71 / 116

第71話

「たりぃし、送らねえから」  三神が本棚の横に寝転がったまま、ひらひらと手を振った。 「夜道で痴漢に襲われる女子じゃねえから」  そう言い返すと、莉音はスニーカーを履いた。浅倉家のルールは小まめに連絡すること。母親はLINEしても既読がつかない状態にカリカリきているはずで、スマートフォンの電源を入れるのが恐ろしい。 「あああ、童貞を卒業しそびったな」  背後で、欠伸混じりに発せられた科白に意表を衝かれた。振り向き、とぼけた顔をまじまじと見つめた。 「……はあ? 慣れてるっぽかったじゃん」 「いつ何時ラッキーエッチにありつかないとも限らないからな。予習しとくのは男のたしなみ」  指を用いた交尾を意味する符牒を掲げて見せるさまに〝地獄に堕ちろ〟のサインでやり返す。そして表に飛び出すと、共有廊下を駆け抜けた。外階段も駆け下りて、ところが集合ポストの傍らをすり抜けるさい呼び止められた。しぶしぶ階上を振り仰ぐと、 「気をつけて帰れよ。また、あした、な?」  すらりとした人影が手すりから大きく乗り出す。うなずき返すのももどかしく住人専用の駐車場を突っ切った。    小走りで遠ざかる後ろ姿が曲がり角の向こうへ消え去ったあとも、三神は玄関先にたたずんで微動だにしなかった。やがてヘッドライトが闇を切り裂き、それで呪縛が解けた様子でドアをくぐった。 「くそ……っ!」  三和土(たたき)に漂う残り香は、忸怩(じくじ)たる思いを抱かせるに十分だった。〝ラッキーエッチ〟に飛びついた狡猾な自分を罰するように、がつがつと壁に頭を打ちつけた。  その十数分後、莉音は電車に揺られていた。畳にこすれた部分をミミズ腫れが縦横(じゅうおう)に走り、とんでもないことをしでかして、と咎められているようで、うつむいたっきりだった。  マル秘の理由によりシャワーを浴びてから帰宅する、こっそり酒を飲む。高校生の立場では、どちらの罪がより重いだろう。  眠れない一夜を過ごし、東の空が(しら)んでくれば、美しく晴れ渡って文化祭日和だ。  告白がらみのほとぼりが冷めやらぬうちに、秀帆と校門でばったり、という事態に直面したときは、どんな表情(かお)をして挨拶しろと? のろのろと制服に着替えながら文部科学省を毒づく。忌引きに倣って失恋休暇を制定しておくくらいの親切心はないのか。  仮病をつかって学校をサボりたいのは山々だが、自分を甘やかしたらなおさらミジメになる。絞首台にのぼる思いで学校へ向かう途中、乗換駅でいつものとおり伝言板を見にいった。すると仮称Xはわざわざ持参したものだろうか、今朝は青いチョークでメッセージを残していた。 〝泣き明かしたかもしれない、きみへ。スノードロップとアイスランドポピーと、それからヒナゲシの花束を贈る〟。 「おれに宛ててっぽくてツボにはまりすぎなんですけど……?」  呆然と呟き、何度も読み返した。偶然の一致にしては昨日の今日だ、玉砕した現場に居合わせたかのように核心に迫る言葉の羅列だ。どちらかといえば地味な部類に入る花の名前を列挙したということは、深い意味が隠されているに違いない。  直感が働いて花詞(はなことば)を調べてみた。順番に〝逆境の中の希望〟〝慰安〟〝慰め〟──。

ともだちにシェアしよう!