26 / 26

26 吸血鬼の領主と身代わりの花嫁・終

 領主の屋敷を発ってから半月ほどが経った。馬車は西の国へと入り、目に留まる景色や空気が少しずつ変わり始める。 「ヴァイルさまの故郷はまだ遠いんですか?」 「この先の山を越えれば間もなくだ」 「山……」 「麓をぐるりと回って行く。あと半月ほどで到着するだろう」  ヴァイルの言葉に窓の外を見た。目の前に広がっているのはのどかな田園風景で、馬車はその中を貫く一本道を走り続けている。遠くにはどこまでも続く城壁と、その奥に件の山々が見えた。頂上付近が白いのは雪が積もっているからだろう。 (あの山の向こう側にヴァイルさまの故郷がある)  シュエシの両手に少しだけ力が入った。もうすぐヴァイルの故郷に到着するのだと思うと自然と体に力が入る。そうなってしまうのはいまだに空腹を覚えることがないせいだ。 「それまでに、ヴァイルさまの血を口にすることができるといいんですけど……」 「時が来れば自然と求めるようになる。焦る必要はない」  黄金色の瞳は穏やかで焦っているようには見えない。そのことにホッとしつつ、それでもシュエシは気になって仕方がなかった。 (もし空腹にならないまま故郷に着いたら……どうなってしまうんだろう)  故郷には多くの同胞、それに眷属もいると聞いている。きっと自分より優れた眷属ばかりに違いない。そんなところに化け物になりきれていない自分が現れたらどんな目で見られるだろうか。  不意に土地の者たちのことを思い出した。誰もシュエシを見ることがなく、そこにいてもいないように扱われてきた。もし同じことになったとしても自分はかまわない。無視されることには慣れている。  だが、ヴァイルが何か言われることだけは耐えられなかった。「どうしてあんなやつを」と陰口を叩かれたりはしないだろうか。こんな自分を眷属にしたことでヴァイルが馬鹿にされるのではないかと考えるだけで気分が重くなる。 「おまえが気にすることは何もない」 「……はい」  答えるシュエシの声は小さく、景色を眺める眼差しもいつもより暗い。それを見たヴァイルが小さくため息をついた。 「おまえは存外心配性だな。大丈夫だと言っているだろう? それともわたしの言葉が信じられないのか?」 「そ、そんなことはありません」  口ではそう言いつつ内心は不安で仕方がなかった。一度気になるとあれもこれもと心配になってくる。眉が寄った顔を見せるわけにはいかないと俯いたシュエシだが、顕わになったうなじをするりと撫でられて慌てて顔を上げた。 「たとえ空腹を覚える前に故郷へ入ったとしても、誰にもおまえに触れさせたりはしない。安心しろ」 「……はい」 「おまえはわたしが選んだ花嫁だ。堂々としていればいい」  首筋に口づけられ息を呑んだ。慰めてくれているのだとわかっているのに、ヴァイルの唇だと思うだけで体が熱くなる。その熱が血を熱くし淫らな香りを漂わせ始めた。 「眷属としての香りも段々と強くなっている。そう遠くない日に血を求めるようになるだろう」 「ヴァイル、さま」 「待ち遠しくはあるが焦る必要はない。わたしは常におまえのそばにいる」 「んっ」  ドレスの上から体の線をなぞるように撫でられて肩が震えた。甘い痺れが何度も背中を駆け上がり、唇が触れている首筋を熱くする。  官能的な動きで脇腹を撫でていた手がへその位置を確かめるように指先で布を擦った。そのままさらに下へと動いていく。相変わらずふわりとしたドレスを着ていたシュエシは、ヴァイルの手が裾をたくし上げようとしていることに気がついた。漂い始めた薔薇の香りに耳まで赤くしながら、慌てて淫らな手を止める。濃密な薔薇の香りはヴァイルの欲を表している。つまり、そういう気持ちになっているということだ。 「だ、駄目です」 「問題ない」 「で、でも、」  薔薇の香りはヴァイルが興奮している証だ。このまま事に及ぶつもりなのだろうか。期待に胸が膨らんだのは一瞬で、陽の高いうちからそんな淫らなことをするわけにはいかないと身じろいだ。駄目だと言いたくて、裾をたくし上げようとしている手を必死に掴み止める。 「ヴァ、ヴァイルさま」 「街の中心部はあの城壁の中だ。誰かに見られることはない」  再び首筋を吸われて息が詰まった。その様子に喉の奥で笑ったヴァイルが「それとも見られるほうがよかったか?」と囁く。 「そ、そんなこと、っ」  否定しながらも、シュエシは自分の体が熱くなっていることに気づいていた。