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第61話

 莉音は小刻みに震えはじめた足で床を踏みしめた。秀帆が何かにつけてかまってくれるのは学年の垣根を越えて馬が合うからで、その範疇(はんちゅう)を超えた好意が隠されているのかも、と幻想を抱くのは厳禁だということくらい、ちゃんと(わきま)えている。 「来年の今ごろになれば実感として理解できるよ。受験生が動揺する言動は慎むこと」  口調は穏やかでも、目つきは仇敵へ向けるそれのように険しい。  誰かに恋するのは自由でも、想われて素直にうれしいと思うか、押しつけがましいと感じるか、それは相手の勝手だ。  秀帆は反動をつけて引き戸から背中を剝がした。それから呑み込みの悪い生徒に、数学の基礎を嚙みくだいて教えるように、ゆっくりと言葉を継ぐ。 「僕はLGBTQの派生形A──アロマンティック・アセクシュアルだと言わなかったっけ? 同級生の類いにも、アニメや漫画の登場人物にも恋愛的な意味で惹かれたことがない、思春期を迎えてもセックス全般に興味をそそられた試しがない人種だ、と。病み発言と、ひかれても仕方がないのに浅倉の反応は違った」  教室の中央へと歩を進め、陳列台を挟んで莉音と向かい合ってからつづけた。 「『人それぞれですから、っていうか先輩の個性でしょ』」  射すくめられて、ぎくしゃくとうなずき返した。忘れもしない昨秋の、ある放課後のひとコマだ。タペストリーの制作に取りかかる第一段階として、さまざまな形のピースに布を切り分けながら雑談を交わしていたさい、探りを入れる狙いのもと、それとなく会話の流れを誘導していった。  源氏物語の昔から、いつの世も恋愛がテーマの創作物が人気を博してきた理由は、恋慕の情が生きる原動力となる面があるせいだろうか──云々。  それに対して秀帆曰く「恋愛感情は脳の司令系統に混乱が生じたため生まれるもの、あるいは性欲を美しく言い換えた代物」。  下ネタはもとより友人の恋バナに共感できない、それ以前にラテン語並みに理解不能の分野だと悟って、秀帆はこう結論づけた。自分とマジョリティーの間には越えがたい壁がそびえ立っている。  ためしに心理学方面のサイトを閲覧しまくってみると、似た事例があるわ、あるわ。自己診断シートに印をつけていき、自分がアロマンティック・アセクシュアルに属する確率が百パーセント近いという結果が出て腑に落ちたとのこと。  あたかも真贋(しんがん)のほどが長年、論争の種だった絵画がまぎれもなく本物だとお墨付きが得られたように。  莉音は自分語りに耳を傾けている間中、どきどきしっぱなしだった。アイデンティティの根幹をなす領域に踏み込んでさらけ出してくれるのは、信頼の証しだ。ただし禍福を併せ持つ。失恋確定と書いてあるカードを引いたに等しい皮肉ななりゆきに、涙がこぼれるより先に嗤えた。  折しも木枯らしが吹き荒れて、枝に残った葉っぱをもぎ取っていった。いつかは秀帆と両思いに、という夢をぶち壊すように──。

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