。  僕は駅の改札を潜り、ホームに立つと、ポケットから万年筆を取り出した。急行電車が春の嵐のように髪を乱して過ぎ去って行く。  あの葬式に「あつしくん」は居たのだろうか。  僕はそんな事をふと考え、万年筆のキャップを開いてみる。小さなかちっという音を立てて開いたそれの先は、新品のように、春の光を受けて白く十字に輝きを放つ。 「あつしくんは、とおいの?」 「うん、そうだね。もう遠く遠くだね」  叔父さんの切ない、けれど、真っ直ぐと何かを見つめる眼差しは、優しい慈愛が満ちていたように思う。今ならわかる。  感情の選択肢が少なかった当時の僕には、叔父さんが幸せそうだという事以外は、分からなかったけれど。 「あいたい?」 「うん」 「あえないの?」 「たぶんね」  叔父さんはそう言って少しだけ笑った。 「あつしくん、好き?」 「……うん、初めて会った頃から、ずぅっとね」  叔父さんのぽつりとした声が、鼓膜の奥で鮮明に蘇ると、俺は手の中の万年筆をじっと見つめた。  きっと僕はこれを使う事はないだろうと、何となく思う。だってこれは多分、叔父さんがずっと「あつしくん」の為だけに使っていた物だろうから。  僕はポケットに万年筆を仕舞った。  この万年筆に込められた、叔父さんとあつしくんの話は、僕がそっと預かっておこう。そう決めて、滑り込むようにホームへと入り、停車した電車に乗り込む。  叔父さんの万年筆が、春のかたまりのように、ころころと温かく、ポケットの中で揺れていた。

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