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狂気のおままごと

それにみーちゃんが気をよくしたのか、きゃっきゃと喜び、いつも肩から下げている幼稚園バックから手術セットを取り出した。 「はぇぇえあぁあ!?」 演技ではなく、本気で悲鳴を上げたのは思いつく限りでは初めてだった。折り紙でできた薬袋、銀紙を割り箸に撒いた細長い棒、洗濯バサミ、セロハンテープ。 そして鋭くとがったガラス片。 順々に並べていったそれらのうち、恭しく幼児の手に握られたそれは、窓の隙間から入ってくる日差しを浴びてキラキラと反射していた。こんな状況じゃなかったら僕もはしゃいでいただろう。 「うごかないで!」 「きいち君男の子でしょ!」 「僕今は女の子でいい!」 「ちくってしますよー!」 「おなかみしてくださいねー!」 「ひょわわわわ」 3対1には勝てるわけもなく、無慈悲に服をぺろりとめくられ、ぽこんとしたおなかに鋭利なガラス片が当てられる。 そこから先はもう修羅場だった。主に幼稚園の先生が。 たまたまお迎えが来たことを知らせに来た先生が目にしたのは、微笑ましい御飯事を装った狂気の現場だ。 何故なら幼児特有の甘く高い声を上げながら 「切れないなぁ」 と僕のおなかの上でガラス片が擦りつけられていたからだ。 当然先生は悲鳴を上げるし、悲鳴に驚いたみーちゃんは変に力が入り、僕のおなかの中心を真横一文字に切りつけた。 僕はというと、慌てて駆け寄ってくる先生の顔が怖すぎて泣いた。そしてみーちゃんは僕のおなかが切れて赤い血が出たことに動揺して泣いた。 押さえつけてた二人は、僕たちが泣いてたので、つられた様に泣いていた。 子供たちもなんで先生が今までにないくらい怒っているのかもわからないまま、先生たちは慌ててガラス片を取り上げて僕とみーちゃんを引き離した。 先生の熱い手のひらで簡単に持ち上げられた僕は、改めて自分のおなかにひかれた赤い線を確認し、そして先生の表情の抜け落ちた怖い顔を見上げて恐れ慄き、僕の下半身も大泣きした。             「これは子供がしたことだからで許される範囲なのでしょうか。」 淡々とした口調で問いかけるのは、母だ。 「少しばかし血がでた位なのですぐにかさぶたになると思います。」 母の目前には、園長先生によって呼びつけられたみーちゃんの両親が座っていた。 園長先生は、なぜこんなことに…といった青ざめた顔で石のように固まっていた。 「少し、ばかし?」 かちこちと、やけに鮮明に時計の音が部屋に響く。僕は園長先生からもらったプリンをまぐまぐとご機嫌で食べながら、この退屈な時間が早く終わればいいのになぁとのんきなことを考えていた。 「医者の見解なんか求めてもいないし、見りゃわかるわ。何故お前は先に謝罪をしないのか。」 いい忘れていたが、母は若い頃ぶいぶい言わせていた口だった。比喩表現ではなく、マジで、物理でもぶいぶいだった。 そんなアウトローを漉して煮詰めてどろどろになったジャムの瓶の蓋がかぽんと音を立てて外れるとどうなるか。 僕はスプーンから口を離して母から少しだけ離れた。 「ひぇっ」 それはもう流れるような自然なスピードでみーちゃんパパのネクタイを締め上げて引き寄せた。 本気のメンチは頭突きをしてからと言っていたので、まだ本気ではないのだろう。 「こ、ここっ今回はうちのみずきが申し訳ありませんでした。」 「俺にじゃない、うちの子に謝罪しろ。」 「おかあさんからめるいらない!」 「後にしなさい。」 蛇睨みとはこのことだったのか。母に真顔で見つめられ、居心地が悪そうにしながらも、僕にきちんと目線を合わせて、うちのこがすまないね、と謝られる。 おい大丈夫か、隣のママさん泡吹いてるぞ。 謝られている当事者の僕は、むしろ横で倒れそうになっているみーちゃんママさんが気になって仕方がない。 お母さんとお父さんの間に座っていたみーちゃんも、泣きはらした目で僕を見つめながら一言、ごめんね。と口にした。 だから僕も、いいよ。と一言答えたのだった。 この場の空気が地に沿うほど重過ぎなければ、幼児同士の微笑ましいやり取りだったに違いない。 とんだハプニングに見舞われたが、まるっと収まり大団円。傷も深くないし、ピリピリするくらいであまり気にならない。 僕はおやつにプリンも食べられたし、今日はなんだか僕は可哀想な子らしいので、ちょっとしたわがままも許されるんじゃないだろうか。幼稚園から帰る道すがら、我が母君がドスの聞いた声で呟いた 「蚊だったら致死量だぞ。」 というよくわからないたとえに、ほかの大人が戦慄したのも知らないまま、疲れてしまった僕は母に担がれてねこけながらおうちに帰ったのであった。 1週間後にみーちゃんがおうちの事情で海外に行くことになったときいたときは驚いたけれど、幼いながら変にませていたおかげか、母のとびきりスマイルで言われた 「大人の事情だよ」 という発言に対して、然して気にすることもなく、むしろ知られざるオトナノジジョ―というミステリアスな響きに甘く背筋を痺れさせたのである。          

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