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1.「死ね」と言われて8

 言葉を濁したあと、お兄さんがフッと視線を外した。  あ、ヤバ……。越えちゃいけないラインだったか。  僕の馴れ馴れしいタメ口はOKで、職業はNO……どういう基準なんだろ。  確かに、今日初めて会った人に何もかもをさらけ出す必要は無いし、言いたくない気持ちも分かる。でも逆を言えば、今日でサヨナラな間柄なんだから別にいいじゃんって、未熟な僕は思ってしまった。  上着を返そうとして拒否られた時にも思ったけど、お兄さんは何だか謙虚が過ぎる。  僕の勘違いに爆笑してた人とは思えないくらい、冷静になった今はこんなにも穏やかに喋るんだもんな。  ……かと思えば、ペットボトルを握りしめて僕をチラチラと見てくる辺り、お兄さんの方は何やら聞きたいことがありそうだ。  そう直感した矢先、案の定お兄さんが口を開いた。 「えっと、こんなこと聞いていいのか分からないんですけれど……」 「うん、何?」 「なぜ君は、あそこに?」 「あー……」  まぁ……気になるよね。年齢を明かしちゃったから、もっと「なぜ」が深まるのは当然だと思う。  未成年がこんな時間に、あんな所に居ていいわけない。  何かよっぽどの理由があるんだろうと、僕に助けられたお兄さんも同じ目的があったからこそ不思議でたまらないんだ。  僕は、本当のことを言うべきかちょっとだけ迷った。  ウソをついたってしょうがないのは分かってるけど、「そんなことで?」と言われかねない理由だから。  ただ、……今日でサヨナラする人だし、いっか。呆れられたら、そのときはその時だ。 「……付き合ってる人に「死ね」って……言われたから」 「えっ!? そ、そんな……っ」 「でもね、それは僕も悪いんだ。リスカ常習犯だから」 「……リスカ……?」 「リストカット。これの事」  耐性の無い人にはドン引きの証を、理由を聞いてすでに目を丸くしてるお兄さんに見せた。  左の袖口を捲って、縦にズラッと並ぶいくつもの切り跡。柔らかいところは横長く、手首の方は短いけれど深い傷痕だ。何時間か前に切りつけた新しい傷も、ちゃんと残ってる。 「こ、これを……自分で……?」  お兄さんは目を見開いて、僕の左手を何か大切なものに触れるように両手で包み込んだ。  表にしたり裏返したり、普通の人は嫌悪するそれをお兄さんはまじまじと見ている。  ちなみに親指の付け根に二つ、手の甲には一つ、根性焼きの痕もある。これは断じて、僕が付けたものじゃない。 「そう。なんかね、気付いたらやっちゃうんだ。感情が制御出来なくなって」 「じゃあ、これは? 丸いですよ? それに焦げたような痕がある」 「あ、そっちは違う。昔の……なんて言うのかな。古傷?」 「…………?」  リスカの痕を優しく擦ったあと、眉を顰めたお兄さんが根性焼きに気が付いた。  誰がいつ、どんな時に、無抵抗の僕にこれを付けたのかなんて思い出したくもないことだけど。  鬱っぽく言うと、このお兄さんはめちゃくちゃ心配してきそうだから、僕は頑張って平静を装った。 「お兄さん、根性焼きって知ってる?」 「言葉は知っていますが……」 「タバコの火が付いてる方、分かる? それをここに、ジュ〜ッて」 「えぇっ!? で、でもこれ、古傷って言いましたよねっ? いったいいくつの時の……っ」 「六歳? 七歳? くらいかな」 「そんな……」  愕然としたお兄さんの反応は正しい。  当時の僕には、これがいかにおかしな事なのかが分からなかった。むしろ痛いことをされるのが普通だって。  施設の先生と初めて会った時、僕が一番最初に教わったのは〝今までのことは忘れなさい〟だった。  僕はワガママな子だから、かわいくないから、悪い子だから──そう言われ続けてきたのに、いきなり忘れろなんて変な先生だとすら思ってた。 「…………」 「…………」  一度記憶の蓋が開くと、つい無言になっていけない。  話題を……早く話題を変えないと、僕の手を握って離さないお兄さんの眉間が、大変なことになっている。 「ま、まぁまぁ、僕の話はいいよ。お兄さんはどうしてあそこに居たの? 人生順風満帆って感じだけど」 「いや……そんなことないよ。全然、……そんなことない」 「そっか。やっぱり人は見かけによらないよね」  他人の顔色を窺うばかりだった僕の、唯一の長所が発揮された。  お兄さんは、言いたくないことや話をしたくない時、さり気なく視線を逸らすクセがある。  僕の身の上話なんかよりお兄さんの〝話せないこと〟の方が重みがありそうで、何がお兄さんをそこまで駆り立てたのかすごく気にはなったけど、ひとまず引いておいた。  まったく知らない人同士の僕ら二人ともが、生きてここに居るんだ。  少しの時間差でそれは叶わなかったかもしれないと思うと、理由なんかどうだっていい。  お兄さんは「命を助けてくれた」って言い方をした。それで充分。 「何があったか、聞かないんですか?」 「ん〜だって言いたくなさそうだもん。仕事関係だったら余計に話せないでしょ? 別にいいよ、死にたい気持ちが〝もう少しやってみるか〜〟に変わってくれたら」 「…………」  お兄さんは、未来が少しも見えない僕とは違う。なんにも知らないけど、そんな気がする。  だから頑張ってほしいと思った。  思うだけで、言わないけど。  追い込まれてる人間への「頑張れ」は、禁句中の禁句だって僕は知ってるから。

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