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18 遭遇
シュエシが庭を歩くのは屋敷に来て初めてのことだった。ドレスの裾を踏まないようにソロリソロリと足を動かす。
(もう少し裾が短くないと汚しそうだな……)
庭の様子よりもドレスの裾が気になって仕方がない。部屋にあるドレスは裾が長いものがほとんどで、短くてもくるぶしあたりまで隠れる。いま着ているのはその短めのドレスだ。それでも初めてドレスで外を歩くシュエシは必要以上に気を遣ってしまう。「汚してしまったらどうしよう」と考えると、一歩踏み出すのも自然とゆっくりになる。
(本当はドレスじゃないほうがいいんだけど)
自分は男だからドレスを着るのはおかしい。そう思ってはいるものの男性用の服を用意してほしいと言えないままでいる。「花嫁」と呼ばれるたびにそれらしい格好がいいのではないかと思った。それにヴァイルもドレス姿であることを指摘しないということは、このままがいいに違いない。
(ヴァイルさまはドレスが好きなのかな)
ドレスというより女性のほうが好みなのかもしれない。だからそのままにしているんじゃないだろうか。これまでの花嫁は皆若い娘で男は一人もいないと聞いた。もしかして血を捧げる者としても女性のほうが好きなのかもしれない。
「……そうだよな」
思わず漏れてしまった言葉に、余計にそんな気がしてくる。女性は柔らかくて気持ちがいいと土地の男たちが話しているのを聞いたことがあった。シュエシはそういう経験をしたことがないが、きっと化け物であっても柔らかい女性のほうがいいに決まっている。
(それに、こんな体は触れても気持ちよくないはず)
川で水浴びをしていたとき、土地の男に「まるで木の枝みたいだな」とからかわれたことがあった。屋敷に来てから少し肉がついたものの、到底女性の柔らかさには適わない。
あれこれ考えているうちに段々胸が苦しくなってきた。化け物になってから軽く感じていた体が、気持ちに引きずられるように少しずつ重くなっていく。
(せめて見た目だけでも美しく変われたらよかったのに)
そんなことを思いながら歩いていた足がピタリと止まった。背後からゾワッとするような気配を感じ、おそるおそる振り返る。すると少し離れたところに見覚えのある男が立っていた。
(あの人は……そうだ、パン屋のおじさんだ)
庭に立っていたのはパン屋の主人だった。育ての親に言われて買いに行った店で何度も見かけた顔だから間違いない。
(でも、どうしてここに……?)
土地の人たちは滅多なことでは屋敷に近づかない。土地の人たちと話す機会がほとんどなかったシュエシもそのことは知っていた。それなのにどうしてここにいるのだろうか。それに庭には入れないはずだ。ヴァイルの言葉を思い出し訝 しむシュエシに男がクワッと目を見開いた。
「おまえ……生きてるじゃないか」
ひどく驚いた顔にシュエシのほうが驚いた。そうしてすぐにハッとする。
(もしかして、この人の娘も……)
これまで誰が花嫁になったのかシュエシは知らない。元々土地の者たちとのつき合いがないため、誰がいなくなったか気づくこともなかった。しかしこの反応はそうとしか思えない。
「花嫁はみんな売り飛ばされるか殺されるんじゃなかったのか? そういうものだとみんな言って……いや、おまえが生きてるってことはあの子も生きてるんだよな? そうなんだよな?」
「あの、」
ズンズンと近づいて来る男にシュエシがビクッと震える。
「あの子も生きてるんだろ? ほら、いつもおまえにパンを渡してたあの子だよ。二年前に花嫁としてこの屋敷に来たんだ。おまえ、見かけてないか? あの子も、娘も生きてるんだろ?」
「そ、れは……」
「どこにいるんだ? おまえがこうして生きてるってことは、あの子も生きてるんだろう? 一目でいいんだ、あの子に、娘に会わせてくれ……!」
「っ」
肩を掴まれグラグラと揺さぶられた。男の指が食い込みシュエシの眉が寄る。男はものすごい形相で、どれほど必死かシュエシにもよくわかった。
