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なんで分かってくれないの
それはある日の夜のことだった。
「こんの…、わからずや!」
「おわ、っ!」
ドスン!大きな音を立てて、ベッドの下に落ちたのは益子だ。
なぜ彼が愛しい番の葵によってベッドから叩き出されたのか、事の発端は少し前に遡る。
学校帰り、いつものごとく葵の住むマンションのインターホンを押した年下の番は、玄関を開けた葵の姿を見ると腰にその腕を回してきつく抱きしめた。
突然のヒートで危うく最悪な結果になるところを助けられ、不器用ながら少しずつ愛を育んで、ようやく番いになった二人だ。
項を噛んだあとも、こうして解りやすく愛情表現をされるのは、まだ照れる。
葵は遠慮がちにその背に手を回すと、すり…と額をその棟板に擦るようにしてすり寄った。
「はぁ、癒やされる…」
「ん、おかえり。」
この出迎えの一言でさえ気恥ずかしいのだ。近い将来なのだが、もし同じ屋根の下同じ日常を過ごすことになったら、自分の心臓は持つのだろうか。すん、と番のかすかに香るその匂いを追いかけるように顔を上げると、髪を耳にかけるようにして唇に口付けをされた。
「たでーま。」
「飯くってく?」
「お、いーね。ガッツリしたの食いてぇなぁ。」
「ん、パスタならあるけど。」
「ならそれで、」
狹い三和土から続く廊下を拔けてリビングに向かう。肩が触れ合う近さで、前後に並べばスムーズなのに隣り合って歩く。ここに来るといっつもこうだ。益子は、リビングを抜けると葵の私室に向かい、我が物顔でタンスからスウェットに着替える。制服は椅子に雑にかけたまま、二人ででかけたときに購入した部屋着でリビングに戻ると、細い腰にエプロンを巻いてキッチンに立つ葵が見える定位置に座る。此処から自分のために料理を作る葵を見るのが好きだった。
「トマト、にんにく、ベーコン、あとしそとシメジがあるけど。」
「ならペペロンチーノかな、ベーコンカリカリでお願いしやーす。」
「はいはい、風呂入ってくれば?」
「それは後で葵と入る。」
ニコリと笑っていうと、髪をシニヨンに纏めていた葵が言外に意味を捉えて顔を赤らめた。
ああ、今日も俺の番はとても可愛い。体を重ねているというのに、いつまで経っても初な反応が出るのは、向こうも少しは期待してくれているのだろうかという自負にもつながる。
益子は少しだけ挙動不審になりながら平静を装う番に笑うと、空腹を訴える腹をなだめながらその様子を見つめた。
「ん…、っちょっと、まって…」
「うん?」
葵の手作りの、隠し味に柚子胡椒を混ぜたというペペロンチーノは最高に美味しかった。別に気にしないというのに、にんにくを食べたからという理由でハミガキをすぐにした葵に習って寝る準備を終えた益子は、愛しい番を組み伏せながら待ったをかけられていた。
「今日も…、しないの?」
「むしろ今から抱こうとしてる。」
「ちがくて…、ゴムだよ。しないなら、外に出してほしい…」
耳まで美味しそうな色に染め上げた葵が、おずおずと提案する。もちろん、最初は避妊具をつけていた。だけど番ってからは怠ることも多かったそれ。益子は葵を全身で感じるのに邪魔をするその薄い隔たりが好きではなかった。
「…しなきゃだめか?」
「だ、だって…赤ちゃんで来たら困るだろ…」
甘えるように抱きつくと、ゆるゆると抱きしめ返してくる腕がかわいい。妊娠を恐れる様子をみて、それが己のためだと言うことを理解するのに時間はかからなかった。
「なんで?俺は欲しいよ、葵との赤ちゃん。」
「それでも、まだ学生なんだからだめだ…」
「まあ収入でいうとたしかに心もとないかもしれねーけど、コンテストの賞金もバイト代もまるまんま貯金してるから少しはあるぜ。」
「ちが、そういうこと心配してんじゃなくてさ…」
