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19 遭遇

 初めて歩く庭は思っていたより大変だった。ドレスを着て外を歩くことに慣れていないため足さばきがうまくいかない。そろりそろりと足を動かしながらも裾を汚してしまわないか気になるシュエシに庭を楽しむ余裕はなかった。 (もう少し裾が短いドレスがあるといいんだけど)  部屋にあるドレスは裾が長いものがほとんどで、短いものでもくるぶしあたりまで隠れる。いま着ているのはその短めのドレスだが、初めてドレスで外を歩くシュエシは必要以上に気を遣っていた。「汚してしまったらどうしよう」と考えると、一歩踏み出すのも自然とゆっくりになる。 (男物の服を用意してもらえないか頼むべきだろうか)  自分は男なのだから、こうしたドレスを着るのはおかしい。いまなら男物の服を頼むことができる気もする。それでも口にしないのは「花嫁」という言葉を聞くたびに、それらしい格好をするべきじゃないかと思うからだ。  そもそも自分が男だということは随分前に知られている。それなのにドレスのままだということは、ヴァイルは“この姿”を求めているのかもしれない。 (ヴァイルさまはドレスが好きなんだろうか)  もしくは、やっぱり女性の花嫁を求めているのか……そう考えたシュエシの表情が暗くなる。 (……そんなことを思ったらいけない。だって僕はヴァイルさまの花嫁になったんだから)  いまの自分を選んでくれたのだ。自分ができることはヴァイルの花嫁にふさわしくなることで、ドレスだの男だの考える必要はない。それよりも美しいヴァイルの隣に立ってもおかしくないように美しくなる努力をしたほうがいい。 (……美しくなる努力……薔薇の香油を使うとか……?)  土地の娘たちが話していたことを思い出した。いまも髪には薔薇の香油を使っているが、たとえば肌に使うと綺麗になれたりするのだろうか。  そんなことを考えていたシュエシの足がぴたりと止まった。背後からゾワッとするような気配を感じ、おそるおそる振り返る。すると少し離れたところに見覚えのある男が立っていることに気がついた。 (あの人、見たことがあるような……そうだ、パン屋のおじさんだ)  庭に立っていたのはパン屋の主人だった。育ての親に言われて買いに行った店で何度も見かけた顔だから間違いない。 (でも、どうしてここに……?)  土地の人たちは滅多なことでは屋敷に近づかない。土地の人たちと話す機会がほとんどなかったシュエシもそのことは知っていた。それなのにどうしてここにいるのだろうか。それに敷地の周りには柵を作ったと聞いた。ヴァイルの言葉を思い出し、(いぶか)しむように店主を見るシュエシに男が気がついた。すぐさま男がクワッと目を見開く。 「おまえ……生きてるじゃないか」  ひどく驚いた顔にシュエシのほうが驚いた。そうしてすぐにハッとした。 (もしかして、この人の娘も……)  これまで誰が花嫁になったのかシュエシは知らない。元々土地の者たちとのつき合いがないため、誰がいなくなったか気づくこともなかった。しかしこの反応はそうとしか思えない。 「花嫁はみんな売り飛ばされるか生贄にされるんじゃなかったのか? そういうものだとみんな言って……いや、おまえが生きてるってことはあの子も生きてるんだよな? そうなんだよな?」 「あの、」  ズンズンと近づいて来る男の勢いに肩がビクッと震える。 「あの子も生きてるんだろ? ほら、いつもおまえにパンを渡してたあの子だよ。二年前に花嫁としてこの屋敷に来たんだ。おまえ、見かけてないか? あの子も、娘も生きてるんだろ?」 「そ、れは……」 「どこにいるんだ? おまえがこうして生きてるってことは、あの子も生きてるんだよな? 一目でいいんだ、あの子に、娘に会わせてくれ……!」 「っ」  肩を掴まれ、グラグラと揺さぶられた。男の指が食い込みシュエシの眉が寄る。男の形相は凄まじく、それを見ればどれほど必死かシュエシにもよくわかった。  