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葵の野望
「あ。」
ぽとりと母音が床に落ちた。
益子の番である葵は、ふとカレンダーを見て首を傾げた。本来なら4月にはヒートがきてるはずだったのだ。
今は5月末。気づかなかったとはいえ、一月も遅れることなんかあるのだろうか。
葵はつけていた帳簿を閉じると、スケジュール帳を取り出した。3ヶ月前のヒートも、気にしてみればその前のヒートよりもずれていた。数日程度だが、オメガでも周期がズレる体質の人もいると聞く。
なのできっと自分もそれだろう。
具合が悪くなれば病院に行けばいい。そうしよう。
「ふぁ、あー‥」
パタンとスケジュール帳を閉じると、背もたれによりかかりながら目を擦る。
日差しが心地良い。春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、葵も最近は寝たりない。
益子も最近は忙しいのか、よくカメラ片手に休日を利用して撮影に駆り出されている。
今日はたしか、アクセサリーの撮影だかで都内の方まで出ているんだっけか。
今日もこなさそうで少しだけつまらない。
カロンと来客を知らせる音がなり、カウンターから顔を出す。写真の現像を頼まれていた近所のご老人だった。
「ああ、月見里さん。出来上がってますよ、お孫さんの写真。」
「ああ、すまないね。おお、これだこれ。楽しみにしていたんだよ。」
「ふふ、可愛いですね紡くん。お目々クリクリで、イツキくんに似たのかなぁ。」
忽那が撮影した写真は、孫を膝に抱いた月見里と息子のイツキが自然体で写されていた。イツキから誕生日になにか欲しいかと聞かれて、孫と息子の二人で写真を撮りたいといったらしい。その話を聞いてなんだか羨ましくもなったが、その願いを叶えるためにご指名を受けた忽那は、精一杯誠意を尽くして撮影をした。
益子が紡くんの笑顔を引き出す為に、カメラを構える忽那の横で盛大にふざけまくったおかげで家族全員が笑顔の瞬間を切り取ることができたのだ。
息切れをしていた益子には悪いが、この調子であと数枚頼むとお願いすると、終わる頃には出し尽くしたといった具合に草臥れていたが。
いい写真が撮れたからと、イツキさんがお礼を言うと、腕の中の紡くんが短い手を必死で伸ばしてきた。どうやら益子に興味があるらしく、折角だからと抱っこさせてもらったのだ。
「益子くんはおもしろいねぇ。赤ちゃん相手にあんなに怖がるだなんて。」
「柔らかくてふにゃふにゃしてて、落としたら怖かったみたいですよ。まあ、すごい悲鳴あげてましたけど…」
「自分の子供を抱くときも、そんなになっちゃうのかなぁ。彼は…」
「あはは、まあ、いつになるやら。」
きゃあーと随分と可愛らしい悲鳴を上げながら真っ青な顔でぎこちなく抱っこするもんだから、あの後紡くんはギャン泣きをして、結局でれでれの月見里さんに回収されていったのだ。
「葵くん、綺麗になったねぇ。」
「ええ!なんですか急に、やだな。かっこいいって言われたほうが俺はうれしいですよ。」
「益子くんも君にデレデレなのわかるね。ちゃんと手綱握ってあげててね。」
「あはは、寧ろ年下なんで。飽きられないようにしないと。」
そんな心配はないと思うよ。とにこにこ笑う月見里さんに、葵は頬を染めた。周りから益子が葵のことを溺愛していると聞くたびに、嬉しく感じてしまう自分が年甲斐もなくてなんだか恥ずかしい。
そのまま月見里さんの写真を見ながら、ああでもないこうでもないとついつい会話に花が咲いてしまい、時刻はもう店じまいをとっくに過ぎてしまっていた。
月見里さんを見送ると、クローズの札を下げて晩ごはんは何を作るかと考えているうちに、すっかりヒートの周期が遅れていることを忘れてしまっていた。
「今日はこなさそうだなぁ。」
念の為二人分のハンバーグをつくると、スマホのSNSに連絡が入っていないかを確認した。
今日は遠出するからと聞いていたので、少しだけ寂しく感じるが仕方がない。結局一人分のハンバーグにはラップがかけられて冷蔵庫に入れた。
