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第1話

 クシュッ!  寒いより痛い風に吹かれて、七緒(ななお)はマフラーに顔を埋めた。制服の上にコートを着込んでいるものの、寒冷は足から這い上がって身体の芯を冷やす。 「早く来すぎたかな」  見渡しても求める人影は見当たらない。魅力的な彼は頭一つ分突き出て、モデルのように人の目を引く。  学生の自分は会いたい一心で駆けつけられるが、恋人は社会人で何かの役もついて忙しくしているらしい。今日だって、もしかしたら無理やり時間を作ってくれたかもしれない。できるだけワガママを言わないようにしても、同級生たちの恋愛事情を知らされると、もの寂しさは生まれる。  周囲は騒がしく動き、七緒のつぶやきは雑踏にまぎれて誰の耳にも届かない。忙しない彼らの流れから滞った自分は隔絶され、ポツンと取り残された気分に浸る。  白く昇る吐息で指先を気休めていどにあたため、どんよりと重い空を見上げる。 「会いたいなぁ」  連れだって歩く親子を横目に、迷子になった時のことを思い出す。あれは夏。祭りで人のごった返す神社。ちいさな子どもだった七緒は、一緒に露店をまわっていたはずの兄たちとはぐれたのだ。打ち上げ花火最中のもみくちゃの中、心細く泣きながら歩けど出会えず。 『七緒!』  ざわめきの中でふしぎと通った声に振り向けば、兄の友人――圭介(けいすけ)だった。祭りを楽しむのでもなく探してくれていたらしい。全身汗だくになりながら見つけ出してくれた彼は、さながらおとぎ話の王子様かと思った。以来ずっと圭介一筋に見続け、根負けという形でやっと付き合ってもらった。 「七緒!」  ぼんやりと思考に耽っていれば、望んでいた声が驚くほど近くで聞こえる。 「ごめんな、遅くなって」 「……あ。圭介さん、仕事おつかれさま」  切望していた相手が眉を下げて、目尻や耳朶に触れてくる。 「こんなに冷えて! 寒かったよな。室内で待っていればよかったのに」  手のひらで両頬を包まれ、視界いっぱいに大好きな顔がある。じんわりと広がるあたたかさから、知らぬ間にかじかんでいた表情を溶かされる。 「大丈夫。そんなに待ってないよ」 「またそういう……じゃあ早くあたたまろう。七緒は何が食べたい?」  自然に絡められ引かれる手に、七緒はほわりと体温を上げた。 「やっぱり、弟みたいに思ってるのかな……」  自信のなさを表すように、語尾はちいさく消える。  引っ込み思案な七緒が一世一代の勇気を振り絞って告白したのだ。長年交友のある圭介が七緒の性格を知らないわけはないので、同情して頷いてくれたのだとしても否定できない。付き合ってもらって現状満たされているのは確かだが、どうしても『先』を望んで欲深くなってしまう。同時に積みあがる不安は天井を知らない。  自分には彼しかいないけれど、もしかしたら彼には自分以外がいるかもしれないとの考えが振り払えずにいる。 「……あのなぁ」  呆れた声を出されて、七緒は抱えた膝から顔を上げる。スーツからラフな部屋着に替えた兄がアルコールの缶を揺らしている。ひとり暮らししている彼の部屋に上がり込んでする相談は、やはり圭介のこと。 「ナイスバディなオネエサンが好きなお兄さまは、かわいい弟の性事情は知りたくないわけ。しかも自分の親友との。おわかり?」  さも興味なさそうに半目で、スマートホンを叩く指先には迷いがない。 「だって、圭介さんとのこと知ってるの、兄ちゃんだけだもん」  いくら多様性が認められるようになったとはいえ、さすがに明け透けに公言できる関係ではないことはわかっている。彼には社会的な立場もあるし、さらに年がひとまわり以上離れているのだ。兄のほかに誰へ相談すればいいのか見当つかない。  もしかしたら手を出してもらえないのは、圭介の認識の中で自分はまだ夏祭りの迷子から成長していないのだろうか。