葵と番ってからは散財することもなく、幸い卒業後の進路だって決まっている。一人くらいなら二人でもなんとかやっていけるだろう。しばらくは葵に金銭面を頼ることになるのはいただけないが、葵も子供が好きだということも知っていた。
そこじゃない、と言われると浮かぶものは一つしかない。
「なぁ、それってもしかして俺のことを心配してる?」
「…、だって…俺はほしいけど…だめだ。」
困ったように、また何かを我慢している。
葵が年齢差を気にしていることは知っている。ただそこはどう頑張っても埋まらない。だからこそ早いうちに安定をして、葵が遠慮などしないようにと奔走した。と言っても学生の身分でできることは限られている。
なので、自分ができることを模索した結果、コンテスト爆投賞金稼ぎプラス青田買いを狙った動きだった。
葵に憧れてはじめたカメラが手に馴染むまで時間はかかった。だからこそ結果が出て、認められることは嬉しいことだった。
「悠也の今後に、支障があったらいけないだろ…」
なのに、葵のために始めたそれを本人が気負う。
それがなんとなく嫌で、思わず乱暴に言ってしまった。
「俺のやり方なんだから、別に葵が口出すことじゃねえ。」
葵が気負うことなんかないよ、好きでやっているんだよ。そういう言葉を添える配慮が、益子には足りなかった。
「っ、」
大きな目を零れ落ちそうなくらい見開き、その瞳を濡らした涙の意味を、もう少しだけ慮れていたら。
「は、何泣いて…」
「こんの…わからずや!!」
「おわ、っ!」
益子を押しのけて起き上がると、濡れた目元を乱暴に擦って部屋を出ていってしまった。
ドスンという音を立ててその様子を床に寝転がりながら呆気に取られて見送った益子の頭を過ぎったのは、自分がどうやらやらかしてしまったということだった。
結局どんなにとりなしても、ムスくれた葵の機嫌が治ることはなく、初めて二人は喧嘩のようなものをすることになった。
葵はこうなると、頑固だ。せっかくの甘いひとときも、たったひとつの避妊具でここまで拗れるとは、やはりコンドームは好きになれそうにない。
お互いがもう少し話をしていれば、きっと起こることのなかったはずの間違いだ。
そして誠に不本意なことに、その日は何をするでもなく就寝。頑なにソファーで寝ようとする葵にキレた益子が抱き上げてむりやりベッドに寝かせて、そこまで嫌ならと自分がソファーで寝ることにした。
益子があからさまに不機嫌になったのは、家主がベッドで寝ないという意固地な態度についてだったのだが、初めてキレた益子の様子に更に怯えさせてしまったのだろう、おとなしくベッドについてからは泣きそうな顔をしてうつむく姿が見ていて痛々しかった。
あそこで抱きしめてやればよかったんだろうか。
喧嘩のようなことになってしまった手前、今は冷静になるべきと無視してソファーで横になってからは、ずっと後悔だけが頭を締める。
俺のことを心配してくれるのはいい、だけれどそれで自分が我慢するのは愛ではない。
葵は、わかっていると思っていた。だからこそ、その遠慮がちな様子が嫌だった。
どうしろというのだ。自分の足りない頭では、明確な答えが出せそうにない。
葵が見せた涙が、自分に向けてというのが気に食わなかった。
「あー‥もう、」
こんなはずじゃなかったのに。
オメガである葵のすべてを、わかっているつもりだった。
ふと、先走った行動で葵を怒らせた過去を思い出した。こうなったらやけくそだ。ダサくたっていい。
謝って許してもらうためにも、客観的な意見が欲しかった。
今日は金曜日で、土日と連休だ、期末も近い。丁度いい建前が目の前にあるのだ。
葵には悪いが、自分で納得するまでは少し落ち着こうと思う。
番の小さな泣き声を聞きながら、己の学生という枷を呪った。
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