それでも答えることはできなかった。二年前ということはヴァイルが領主になった後の話で、つまり娘は血を捧げるために屋敷にやって来たことになる。これまでヴァイルの花嫁になった娘たちは、もうこの世にいない。しかしそれを男に告げることはできなかった。  黙ったままのシュエシを男はなおも激しく揺さぶった。それでも口を開かない様子に男が声を荒げる。 「どうして黙ってるんだ! おまえがこうしてここにいるってことは娘もいるんだろ!? 黙ってないで何とか言え!」 「……っ」 「頼むから! 頼むから会わせてくれ! 取り戻そうなんて思っちゃいない! 一瞬でいいんだ。ほんの少しでいいから会わせてくれ……!」  男の悲痛な声にギュッと目を瞑った。答えられないシュエシは、ただじっと男の言葉を聞き続けるしかない。その様子に肩を掴む男の手にますます力が入る。 「……どうして何も言わないんだ? これだけ頼んでるのにどうして何も答えない?」 「……」 「おまえは恩を仇で返そうってのか? どれだけ俺たちがおまえの世話をしてやったと思ってるんだ? 親が死んでも追い出さず、大して役に立たないのに飯を食わせてやったんだぞ? それなのに娘に会わせてくれって頼みすら聞けないのか?」 「……」 「……まさか、あの子はもう……そう、なのか?」  男の声が震えている。声に絶望が混じっているのがわかった。それでも答えないシュエシの肩に男の爪が食い込んだ。あまりの力に眉を寄せ、唇を噛み締めたときだった。 「……どうして生きてるんだ?」  男の声が一気に低くなる。 「え……?」 「あの子はいないのに、どうしておまえは生きてるんだ?」  目を開くと、男がじっとシュエシを見ていた。陰鬱で仄暗い瞳を見た瞬間、息が止まった。同時にゾワリとした気配を感じて体が強張る。 「どうしておまえなんかが生きていて、あの子がいないんだ? おまえみたいな土地の者でもない、何の役に立たないやつがなんで生きてるんだ……?」  男の体から(もや)のようなものが立ち上った。薄灰色のそれは段々と黒く濁り、ユラユラと揺れながら男の回りを漂い始める。靄のようなものは濃くなったり薄くなったりをくり返しながら男を包み込み始めた。そうして段々と濁った雨水のようにドロドロとしたものに変わっていく。 「どうしておまえなんかが生きてるんだ……売られるしか価値のないやつがなんで生きてるんだ! これじゃあ、いままで生かしておいた意味がないじゃないか!」  男の鋭い声とともに澱んだ黒いものがバッと飛び散った。シュエシはガクガクと激しく揺さぶられながら、男の背後に広がる黒いものを凝視するように目を見開いた。 「どうして土地の娘たちが殺されて、おまえが生きてるんだ!? おまえが、おまえが代わりに死ねばよかったんだ!」  慟哭(どうこく)のような男の叫びに漂っていた黒いものがさらに色を濃くした。靄のように不確かなは、澱んだ泥水のように宙で蠢き膨らんでいく。限界まで膨らんだ次の瞬間、今度は一気にギュッと縮まった。そうして触手のようなものをにょきりと伸ばし、まるで意思を持っているかのようにシュエシに向かってくる。 「……っ!」  ドロドロとしたが何本も迫ってくる。逃げなくては、そう思っているのに肩を掴む男の手を振りほどくことができない。近づいてくるの気配が恐ろしくて全身が固まったように動けなくなった。 「おまえが殺されればよかったんだ! おまえなんか生きてる価値はな――」  男の声がプツリと途切れた。爪が食い込むほどの力で肩を掴んでいた手が離れ、だらりと力なく垂れ下がる。男の目は虚ろな様子でどこを見ているのかわからない。シュエシに伸びていた触手のようなものもパッと霧散し、男の周りに漂っていた黒いものも少しずつ薄まっていく。  何が起きたのかわからず呆然とした。男から離れることもできずに立ち尽くしていると、背後から薔薇のような甘く濃密な香りが漂ってくる。 「人はとことん愚かだな」 「……ヴァイルさま」  ぐいっと腕を引かれ、よろけるように数歩後ずさった。