たどり着いた仮説に、息を呑んでひとり青くなる。 「……や、やっぱ、いぃ」  これ以上、彼に幻滅されたくない。カラカラに乾いた口で絞り出せば、兄から気がなさそうな視線を寄越される。 「わかった、わかりました! どうせアイツに直接言えないだろ。兄ちゃんに吐き出しちまえ。酔って気分がいい今回だけ、特別無料サービス。次回からは有料となりまーす」  一転明るい声で茶化しつつ親指と人差し指で丸を形作り魅惑的なウインクして、迷う七緒の背を押す。 「ひどい。金欠なの知ってるくせに!」  親からはアルバイトの許可が下りているのに、なぜか兄と圭介からは首を横に振られ未だ経験できずにいる。その代わりとして彼らから、多すぎる小遣いを与えられている。手は付けていないが。 「足りないのか?」 「兄ちゃんや圭介さんが一生懸命働いたお金、使えるわけないだろ! そうじゃなくて」  言葉を切って、七緒は散らばった考えをまとめる。 「なんにも持ってないからさ、オレ。頭もそんなによくないし、見た目もかっこよくないし。だから、圭介さんに『いらない』って言われたらどうしようって」  心に巣くっている不安を吐露(とろ)すれば、二人の間に痛いほどの沈黙が流れる。言わなければよかったと七緒が後悔を滲ませるころ、瞠目していた兄がようやく口を開く。 「…………『いらない』?」 「そう、いらない」 「……だれが?」 「圭介さんが」 「……なにを?」 「オレを」  自分で話したのに、再認識して勝手に落ち込む。 「……圭介が、七緒を、いらない?」  だいぶ酔いがまわっているのだろうか。ひとつひとつ確認してくる兄に、一抹の不安を覚える。 「ないだろ」  キッパリ言い切られ、嘘つけと涙目になる。 「アイツ、七緒にデロッデロに甘いだろ」 「確かに甘いけど、兄弟みたいな感覚でしょ?」  自分の欲しい恋愛と、圭介から与えられる親愛や兄弟愛に近いものとは違うと思うのだ。  缶を置いて腕組みをした兄は一度唸って、再び七緒を見やる。 「もうすぐ誕生日だったよな」 「うん、来週に十八」  急に飛躍した内容に目を丸くしながらも素直に答える。そういえば、圭介に出会ったのも彼がその頃ではないだろうかとぼんやり考える。当時幼児であった自分にはずいぶん大人びて見えたが、いざその年になってみて思いのほか中身も外海も成長していなくてガッカリしてしまう。まあ圭介はずっと大人なので、残念ながら十五年の距離は縮まらない。 「もしも、だが」  いい置いて、兄は人の悪い笑顔を向ける。その横で指で弾かれテーブルを滑るスマートホン。 「今の七緒が、三歳の男の子に出会ったとします。十年以上大切にたいせつに、ずっと見守っていられるかって――おお、新記録」  忙しないインターホンの音と扉を叩くけたたましい音が響き、兄へ言葉の意味を問う前に七緒の意識は持っていかれる。 「七緒!」 「圭介さん? 兄ちゃんのところに居るって、よくわかったね」  先日の待ち合わせの時とは比較にならないほど、息せき切って飛び込んできた恋人に目を丸くする。 「近所迷惑だな。苦情言われるの俺だぞ」  ぼやく兄の声はかき消され、大好きな人を認めた七緒の心拍数は跳ね上がる。大丈夫、先ほど漏らした不安は圭介には伝わっていない。勝手に秘密を作って後ろめたい気もするが、そっと隠す。 「七緒帰るよ!」 「どこに帰るつもりだよ。俺も保護者だぞ」  強く抱きこまれて驚くほど近くに、圭介の体温を感じる。見上げた先では、珍しく焦った表情の恋人が。 「あー、あー、痴話ケンカはよそ行ってやってこい」 「え、あの、ケンカじゃ――」  振り返ればヒラヒラと手を振っている兄の姿に、玄関の扉を閉める音が重なる。 「――泣かすなよ、ヘタレめ」  苦笑混じりの言葉は、嵐のように去った七緒たちには届かなかった。  混乱のまま七緒が連れられた先は、自宅ではなく圭介の部屋だった。照明をつけて、かろうじて部屋の温度を調整したところで体重をかけられて、二人でフローリングへ座り込んでしまった。 