ヴァイルの香りに引きずられるように淫蕩な熱が体の奥からあふれ出してくる。  気がつけば掴んでいたヴァイルの手を離していた。促されるまま膝に乗り、目の前にある愛しい体にそろりと腕を回す。ドレスの裾がみっともなく乱れていることを気にすることなく、ますます昂ぶる体をどうにかしてほしくて背中を掻き抱いた。  それに応えるようにヴァイルの手が動く。顕わになった左足の太ももを撫でていたかと思えばさらに奥へと手を進め、小さな下着の前部分を悪戯に撫で回す。 「おまえはわたしが選んだ花嫁だ。花嫁として堂々としていればいい」  耳に甘い吐息が触れて肌が粟立った。耳たぶをかぷりと噛まれ、うなじから背中にかけてぞくりとした快感が駆け下りる。小さく震えているとヴァイルの手がドレスの中に侵入してきた。すでにぐっしょりと濡れた下着の後ろ部分の布をずらすのがわかり、それだけで期待に後孔がヒクッと震える。それを指先で確認したヴァイルは「淫らだな」と囁き前立てを開いた。  ドクドクとシュエシの鼓動が激しくなる。腰をもぞりと動かしたところでいきり立つ楔で後孔を貫いた。 「……っ!」  ビクッと跳ねた体を押さえつけるようにヴァイルが再び口づけた。シュエシの悲鳴はヴァイルの口の中に消え、震える体も両腕に包み込まれる。そのまましばらく動かずにいたヴァイルだが、深く口づけながら震える太ももを押し開き、さらに奥へと楔を打ち込んだ。 「っ、っ!」  下着から覗く初心な先端から薄い白濁が飛び散った。毎晩のように吐き出しているからか色だけでなく粘度も低い。サラサラしたそれは下着やドレスを濡らし、ヴァイルの前立てあたりをも濡らした。 「後ろだけで果てたか。それだけわたしに馴染んだということだな」 「はっ、は、はっ」 「果ててもなおわたしを食い締めている。淫らで貪欲な体は我が花嫁にふさわしい」 「んっ! あっ、ぁ、あ、あぁっ」  荒い息を吐いていたシュエシの口から甲高い嬌声が上がった。脱力していた体をブルブルと震わせながら楔をぎゅううっと食い締める。たまらず息を詰めたヴァイルは、そのまま最奥をこじ開けるように腰を押しつけ欲を吐き出した。 「ん……っ」 「あぁ、血がたぎって香りが濃くなってきたな……花嫁としての香りはすでに申し分ない」  耳の縁を甘噛みされて肌が震えた。「あ!」と甘い声を上げながら仰け反ると、さらりと揺れた黒髪に紅色の艶がチラチラと瞬き始める。歓喜の涙に濡れた黒目にも紅色の粉を散らしたような不思議な輝きが混じり始めた。 「……美しいな」  黒と紅色が混じり合う姿は、普通の者が見れば恐れおののくものだろう。だが、ヴァイルにとってはこの上ないほど極上の美しさに見えていた。感嘆の声はシュエシの心を振るわせ、頬をぽろりと涙が落ちていく。それをすくい取るようにヴァイルが優しく頬に口づけた。 「焦る必要はないと言ったが、本心ではわたしのほうが焦っている」 「んっ」 「もしおまえがわたし以外の同胞の血を求めるようなことがあれば……いや、そんなことはさせない」 「んぅっ」  言葉の合間に額や目尻、瞼に口づけられて漏れる声が止まらない。 「早く血を求めろ。わたしの血がほしいのだと、生まれたばかりの牙でこの肌を貫いてくれ」  ヴァイルの手がシュエシの後頭部に回り、自分の首筋に近づけるように引き寄せた。鼻先が肌に触れた途端に濃厚な薔薇の香りが胸いっぱいに入ってくる。 (薔薇の……ヴァイルさまの香りが……)  情欲とは違う熱に体が震えた。 (……喉が熱い)  ひどく喉が渇く。唇を舌先でちろりと舐めたが、そんなことでは渇きが収まるはずもなかった。 (何か飲むものを……)  思い浮かんだのは水ではなかった。もっと濃く甘い香りを漂わせる真っ赤なものがほしい。幼い頃に母親と一緒に食べた果実よりも赤く甘い、この世界でもっとも香り高く濃密ながほしい。  シュエシの口がゆっくりと開いた。そのまま目の前にある美しく白い肌にかぷりと噛みつく。そうして赤ん坊が乳を吸うかのようにチュウチュウと吸いついた。 「そうだ、早くそうやって牙を突き立てろ」  ヴァイルの言葉に反応するかのように歯を立てるが、牙がないため皮膚を貫くことはできない。それでも吸わなければと必死に肌を甘噛みした。 「まるでくすぐられているようだな。だが、こうした経験もおまえとなら煩わしいとは思わないのだから不思議だ」  喉の奥で笑っているからか、吸いつく肌が小刻みに揺れている。