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ハンガーに掛けられた詰襟を手渡してやると、体を起こした葵はゆっくりと身支度を整え始めた。 袖を通し、ボタンを一つずつ留めているだけだというのに、何故か目が離せない。形良く切り揃えられた爪が金色のボタンを摘む、なんてことないはずの仕草が艶っぽく見えるのだ。 どうかしている。試験中に頭から離れなかった妄想と、そして美智に何かをされて体を火照らせた葵を目の当たりにしたせいだ。 「明日も辛かったらここで受けて構わないよ」 保健医にそう声を掛けられ、葵は静かに頭を下げた。白に近い金色の髪がさらりと揺れる。 葵が帰国し、颯斗がその世話役に任命された際、両親から言い聞かせられたことがあった。葵の個人的なこと、特に母親に関しての話題は、葵本人にも馨にもタブーである、と。特異な容姿のことも当然その括りに入る。 葵の母親の情報を、颯斗はよく知らない。ただ何か大きなトラブルがあって、馨が半ば追い出されるように日本を出て行ったのだとは、親や親戚たちの会話から察していた。馨が葵を連れて行くかどうかも当時一悶着あったらしい。 しばらくはそれなりに安泰だったようだが、馨が帰国してからというもの、藤沢家のトップである柾との揉め事が派手になり、周囲は振り回されてばかりいるらしい。 颯斗はこうして葵の面倒を見るようになるまで、藤沢家の事情に興味など全くなかった。自分は絶対に秋吉家の慣習に捉われず、自由に生きていくと決めていたからだ。 今もその気持ちは変わらない。こうして葵の傍にいるのは高校の間だけ。三年間の辛抱だ。そこから先はもっと別の優しい誰かが葵の面倒を見てやればいい。 「颯斗」 こうしてどこか甘えるような声で名を呼ばれ、肩に凭れかかられる。下校中、自然と増えたこんな触れ合いも、いつか終わる。 揺れる車内で颯斗に頭を預けて眠る葵。本来なら、不安定そうな肩を抱いてやったり、膝の上に寝かせてやったりするべきなのかもしれない。でもこれ以上はダメだ。 ほとんど口を利かない運転手が時々バックミラー越しに視線を投げてくるのがわかる。颯斗が少しでもラインを越えたら、きっと即座に咎められるだろう。この場で指摘されずとも、彼の主人である馨に告げ口されるのは間違いない。 いっそクビになってしまおうか。そんなことが頭を過ぎる。 ここで葵にキスでもすれば、颯斗は世話役として即刻解雇されるはず。そうすれば失われかけた高校生活を取り戻すことができる。 静かな呼吸を繰り返す桃色の唇。奪うのは簡単だ。少し近づければすぐに重ねられる。 でも颯斗に出来たのはそこを見つめることだけ。ぼんやりしているうちに車はゆっくりと停車してしまう。エントランスではこの家の使用人が葵を出迎えるために待ち構えている。 学校では颯斗が常に付き添うことを命じられているように、それ以外の場所では誰かしら大人が葵に付き添っている。見守っているといえば聞こえはいいが、これは実質監視だ。葵に自由などない。 「また明日」 息苦しそうな生活を送る葵に別れの挨拶を投げ掛ければ、ただ頷きだけが返ってきた。

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