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第106話

 かくしてトンボ返りに成功したまでは上出来だったものの翌朝、寝坊した。  仮称Xとじかに言葉を交わしてみたら、うぬぼれ屋だったり病み系だったり、といった人間性に幻滅するかもしれない。うじうじするのはもうやめだ、三神宅を急襲しておれと一から出直す気があるか問いただしてやる──。  あれこれ考えていると目が冴えて、うとうとしだしたのは丑三つ時。それが祟って、四時にセットしてあったアラームを夢うつつに止めてしまった。  跳ね起き、チェスターコートとマフラーを引っ摑んで家を飛び出すころには冬晴れの空が眩しい。  ここ一番という日に寝過ごしたばかりに仮称Xの正体が永遠の謎に終わったら、悔やんでも悔やみきれない。通学時の乗換駅に電車がすべり込み、ドアが開きはじめるなり、躰をこじ入れるようにしてホームに降り立った。  改札口へとつづく階段を二段飛ばしで駆けあがる。仮称Xがちょうどチョークを手にしたところ、というツキに恵まれますように。日本には八百万(やおよろず)の神がみがひしめいているんだから、ささやかな望みくらい叶えてくれてもいいじゃん。  官民ともに正月休みに入り、構内は人影がまばらだ。今年最後の大博奕(おおばくち)を打つ思いで改札を抜けて、連絡通路を斜めに突っ切る形で反対側の壁へ。  三枚ひと組の観光ポスターがでかでかと貼られた横に図書館の返却ポストが置かれていて、その上方に掛かっている伝言板の前に、背中を向けてたたずむ人を見いだす。  はらりとマフラーがほどけて垂れ下がった。莉音は巻きなおすどころか、呆然と立ち尽くした。まさか、ありかも、詐欺だ、ある意味納得──。  構内放送が流れて我に返った。きゅっとマフラーを結んで踏み出す。  目撃情報を総合すると仮称Xは翔陽高校の二年生で背の高い男子。条件にぴたりと当てはまるというのに、バイアスをかけて彼のことは候補者から除外した。幸せの青い鳥を求めていろんな国を訪ね歩いた物語さながらの結末を迎えて、苦笑がこぼれる。  フィナーレを飾るメッセージが名残を惜しむように一字一字、今しも丁寧に綴られていく。 〝顔も名前も知らない、だけど親愛なるきみへ。かぎりない感謝を込め……〟。 「〝と〟の曲線部分が丸みに欠ける特徴が共通してるんだ。〝スノードロップとアイスランドポピーとヒナゲシの花束を贈る〟──三神が書いたんだよね」    チョークが指を離れて、吊り紐でぶら下がった。  莉音は伝言板と並べてスマートフォンを掲げた。スノードームの完成された世界が崩壊したのにも似て、恋心が儚く散った翌朝に撮影した画像を拡大すると、 「〝泣き明かしたかもしれない、きみへ。スノードロップとアイスランドポピーと、それからヒナゲシの花束を贈る〟」  あえて淡々と読みあげた。余韻を愛おしむようにひと呼吸おき、それから打って変わって熱っぽく言葉を継いだ。 「バッキバキに折れた心にギプスをはめてもらったくらい効いたんだ。座右の銘だっけ? あれっぽいみたいな」  広い肩がぴくりと跳ねた。証拠湮滅を図るように〝親愛なる〟を掌が()いだあとで、観念したといいたげに三神がぎくしゃくと振り向いた。  むすっと眉根を寄せて、だが、お年寄りに電車の席を譲ったところを見られたように決まり悪い、と貧乏ゆすりに下肢がもぞつくさまが雄弁に物語っていた。

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