それを心地よく感じながらシュエシは肌を吸い続けた。  この日を境に、シュエシは肌を重ねるたびにヴァイルの首筋に吸いつくようになった。快感に溺れながらも唇を這わせ、かぷりと噛みついてはチュウチュウと熱心に吸う。そのせいでヴァイルの首筋にはいくつもの赤い痕が残るようになった。  あまりに増えた赤い痕は、昼間でも襟の隙間からチラチラと姿を覗かせる。情事の証とは違うはずなのに淫猥に見えるのはなぜだろう。シュエシは頬を赤くしながらも小さなため息を漏らした。 (早く牙が生えてくればいいのに)  そうすれば痕を残すことなく愛しい人の血を啜ることができる。 (ようやくそういう気持ちになってきたのにな)  真っ赤な血を想像しても恐怖心や嫌悪感を抱くことはなくなった。それよりも早く味わいたいと思っている。この世でもっとも愛しい人の血潮を口にしたくてたまらない。 (いつになったら牙が生えてくるんだろう)  毎日鏡で確認するものの、それらしいものは見当たらないままだ。 (あと十日くらいで故郷に着くのに……)  宿に泊まるのも今日を含めて残り四回だろうとヴァイルが話していた。できれば馬車の中ではなく体を休めることができる宿で初めてを迎えたい。そのほうがヴァイルの負担も少ないだろうと考えてのことだ。 (早く……大好きなヴァイルさまの血を、早く)  不意に喉の奥がチリチリと熱を帯びていることに気がついた。喉が渇いたというよりも奥がひりつくような奇妙な感覚に眉をひそめる。「変だな」と思いながらコップに半分残っていた水を一口飲んだ。 (……あれ?)  なぜか味がしない。いや、もともと水に味はないのだからおかしくはないが、何かが違う気がする。もう一口飲んでみるが何を口にしているのかわからなくなり三口目を飲もうという気にはなれなかった。 (もしかして風邪を引いてしまったんだろうか)  それなら部屋を出たほうがいい。ヴァイルに伝えなくてはと視線を向ける。  ソファに座って本を読むヴァイルは相変わらず嫁のように美しかった。予想より早く宿に到着したため、すでに湯を使い身軽な格好をしている。ただのシャツにズボンという出で立ちでも貴族然として見えるのはヴァイルだからに違いない。  そんな美しい人の襟元に赤い痕がいくつも見える。目に入ると恥ずかしくてたまらないのに、つい視線を向けてしまった。首筋、耳の近く、顎の近くまで……痕を見ながら、シュエシがぺろりと唇を舐める。そのうち口の中がむず痒いような気がしてきた。どこからか嗅いだことがない甘い香りもし始める。 「は、はっ」  誰かが荒い息を吐いている。やけに近くから聞こえるのはどうしてだろう。それも気になるが、一番気になるのはヴァイルの首筋だった。食い入るように見ている白い肌が段々と赤く染まっていくような感覚になる。 「ようやくか」  艶やかな声にゆっくりとヴァイルを見た。 「シュエシ、来い」  手を差し出す姿に胸が高鳴った。名前を呼ばれただけで頭がとろりと蕩ける。恍惚とした表情を浮かべたシュエシは、吸い寄せられるようにソファへと近づいた。 「さぁ、初めての牙をわたしに捧げろ」  甘く艶やかな声に体の芯がぞくりとした。同時にたまらなくいい香りが鼻腔をくすぐり、口の中がじゅわりと濡れる。 (とても……いい香りがする……甘くて、とてもおいしそうな……)  ソファに片膝をつき、ゆっくりと首筋に顔を近づけた。甘く濃密な香りにシュエシの黒目がうっとりしたように細くなる。  少し震える指先で襟元に手を伸ばした。ボタンを外すと、いくつもの赤い痕が残る白い肌が表れる。 「その初心な牙でわたしに食らいつけ」  応えるようにシュエシの唇がゆっくりと開いた。唇の端に白く小さな牙が見える。その牙を肌に当て、ゆっくりと力を込めた。  ヴァイルの眉が寄ったのはほんの一瞬だった。すぐに美しい口元に笑みが広がり、褒めるようにシュエシの頭を撫でる。黒髪には紅色の艶が広がり、嚥下するたびに血石(ブラッドストーン)が光るようにキラキラと煌めいた。  シュエシはこの日、濃厚な薔薇の香りに包まれながら初めて美しい化け物の血を口にした。 (僕は、ようやくヴァイルさまと同じ化け物になれた)  愛しい人の血を啜る顔は東の国にいるという夜叉のように禍々しく、しかし吸血鬼と呼ばれる西の国の化け物と同じくらい美しいものだった。

ともだちにシェアしよう!