「どうしたの? 寒いなら室温上げる?」  後ろから隙間ないほどに抱きつかれて、困惑しかない。七緒の肩口に埋められた頭に問うが反応はなく、むしろ腹部にまわされた腕の力はさらに強くなる。  困った。困ったが、実は嬉しさもある。圭介からこんなに長時間、密着されたことはない。七緒から引っつくことはあるが、それも一瞬だ。 「七緒、ななお……」  なんども呼ばれて、くすぐったくなる。慣れているはずの自分の名前が、まるで尊いものに聞こえる。 「ここにいるよ」  安心させるように囲まれた腕に触れば、今度は手首を握られる。平に親指を差し込まれ指を開くようにして、大きさの違う手の平が重ねられる様を眺める。成長しているはずなのに、彼の手に包まれてしまう。 「圭介さん?」 「七緒、愛してる」  耳介を食まれるようにして低く囁かれ、ブワリと身体が熱くなる。 「……え、ぇ、あの? ど、したの?」  突然の告白にアタフタしてしまう。  いったん引こうとするが互い違いに指を絡められ、新たな熱を生む。さらにそのまま長い指先で、羽毛のようなやわらかなタッチで甲を撫でられる。 「好きだよ」 「……え、え? いっ、ひゃぁア!」  うやうやしく掲げられた手は逃げられず、指のつけ根に口づけられる。ついでチリリとした痛みとともにつく痕。 「……あ、」  その指は。誓いのリングを通す場所。 「指輪を贈っていいかい」  疑問の形ではあるが、圭介の中では決定事項らしい。壮絶に妖艶な流し目も送られ、甘いしびれが背筋を走る。  掛けられる言葉も、与えられる感覚も、視覚からの情報も、すでに七緒にはキャパオーバーだった。上手い返答もできず、火照った顔でちいさくうなづくだけ。 「俺には七緒だけしか『いらない』よ」  まるで謎解きのようにヒントをちらつかされ、回転の鈍くなった頭で遅れて気づく。 「なん、なんで知ってるの?」  兄に相談していたあの場に圭介はいなかったはずだ。 「やり取りを通話で寄越してきた。『七緒が高校卒業するまでは手を出すな』ってくぎ刺され続けたから、こじれたことに関しての一種罪滅ぼしだろうな」  脱力してしまう。自分のあの悩みはなんだったのだろう。 「ずっと見てきたのは七緒だけじゃないよ。俺も。不安にさせたのは俺の力不足だけど、これから、もっといっぱい話をしよう」  緩んだ気に、涙腺も緩んだらしい。目尻に唇を寄せられ、ついばむようにして拭われる。 「七緒、誰よりも愛してる」 「圭介さん、すき。大好き」  未だ繋がれたままの手を引き寄せ、彼の指にキスをする。教会でもなく、立会人がいるわけでもないが、神聖な儀式の指輪交換のように。 「ねえ、オレも圭介さんとギュッてしたい」  ずっと後ろから抱きしめられるのは心地いいのだが、どうせならば顔を見て語り合いたい。 「今はダメ」  すげなく断られ不満気味に振り仰げば、たぶん自分と同じくらいに真っ赤な顔の男前に出会う。なるほど。 「これ以上俺の理性を試さないでくれ」 「手出していいのに」  待っている。むしろこちらから行動を起こした方が、スムーズに事が運ぶのではないかと七緒は思案する。 「今まで何年もかかったから、それを考えたら一瞬だよ」  だから頑張ると、語尾の不安定な誓いが耳元で紡がれる。 「圭介さんはショタコンなの?」  噎せて激しく咳き込む背後を気にしながら疑問を重ねる。 「十八歳の時に三歳を好きになったの?」 「どこでそんな言葉覚えたんだ……確かに七緒と会ったのはその頃だけど、恋愛的な意味で好きになったのはもっと後だし、七緒だけしか愛おしいと思わない」  言い切られて、一度は落ち着いていた熱が燻りだす。 「うん。ずっと一緒にいよう」  繋がれたままの手を握り返して、しあわせな気持ちで恋人にもたれた。

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