それでも答えることはできなかった。二年前ということはヴァイルが領主になった後の話で、つまり娘は血を捧げるために屋敷にやって来たということになる。これまでヴァイルの花嫁になった娘たちは全員この世にいない。しかし、それを男に告げることはできなかった。
黙ったままのシュエシを男はなおも激しく揺さぶった。それでも口を開かない様子に男はついに激昂した。
「どうして黙ってるんだ! おまえがこうしてここにいるってことは娘もいるんだろ!? 黙ってないで何とか言え!」
「……っ」
「頼むから! 頼むから会わせてくれ! 取り戻そうなんて思っちゃいない! 一瞬でいいんだ。ほんの少しでいいから会わせてくれ……!」
男の悲痛な声にギュッと目を瞑った。答えることができないシュエシは、ただじっと男の言葉を聞き続ける。その様子に肩を掴む男の手にますます力が入った。
「……どうして何も言わないんだ? これだけ頼んでるのにどうして何も答えない?」
「……」
「おまえは恩を仇で返そうってのか? どれだけ俺たちがおまえの世話をしてやったと思ってるんだ? 親が死んでも追い出さず、大して役に立たないのに飯を食わせてやったんだぞ? それなのに娘に会わせてくれって頼みすら聞けないってのか?」
「……」
「……まさか、あの子はもう……そう、なのか?」
男の声が震えている。声に絶望が混じっているのがわかった。それでも答えられないシュエシの肩に男の爪が食い込んだ。あまりの力に眉を寄せ唇を噛み締めたときだった。
「……どうして生きてるんだ?」
男の声が一気に低くなった。
「え……?」
「あの子はいないのに、どうしておまえは生きてるんだ?」
目を開くと男がじっとシュエシを見ている。その目は仄暗く、視線が合った瞬間に息が止まった。同時にゾワリとした気配を感じて体が強張る。
「どうしておまえなんかが生きていて、あの子がいないんだ? おまえみたいな土地の者でもない、何の役に立たないやつが生きてるんだ……?」
男の体から靄 のようなものが立ち上った。薄灰色のそれは段々と黒く濁り、ユラユラと揺れながら男の回りを漂い始める。靄のようなものは濃くなったり薄くなったりをくり返しながら男を包み込み、気がつけば濁った雨水のようにドロドロとしたものに変わっていた。
「どうしておまえなんかが生きてるんだ……売られるしか価値のないやつがなんで生きてるんだ! これじゃあ、いままで生かしておいた意味がないじゃないか!」
男の鋭い声とともに澱んだ黒いものがバッと飛び散った。シュエシはガクガクと激しく揺さぶられながら、男の背後に広がる黒いものを凝視するように目を見開いた。
「どうして土地の娘たちが殺されて、おまえが生きてるんだ!? おまえが、おまえが代わりに死ねばよかったんだ!」
慟哭 のような男の叫びに漂っていた黒いものが色を濃くした。靄のように不確かなそれ は、澱んだ泥水のように宙で蠢き段々と膨らんでいく。限界まで膨らんだ次の瞬間、今度は一気にギュッと縮まった。そうして触手のようなものをにょきりと伸ばし、まるで意思を持っているかのようにシュエシに向かってきた。
「……っ!」
ドロドロとしたそれ が何本も伸びてくる。逃げなくては、そう思っているのに肩を掴む男の手を振りほどくことができない。近づいてくるそれ の気配が恐ろしくて全身が固まった。
「おまえが殺されればよかったんだ! おまえなんか生きてる価値はな――」
男の声がプツリと途切れた。爪が食い込むほどの力でシュエシの肩を掴んでいた手が離れ、だらりと力なく垂れ下がる。男の目は虚ろな様子でどこを見ているのかわからない。シュエシに伸びていた触手のようなものもパッと霧散した。男の周りに漂っていた黒いものも少しずつ薄まっていく。
何が起きたのかわからずシュエシは呆然とした。男から離れることもできず立ち尽くしていると、背後から薔薇のような甘く濃密な香りが漂ってくる。
「人はとことん愚かだな」
「……ヴァイルさま」
