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4.戸惑いつつも3
◇
淡白そうなりっくんが見せた突然の雄味は、僕の十九年の人生の中で一番インパクトがあった。
あ、あんな……あんな、漫画でしか見ないようなこと、誰にもされたことが無くて。
すぐ真上にまで迫っていたりっくんの顔が、二日連続で夢に出てきて。
窒素しかけて飛び起きたら、ベッドから転げ落ちて一昨日は頭、昨日は背中を打った。ちなみに今日は転げ落ちる寸前で目が覚めたから無傷だ。
買ってきてくれたお惣菜の味も、翌日のお弁当の中身も、何も覚えちゃいない。ソファに隣同士で座ってご飯を食べる、そんないつもの光景が落ち着かなかった。
それもこれも、りっくんの悪ノリのせい。
あの時のりっくんはキスを迫る男の顔をしていた。……気がする。
僕なんかに欲情するわけないし、今まで少しも下心を感じなかったんだから、いきなりのアレは僕がビビるのも無理もないと思う。
夢にまで見るくらい衝撃的な出来事だったっていうのに、あの時クスクス笑ってたりっくんは普段通りなんだよ。
何がそうさせたのかは分からないけど、りっくんはほんとに僕を揶揄っただけ。
楽しみにしてた駄菓子を食べられないどころか、リボン結びも解けないでいる僕はりっくんの顔をまともに見られなくなった。
「りっくんがハイスペ男子すぎるんだよぉ……っ」
生活リズムが改善された僕は、間一髪で転げ落ちなかったベッドからズルズルと滑り降りて悶えた。
それから、約束のお出かけの日の今日、朝一番に迎えに来る予定のりっくんに僕は初めてワガママを言った。
だからなのか待ち合わせの九時よりかなり早く、りっくんが家に帰ってきたんだ。玄関前から聞こえてた足音からして、文字通り大慌てで。
「……っ、冬季くん! 具合でも悪いんですか!?」
歯磨きをしていた僕を見つけたりっくんが、必死の形相で現れた。恒例の「おはよう」と言う間もなかった。
「う、ううん、全然。なんともないよ」
「それならどうして「今日は引きこもりたい」だなんて……!」
「え……っ」
りっくんが僕のおでこに触れた瞬間、ドクンっと心臓が鳴った。「熱はありませんね」と呟くりっくんを見上げて、よくない思いを抱いた僕はぷるぷると頭を振って逃げる。
そして僕は、マズイことに気が付いてしまった。
奥さんが隣に居るかもしれない状況で、〝りっくんゴメン、今日は引きこもりたい〟なんてメッセージをりっくんのスマホに送っちゃいけなかった。
まさかそのメッセージから三十分も経たずに飛んで来るとは思わなくて、むしろ僕は〝今日のお出かけはやめとこう〟って意味で送ったはずだった。
朝早くにりっくんのスマホが鳴って、メッセージを読んだ途端に家を飛び出したとなると、奥さんは絶対怪しむ。
……しくじった。
僕が率先して自分の存在をバラしちゃうような真似したら、りっくんに迷惑がかかるじゃん。
「えっ、冬季くんっ?」
りっくんの脇をすり抜けて、僕は窓辺に急いだ。
いつもりっくんの車を見送る特等席から、怪しげな車……もしくは人影がないか、目を光らせる。
もしりっくんの奥さんがあとを尾けてきていたら、世にも恐ろしい修羅場の始まりだ。
「……居なさそう、かな……」
追いかけてきたりっくんも、僕の真似をして遮光カーテンを引く。でもりっくんは、僕が何を警戒しているか分かってないからキョロキョロするだけだった。
とりあえず怪しい人影と車が無いことを確認して、せっかくりっくんが開けてくれた遮光カーテンを僕が元に戻す。
リビングに射し込んだ朝陽はほんの数秒で遮断され、室内がまた薄暗くなった。
「……冬季くん? いったいどうしたんですか」
挙動のおかしな僕をソファに座るよう促したりっくんは、当然ながら訝しんでいる。
いやいや、どうしたも何も、最優先すべき奥さんをほったらかして飛んで来たりっくんが信じられないよ。
自分から好きになった人はいないって即答したりっくんの頷きが、信憑性を帯びてきた。
「冬季くん」
「…………っ」
大丈夫ですか、と心配気に顔を覗き込んでくる、優しいりっくん。だけどバチッと目が合ってすぐに逸らした僕は、ものすごく分かりやすい。
つい三日前まで、僕はりっくんの目を見つめ返せていた。丁寧な喋り方と上品な見た目に合わない「俺」っていう一人称のチグハグさを、ケラケラ笑って面白がる余裕だってあった。
りっくんのことを、単に親切だけど変わったお兄さんだとしか思ってなかったから。
それなのに今は、少し触れた二の腕にも緊張する。
なんで? りっくんが隣に座っただけだよ。
僕がおかしな行動を取ったから、りっくんは心配してるだけなんだよ。
「冬季くん、本当にどうしたんですか。何かあったのなら話してください。悩みを心に溜め込んではいけません」
「い、いや……そうじゃなくて……」
「それとも、俺のことが気味悪くなってきました? 軟禁してる、なんてふざけた冗談を言ったから……」
「違うよ!! ……違う」
そんなのはまったく気にしてない。
問題はその時の状況と、揶揄うにしてはあまりにも真剣だった雄の目。
りっくんを拒否ってるとかではない。
全然、……そんなのじゃなくて……。
僕にも分からないから、何かを溜め込んでるわけでもないんだ。
じゃあどう言えばいい?
今日のお出かけをやめたいと思った理由も、僕が勘付いてるりっくんが話したがらない事情も、どっちも言えないんだから明確になんかならないよ。
「あ、あの、……ちゃんと話をしなきゃなって、思って……!」
隣からビシビシ感じる視線に応えるためとはいえ、咄嗟に出たのは身を削る自分語り。
誰も笑顔にならない僕の過去話で、怪訝な表情を崩さないりっくんの意識を逸らせればいい──。
突発的にそう考えた僕は、この時すでに運命のいたずらが始まっていることに気付いていなかった。
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