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あべこべな足元
なんだかんだそのままソファーでしっぽりしてしまい、現在は俊くんのお腹の上でまったり中だ。
事後の生まれたままの姿で、俊くんのたくましい胸元にほっぺをくっつけながらうとうとする。
とくとくとなる俊くんの心臓の音が心地よく、上から聞こえる規則正しい寝息からして、俊くんも僕を抱っこしたまま寝ているようだ。
「んん、んむぅ…」
ふぁ、と欠伸を一つ。そろそろ起きて着替えないといい時間である。ほとんど俊くんの家に入り浸っているので、たまには家に帰ろうと思ったのだ。
俊くんのことを起こさないように、そっと起き上がって時計をみると、時刻は夕方の18時。
しょぼつく目をこすりながら、晩御飯でも作ってから帰るかとふらつく足に下着を通し、椅子に掛かっていた俊くんのパーカーを羽織った。
「んー‥、シチューかなぁ…」
ガコンと冷蔵庫の扉を開けると、使う予定だったのか鶏むね肉と牛乳、野菜室にはブロッコリーや、人参、じゃがいもが入っていたので、それらをキッチンのテーブルに置く。ルーは見当たらなかったが、バターと牛乳、薄力粉で作ることができるので問題は無い。
オカンとキッチンに立つことが多いので、実を言うとそこそこ作れる。俊くんの手料理も好きだが、たまには僕も作りたい。なんだかんだ初めて食べるんじゃないだろうか。手際よくルーからつくりながら、片手間にどんどん鍋に具材を放り込む。あらかじめレンチンをしておいた野菜たちは準備万端だ。ルーも出来ると次は鳥肉。
煮込むからあまり意味はないけど、皮から滲む油でカリカリに焼いたソテーを一口大に切って、あとから入れる。溶け出した油ににんにくと鷹の爪をいれたら、ほうれん草とコンソメ、塩コショウでソテーした。
鼻歌交じりにほうれん草のソテーを皿に盛り付けると、俊くんの好物のライ麦入りのパンをトースターにセットして焼く。仕上げにスパイス入りのガーリックバターを塗れば、朝ごはんみたいな晩御飯の完成だ。
「どれどれ…、っ」
シチューを一口、味見をしようとしたときだった。
ぐっ、と胃から競り上がって来るものに慌ててお玉を置くと、慌ててトイレに駆け込んだ。
「っぐ…ぅえ…っ…、っ…けほ、っ…」
縋り付くような形で便器に顔を突っ込むと、痙攣する胃に反して出てくるものはなく、胃がギシギシと悲鳴を上げるような不快感に冷や汗が止まらなくなる。
なんだこれ、なんで、どうして。
突然の嘔吐感と寒気に身の震えが止まらない。荒い呼吸を繰り返しながら何とか息を整える頃には、全身に嫌な汗をかきながらトイレの床に身を投げたしていた。
胸のむかつきと、貧血。嘔吐はしなかったけど、突然の体調の変化に体がパニックを起こしていた。
体全体に力が入らず、小さく震える。今までこんなに体調の変化が現れることはなく、わけがわからなくて、怖くて涙がにじむ。
「は、…っ、ひ、っ…ひぅ、…っ、けほ、っ…」
「きいち…?っ、…おい、きいち!」
「し、…ぅ…、」
大きな音を立てたからか、寝起きの俊くんがリビングから顔を出した。脳が揺れるような目眩の中、目を見開いて駆け寄ってきた俊くんが僕を抱き起こそうと手を伸ばしたところで、まるで何かに飲み込まれるかのように僕の思考はブラックアウトした。
鼻孔をくすぐるミルクのいい香りがして、自分の腹の音を目覚まし代わりに目を開いたときだった。
カツン、と硬質な音がしたあと、ふらつくような走る足音に違和感を感じてまどろみから覚醒した。
腹の上に寝ていたはずのきいちはおらず、振り向くとキッチンには出来たてのシチューとトーストが皿に置かれたまま、シチューの付着したお玉が床に落ちていた。
「…きいち?」
なんとなく胸騒ぎがして、開け放たれた扉から廊下にでると、トイレのドアの隙間から見慣れた足がはみ出ていた。
一瞬にして血の気が引く。慌てて扉を開け放つと、きいちが真っ白な顔で倒れ込んでいた。
「おい、きいち!!しっかりしろきいち!!!」
虚ろで視点の合わない目線でかすかに俺を捉えたと思うと、そのままかくりと気絶するかのように力が抜けた姿に情けないくらい動揺した。
「ああ、あ…っ、頭を動かしちゃいけねぇんだっけか…っ、あ、あき、救急車…そうだ、救急車呼んでくるから、ちょっとそこで待ってろ、すぐ、すぐ戻っから…っ!」
倒れ込んだきいちをそのままに、慌ててスマホを取りにリビングに戻る。途中何かを倒したような音がしたが、そんなことも構えるはずがない。
「つ、番が倒れて…っ、吐いてはないです、はい、はい…っ、とにかく早く、早く来てくれよ!!」
電話をしながら状況説明も上手くできず、握っても握り返されることのない手に、俺の心に恐怖が巣食う。救急車はすぐに出るとのことだったが、到着まで名前は呼びかけろと言われた。
頭を揺らさないようにしながら、手を握りながは頬を撫でる。
脈を確かめるのに触れた手首を見て、こんなに細かっただろうかと思った。
何度も見たはずの体なのに、些細な変化に気付いてやれなかった。数時間前まで抱き合っていたのに、なんでこんな…。
「きいち…おい、きいち…!!おきろ、なぁ、…くそ、きいち…っ…」
どれくらいだったかわからない、慌ただしく入ってきた救急隊の大人に、きいちがそっとストレッチャーに載せられると、毛布をかけられて処置をされる。
血圧が低く、言われるがままに乗り込んた救急車の中、もしこのまま目が冷めなかったらどうしようと取り乱すことしかできなかった情けない俺は、その細い手を祈るように握りしめた。
救急隊員が、何かを語りかけていたはずなのに、放心状態の俺は曖昧にうなずくことしかできずにいた。
やがてお世話になってる新庄先生のいるオメガの専門病院に救急車が滑り込むと、そのまま裏口から救急へと運ばれた。
「やあ、久しぶり。酷い顔色だねぇ…点滴用意して、脳貧血かな?」
「先生…っ、」
「大丈夫、とにかく落ち着いて。あとは僕に任せてね。」
先生はそう言うといつもどおりの飄々とした態度で、診察室の中に入った。ガラリと重い音とともにしまった引き戸の外側で、ベンチに座り込んでから気づいた。
履いてきた靴はちぐはぐで、違和感すら気が付かないほど慌てていたらしい。
普段な笑えるそんな光景も、今だけは全然笑うことができなかった。
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