昼のお弁当を毎回取りに来るので、そのときにこのおかずを入れようと決めたので無駄にはならなさそうである。
ならばすることもないし、と浴室に向かう。こういうつまらない日は早く寝るに限るのだ。
服を脱ぎ、一糸まとわぬ姿になる。裸の自分を見つめて、つくづく魅力のない薄っぺらい体だと思う。もう少し筋肉をつけたり、体重を増やして魅力的な男になりたいと思うのだが、悲しきかな葵の白い腹部には、筋は入れど割れることなど経験したこともない。益子の腹筋を見るたびに悔しい思いをする。
「ん…?」
腰回りの肉づきが少しだけ良くなった気がする。
もにもにと自分で尻をもんでみたがいまいちわからない。ただなんとなく、丸みを帯びたような気がしないでもない。
もしかして、とわくわくしながら体重計を出す。
葵の目下の悩みは中々体重が増えないことなので、これで増えていたら筋肉をつけるきっかけになるかもしれない。
そう思いながら体重計に乗ると、確かに500グラムほど増えていた。
「ぷ、プロテイン様…」
実は本当に本当に腹筋が欲しくて、どうやったら手に入るのかを調べていたのだ。夏までの約一ヶ月半、魅惑の腹筋を手に入れて水着をかっこよく着たいときめて、タンパク質とプロテインを益子に隠れて飲んでいたのだった。
もしやこの丸みを帯びた体は脂肪がついたのか。ついたということは燃焼させて筋肉を割る為の足がかりができたということだろう。
ありがとうプロテイン様、俺、前向きにがんばれそうです。
思わず体重計の上で無宗教ながら神に祈る。できれば腹筋とかっこいい上腕二頭筋をください。そう思いを込めて。
なのでまずは体重を3キロ増やしてから腹筋を始めようと決めたのだ。あと2.5キロ。地獄のブートキャンプとかかれたDVDは購入済で、アダルトビデオを隠すような気持ちで枕のクッションの間に突っ込んである。
ここならバレまいと信じている。
もう一度鏡に向き直る。自分の中で一番男らしい、凛々しいと思える顔をしてみる。だめだ、しかめっ面にしか見えない。眉を太くすればいいのか?ならば育毛剤も買うべきか、益子が聞いたら泣いて止めそうな暴走を、葵は自分磨きとして行おうとしていた。
「ふんっ、」
むきっ、と効果音がつくイメージで、力こぶを作る。かすかに膨れた二の腕を見て、ニヤリと笑った。腕立て伏せの効果が出ている。プロテイン様々だ、ならもしかしたら腹筋も…と思い、腹に力を込めようとした時だった。
「なんか楽しそうなことしてんね?」
「ひぇ、っ」
びくりと体を飛び上がらせる。カーテンの隙間から顔を出して、にやにやと笑みを浮かべる益子がいたのだ。どこから見られていたのやら、葵は自分が裸だということに気づき、一気に顔を赤らめた。
見られまいとして屈んだはいいものの、ずかずかとカーテンを開けて入ってきた益子が豪快に服を脱いだ。
綺麗に割れた腹筋や、太い血管が通る腕。なによりも筋がくっきりみえる二の腕の筋肉もかっこいい。
いいなぁ、と思っていると同じ目線に屈んできた益子が、ちゅぅ、と葵の額に口付けた。
「可愛いことしてっから、思わず見てた。」
「や、やめろよ。恥ずかしいじゃん。」
楽しそうににやにやする顔を見て、最近ちょっと意地悪になってきたなとおもいつつ、ちらりと腹筋に目が行く。
屈むと余計に割れていることがわかりやすい。
男らしい綺麗な体が羨ましくて、おもわずペタペタと触ってしまう。
「俺も、こんなちぎりパンみたいな腹筋が欲しい…」
「ぶっは!!!!!ちぎりパン!!!!!」
葵の珍妙な喩えに、いやらしい雰囲気にもっていくつもりだった益子は耐えきれずに吹き出すように爆笑した。
顔を真っ赤にしてべちべちと叩いてくる葵を宥めながら、結局二人してお風呂にはいり、流されるように悪戯をされてのぼせた葵に、ちぎりパンの腹筋をもつ益子は少しだけ反省したのだった。
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