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然様ならも伝へそびれた君へ
「泣くときは、声を上げて泣け。でないと、誰にも気付いて貰えん」
左う言つたあのひとは、聲を上げずに逝きました。
僕の下であのひとは、濁りかけた目をすこし苦悶に細めただけ。血塗れの骨張つた指が伸び、僕の頬に触れようとしましたが、力尽きて届くことはありませんでした。
君がこの科白を口にしたのは、いつだつたでせうか。
第一高等學校の學友として共に過ごした、彼の頃でしたか。
「僕はかなしみを、文字に乗せますよ」
其んなことを洩らした僕に、君が困つたやうに笑つて窘めた言葉だつたかと思ひます。
僕は身体が弱く、検査に引つかかつてしまいましたので、君と同じく軍人には成れませんでした。知つてゐましたか、僕は君と共に、君と一緒の戦場に向かひたかつたのです。
たはむれに交わしたくちづけを、僕は忘れはしなかつた。否、君にとつてはたはむれでも、僕にとつて其れはまことの戀だつた。
君は思ひもしなかつたでせうね。僕は軟弱な文學青年だと。物を書くのは確かに好きだつた。けれど、僕の文學は常に君に宛てた戀文でした。君が居てこその文學は、君無しには有り得なかつた。君と共に在るならば、ペン等直ぐに捨てられた。
再會したのは、昨年の春でしたか。久しぶりに見る君は、僕にとって何れだけ眩しく、狂おしく、憎く映つたことでせう。なのに君は在學時代とまつたく變わらぬ笑みで、本當に懐かしさうに僕に声を掛けた。肩の階級章は明らかに上級で、僕のやうに地底を這ひ回る虫螻 みたいな一市民が、氣樂に話し掛けられる存在では無い筈であるのに。
結局の処、君が僕に再び近付いたのは単に懐かしい學友だつたからですか。其れ共……
反政府の危険分子だつたからですか。
えゝ、確かに僕は其の頃、赤の連中とも交流がありました。
ですが、本心では思想等如何でも良かつた。只、君に逢ひたかつた。同じやうに軍への加入が出来ぬのであれば、叛逆分子と為れば相まみえることも有るのではないかと、其んな浅慮を巡らせたのも事実です。
然し君は、少なくとも僕の前では決して疑りの素振りは見せませんでした。探りを入れることさへしませんでしたね。軍の上層部ともなれば、其の程度の策略には長けていたのかも知れません。
其れでも。
「君は相変わらずの色男だ」等と笑ひ、頭に置いた大きな掌に、如何して僕が上気せずに居られましょうか。無論叶わずとも構はない、叶うこと等無い。
君は既に上官の御嬢様と婚姻が決まって居たし、男である僕に友情以外の感情を向ける事は無い。だとしても。
僕が、「泣く」やうな事なんて、何も無かつたのです。
露西亜への進軍が決まった、冬。
…………嗚呼、如何して彼んなことに為つたのでせうか。
君は暫しの別れを告げに来た、其れだけだと思つて居ました。
今となつては、彼れが君の差し金なのか、偶さか特高の踏入が重なつただけなのか分かりません。
最早、何方でも構はない。
屈強な君を何故僕が組み敷けたのかも、鋏如きで胸を貫けたのかも。
只ひとつ。
君と、此の瞬間を共に出来たことは、神仏に感謝します。
例へ、裏切られたのだとしても。
興奮か怒りか、将亦 感激なのか、譯の分からぬ涙は溢れ、赤い血潮が透明な液体で滲みました。
「泣くときは、声を上げて泣け」
「声を上げても、聞き届ける相手が近くに居なかつたら意味が無いじゃァないか」
其んな反論をしたのを、此のとき僕は思ひ出しました。
漸く君のことで泣く機会を得た僕は、矢張り声を上げられませんでした。
銃弾で空いた喉からは、ヒュウヒュウと空虚な音しか漏れては来なかつたのです。
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