ぐいっと腕を引かれ、よろけるように数歩後ずさった。そうしてヴァイルの胸に背中がトンとぶつかる。そっと顔を上げると、ヴァイルが凍えるような美しい顔で男を見ていた。
「わかっただろう? おまえは善意で生かされていたわけではない。土地の者たちにとっては売り飛ばすためのものでしかなかったというわけだ」
改めて突きつけられた事実に心が痛んだ。しかしそれも一瞬で、“感謝しなくてはいけない”という自分を縛りつけていたものから今度こそ解き放たれた気がした。
「まさか庭にまで入り込んでくるとはな。これでは煩わしくてかなわん」
ため息混じりの声にハッとする。
「もしかして、これまでも……?」
「さて、もう何度入り込まれたかわからんがな。東の国のものを売りに来なくなってもこの有り様だ。わたしのことを化け物と言いながら近づいてくるのだから、とんだ笑い話だろう?」
「土地の人たちは、屋敷には近づかないと話してました」
「人は嘘をつく生き物だ」
「嘘……」
「このところ辺りに近づく輩が増えてきた。おまえが眠っている間も三人ばかり周囲をうろつき、目覚めたときも何人か門のあたりで様子を窺っていた。周囲をうろつくならまだしも、こうして庭にまで侵入するとは少々考えねばならんな」
ヴァイルの表情がさらに冷たいものに変わる。
「それに、こうしておまえにまで接触してきた……人ごときが我が花嫁に触れるなど不愉快極まりない」
ヴァイルの声に鳥肌が立った。普段と変わらない声に背中が震えるような恐ろしい響きを感じる。同時に体の内側から憎悪にも似た感情が沸々とわき上がってくるのを感じた。
シュエシは慌てて両手を握り締めた。自分は目の前の男にそんな気持ちは抱いていない。土地の者たちを恨んだこともなかった。それなのに次々とわき上がる感情に目が回る。
土を踏む音にハッとした。背後にいたヴァイルが虚ろな表情の男に近づいていく。
(何を……?)
ヴァイルが男の目を覗き込んだ。すると男の体がガクンと揺れ、そのままゆっくりと歩き出す。自力で歩いてはいるものの焦点は定まっておらず明らかに様子がおかしい。
これも化け物の力なのだろうか。そう思いながらヴァイルを見たシュエシは黄金色の瞳が変わっていることに気がついた。
「ヴァイルさま、目が……」
指摘され、美しい指が朱色に変わった目元に触れる。
「あぁ、少しばかり力を使ったせいだ。気にする必要はない」
「でも、」
「あの男はここに来たことも、おまえがこうして生きていることも覚えていない。この目もすぐに元に戻る」
そう告げた直後、朱色だった瞳が少しずつ元の黄金色に戻り始めた。それは鮮やかな朝焼けに太陽の色が混じるような美しさで、シュエシは思わず茫然と見つめた。
「部屋に戻るぞ。これ以上不愉快なままでいたくない」
「……え?」
「花嫁が人に触れられるなどあってはならないことだ」
美しい顔がスッと近づいた。驚き固まっていると肩のあたりをクンと嗅がれシュエシの頬が赤くなる。
「愚かで醜い人の匂いがするな……虫唾 が走る」
「ヴァイルさま、」
「おまえはわたしの花嫁だ。わたし以外の匂いを付けたままにするわけにはいかない」
「来い」と言いながらヴァイルがシュエシを抱き上げる。突然のことにシュエシが驚いていると「花嫁の役目は何だ?」と尋ねられ「え?」と言葉に詰まった。
「わたしにかわいがられることだ」
「そ、それは……」
「それともわたしに触れられたくないか?」
「そ、そんなことはありません!」
慌てて否定したシュエシにヴァイルが小さく笑う。
「それでいい。おまえはわたしだけ見ていればいい。それに、おまえはわたしの顔が好きなのだろう? たっぷりと眺めていればいい」
「……っ」
囁かれた言葉にシュエシは全身を真っ赤にした。
この日シュエシは、化け物になってから初めてヴァイルと肌を重ねた。久しぶりだったにもかかわらず何度も深い場所を暴かれ体の奥まで濡らされる。そうして絶頂に上り詰めるなか首筋に歯を立てられ、この世のものとは思えない悦楽を味わうことになった。
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