そうしてヴァイルの胸に背中がトンとぶつかる。そっと顔を上げると、ヴァイルが凍えるような美しい顔で男を見ていた。 「わかっただろう? おまえは善意で生かされていたわけではない。土地の者たちにとっては売り飛ばすためのものでしかなかった」  改めて突きつけられた事実に心が痛む。 「しかし柵を越えてまで庭に入り込んでくるとはな。何をしてもこやつらは入り込もうとする。ここ数年は回数も増えている。これでは煩わしくてかなわん」  ため息混じりの声にハッとした。 「土地の人たちは、屋敷は行かないと話していました」 「大方はそうだろう。だがそうでない者もいる。しかも何かを売りに来るのではなく奪いに来るといった有り様だ。わたしのことを化け物と言いながら近づいてくるのだから、とんだ笑い話だろう?」 「屋敷には近づかないと言っていたのに……」 「人は嘘をつく生き物だ」  黄金色の瞳が冷たく男を見据えた。 「最近では屋敷の周辺をうろつく気配が増えている。それだけならどうということもないが、こうして庭に入り込み、あまつさえおまえに接触してくるとなると考えねばならんな。そもそも人ごときが我が花嫁に触れるなど不愉快極まりない」  聞いたことがないほど低く冷たい声に鳥肌が立った。同時に体の内側から憎悪にも似た感情が沸々とわき上がってくるのを感じる。どうしてそんな気持ちになるのかわからず、慌てて両手を握り締めた。 (この人を憎いと思ったことはないのに、どうして……)  それなのに次々とわき上がる感情に目が回る。  背中に感じていた感触が離れた。慌てて仰ぎ見ると、表情のないヴァイルが男へと近づいてく。男は虚ろな顔のままで、ヴァイルが近づいて来ることに気づいていないのか微動だにしない。  隣に立ったヴァイルが男の目を覗き込んだ。途端に男の体がガクンと揺れ、そのままゆっくりと歩き出す。自力で歩いてはいるものの焦点は定まっておらず明らかに様子がおかしい。  これも化け物の力なのだろうか。男から視線を外し、ヴァイルの横顔を見た。 「ヴァイルさま、目が……」  黄金色の瞳が朱色に変わっていた。驚いて声をかけると、「あぁ、これか」と言いながらヴァイルが目元を撫でる。 「少しばかり力を使ったせいだ。気にする必要はない」 「力……」 「あの男はここに来たことも、おまえがこうして生きていることも覚えていない」  そう告げた直後、朱色だった瞳が少しずつ元の黄金色に戻り始めた。それは鮮やかな朝焼けに太陽の色が混じるような美しさで、思わず茫然と見つめてしまう。 「部屋に戻るぞ」  肩を抱き寄せられ、ハタと気がついた。 「花嫁が人に触れられるなどあってはならないことだ」  美しい顔がスッと近づく。突然のことに固まっていると、肩のあたりをクンと嗅がれてビクッと震えた。 「愚かで醜い人の匂いがするな……虫唾(むしず)が走る」 「あの、」 「おまえはわたしの花嫁だ。わたし以外の匂いを付けたままにするわけにはいかない」 「来い」と言いながらヴァイルがシュエシを抱きかかえた。 「もう少し体力が戻ってからと思っていたが、この匂いには耐えられん」 「ヴァイルさま、」 「おまえには花嫁の務めをはたしてもらう」 「え?」  そのままシュエシの重さなど感じていないかのように歩き出した。向かった先はシュエシに与えられた寝室で、優しくベッドに下ろされる。 「あ、あの」 「おまえはわたしの花嫁だ。わたし以外の匂いなど付けるな」 「は、はい」 「おまえの外側も内側もわたしだけの匂いにしておかねば」  まるで焦っているかのようにヴァイルの手がシュエシのドレスに触れた。  この日、シュエシは化け物になってから初めてヴァイルと肌を重ねた。久しぶりだったにもかかわらず何度も深い場所を暴かれ、体の奥深くまで愛される。そうして絶頂に上りつめるなか首筋に歯を立てられ、この世のものとは思えない悦楽を味わうことになった。

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