翌日、“捕リ篭(とりかご)”を訪れたミティアスは、今度は“好き”についてキライトから質問責めにあうことになった。 「クロが、好き。燈火(ランプ)が、好き。花茶が、好き。……同じ好き？」 「ええと、そうですね。猫も燈火(ランプ)も花茶も、殿下が好きなもので間違いないと思いますよ」 　ミティアスは問いかけが難しくなかったことにホッとしながら、猫を撫でるキライトを見る。小さな声で「クロが好き」と復唱する姿は、まるで言葉を覚え始めた子どものようだ。 （あながち間違いじゃないか） 　キライトはいま、忘れてしまった感情を覚え直している真っ最中に違いない。もちろんそれには思う存分付き合いたいと思っているが、そろそろ難題を問われそうで心配になる。 　そう思っていたとおり、不意に顔を向けたキライトが口にした次なる質問はミティアスを大いに悩ませた。 「シュウクが、好き。ミティアス様も、好き。これも、同じですか……？」 「あー、それは、……同じかもしれませんし、僕としては違っていてほしいというか……」 「……？」 　紫色と淡い碧色の瞳が答えを待つようにじっと見ている。あまりに純粋無垢な様子に、ミティアスは己の欲望を混ぜて答えてしまいそうになるのを必死に押しとどめた。そうなると、今度はどう答えればいいのかわからなくなる。 　そもそもミティアスは、これまで“好き”ということについて深く考えたことがなかった。好きになればキスをし、体を重ねる。それがミティアスにとっての“好き”のすべてだ。 　しかし、純粋無垢なキライトにそんなことを言えるはずもない。言ったところで理解できるとも思えなかった。 （これは難問だぞ……） 　言葉で説明しようとはするものの、どう表現していいのかさっぱりわからない。じっと見つめるキライトの瞳に焦ったミティアスは、少しの期待を込めて振り返った。 （ダン……には、聞いても無駄か） 　背後にいたダンは、側近らしからぬ悪い笑みを浮かべてミティアスを見ている。そんな様子のダンが助言してくれるはずがない。諦めて隣に立つシュウクを見るが、こちらもにこりと麗しい笑顔を浮かべるだけだった。 「あー……、何か助言がもらえないかと思っているんだけど……。その顔だと、何ももらえないってことかな？」 「余計なことを申し上げるわけにはまいりませんので……。それに、殿下はミティアス殿下のお言葉で教えてほしいと願っておいでですから」 「いや、それがひどく難しくてね……」 　思わず眉尻が下がってしまう。そんな王国一の色男とは思えない表情に、ついにダンが吹き出した。それをジロッと睨めば、そばで見ていたキライトがわずかに顔を曇らせる。「しまった」と思ったミティアスは慌てて怒っていないのだと説明するが、それを見たダンがさらに声を上げて笑い出した。 「あっはっはっはっ！　これが国一番の色男とは、いやはや何とも」 　再びミティアスが睨んだものの、ダンの笑い声はますます大きくなる。ついには隣に立つシュウクまでもが小さく笑い出してしまい、そうなると両手を上げて降参するしかなかった。 「こっちは本気で困っているというのに、二人ともひどいな」 「はっはっは！　は～、久しぶりに腹の底から笑いました。殿下には、なかなか強力な薬になっているようで何よりです」 「ふふっ。ミティアス殿下にも、可愛らしいところが、おありのようで……ふふ、失礼、しました」 「…………笑いながら謝られてもね」 　目元を拭うシュウクに苦情を言い、ニヤニヤしているダンにはもうひと睨みする。まだ少し不安そうな表情を見せるキライトの艶やかな髪を撫でながら、思いついたことにミティアスがわずかに口元を緩めた。 「二人のほうこそ、僕が思っていたより仲が深まったみたいじゃないか。最近、よく二人でいることに気づかないと思ったか？」 　ミティアスの言葉に、ダンの頬がわずかにヒクリと動いた。その表情に内心「してやったり」と小さく笑う。 　ダンは名家出身ながら、下世話な話も猥雑な会話も平気な男だ。それこそミティアスの性に関する知識の多くはダンから得たもので、男娼に興味を抱いたのもダンの影響だった。 　そういう男なのに、どうしてか自分の色恋沙汰に触れられることだけは苦手にしている。案の定、ミティアスの言葉にダンの目が嫌がる色を見せた。ミティアスは小さく笑い、隣に立つシュウクを見た。 （こっちは変わらずか） 　いつもどおり麗しい笑みを浮かべたままで、シュウクが何を考えているかはわからない。 「ま、二人が仲良くしてくれるのは、僕としても喜ばしい限りだけど」 「仲良くは、好きなこと……？」 　静かだったキライトが不意に言葉を発した。どうやら“仲良く”という言葉に反応したらしい。たしかに“仲良く”も“好き”の一種だなと気づいたミティアスが答えようとしたとき、キライトの瞳が侍従に向けられた。 「シュウクも、好き？」 　おそらく、シュウクはダンのことが好きなのかと聞いたのだろう。それに答えたのはシュウク本人だった。 「はい、殿下。わたしはダン殿のことが大好きなのです。殿下のことも大好きですが、それとは違う“好き”でございますね」 「違う、好き……」 　シュウクの返事に、キライトが再び考え始める。口元を指で押さえながら考える姿を微笑ましく思いながら、ミティアスは側近と侍従をちらりと見た。 （なるほど、尻込みしているのはダンのほうか） 　ミティアスは意外に思った。二人の仲が深まっているように見えたのは本当だが、まだどことなく余所余所しく感じるときがある。てっきりシュウクのほうが一歩踏み出せないのだろうと思っていたが、どうやらミティアスの思い違いだったらしい。 （ダンに、何か思いとどまらなければいけない理由でもあるのか？） 　ミティアスほどではないものの、若かりし頃のダンはあちこちに恋人がいたと聞いている。それこそ相手は貴族の令嬢から同じ王宮騎士団の騎士までいて、手広いところはミティアスといい勝負だ。 　だから、色恋には手慣れているのだと思っていた。実際、手慣れている姿を見たことが何度もある。それなのに自分を慕っているシュウク相手に二の足を踏んでいということが、ミティアスは不思議でならなかった。 （……やっぱり、家のことか？） 　ダンの生家ベラート家は、当主の奥方が第一王子である上の兄の乳母に抜擢されたほどの名家だ。次男であるダンは家を継ぐ必要もなく、周囲が結婚や子どもを期待しているとも思えない。それなら同性の恋人を作ったところで何ということもなさそうだが、人質の侍従を恋人にすることに問題を感じているのだろうか。 （シュウクがキライト殿下の侍従だということを気にしているのか？　……いや、そんなことを気にする男でもないか） 　ミティアスも大概だが、ダンにも似たようなところがある。相手がどんな立場だろうと好きになれば気にしないのは、ダンに似たからだとミティアスは思っていた。 　そうなると、別の理由でシュウクとの仲を踏みとどまっているということになる。 （どんな理由か知らないけど、自分だってシュウクのことが好きなくせに） 　普段の二人を見ていれば、ミティアスでなくともわかるくらい二人は仲睦まじい。 （ま、王都にいたんじゃ自分の色恋に構っていられないか） 　その原因の大半は自分にあるんだろうけれど、と思いながら、ミティアスは兄のような護衛側近の幸せを本気で願っていた。 「熱烈に思われているダンがうらやましいよ」 「……殿下、」 　ダンが苦虫を噛みつぶしたような顔になる。すると、その隣で麗しい笑みを浮かべたシュウクが「わたしに思われるのはご迷惑でしたか？」と言ってのけた。あまりにあけすけな言葉に、ミティアスは笑いを堪えることができなかった。 「ぷ……っ。ぷはっ、ははは。なんだ、ダンは尻に敷かれているのか」 （それとも、僕の目の前で言うことで確実に仕留めるつもりなのか） 　どちらにしても、恋に積極的なのは意外にもシュウクのほうだということはよくわかった。それがなんともおかしくて声を上げて笑うミティアスに、ダンがうんざりしたような視線を向ける。シュウクのほうは変わらず笑みを浮かべたまま、静かに頭を下げた。 「お褒めに預かり光栄でごさいます」 「いやほんと、ダンもよかったな」 「……殿下、笑いすぎかと」 　渋い顔をするダンがおかしくてさらに笑い声を上げたところで、キライトが「ふぁ」と小さなあくびをした。「お昼寝にしますか？」と声をかけると、「はい」と眠そうな声で返事をする。そんな姿も愛おしく、ミティアスの口元に優しい笑みが浮かんだ。 ・ ・ ・ 「僕の気持ちは、ちゃんとキライト殿下に届いているんだろうか」 　シュウクと共に寝室へ向かうキライトを見送ったあと、花茶を飲んでいたミティアスは胸の内に仕舞っていた気持ちをほんの少し口にした。しばらく答えを待っていたものの、ダンからは何の反応もない。チラリと視線を向けると、先ほどまでとは違った優しい笑みを浮かべてミティアスを見ていた。 「どうかした？」 「いえ、思ったよりも殿下が真剣なようで、少しばかり驚いていました」 「僕はいつだって真剣だよ。……あぁ、違うな。いまの気持ちが真剣なんだとしたら、これまでの僕はたしかに真剣じゃなかった。ダンの言うとおりだ」 　これまでたくさんの恋人たちがいた。どの人もちゃんと好きだったし、大切にしていたと思っていた。たとえ一夜限りの恋だったとしても好意を抱いていない人を相手にしたことはなく、それこそ気持ちを伝えるために贈り物もたくさんしてきた。 　それでも、とミティアスは考える。 　きっと自分は、本気で相手のことを好きになっていたわけではなかったのだろう。そのときは「この人が好きだ」と思っていても、すぐに次の人へと気持ちが移っていった。相手のことを考えて悩んだり困ったり、それなのにどこか幸せで楽しく思ったのは、キライトを好きになって初めて感じるものばかりだ。 　ミティアスは、まだキライトを姫だと思っていたとき、強烈な感情から目を背けようとしたことを思い出した。あのとき、これが恋なら楽しくもうれしくもないとがっかりした。愛だとしたらなんて気持ちが悪い現象だろうと勘違いもした。冷静に分析していたつもりだったが、自分のほうこそ本当に“好き”になることを知らなかったのだ。 「きっと僕は、大勢の人を泣かせてしまったんだろうな」 　もしキライトに別れを告げられたら、絶対に立ち直れない。それを過去の自分は多くの恋人だった人たちに強いてきたのだ。 「だから、これは僕への罰だ。でも、僕は諦めたりしないし、キライト殿下のことを手放したりは絶対にしない」 「それでこそミティアス殿下です。わたしは殿下の味方ですし、どこまでもお供しますよ」 　そう言ってダンが碧色の目を細めて笑った。 　小さな頃からフラフラとしていた自分のことを、この優秀な側近は想像以上に心配していたに違いない。それでも見放すことなく仕えてきてくれた。そんな頼もしく敏(さと)いダンには、自分が考えていることなどすっかり露呈していることだろう。 「僕が考えてること、気づいてるよね？」 　調べ物の大半はダンを通じて行っている。とくにタータイヤ王国の諜報員を動かすときはダンを経由していた。いわく付きの土地への使者も、ダンが念入りに事前調査した者から選んだ。それで気づかないほど間抜けな側近ではない。 「はて、なんのことでしょう？」 　気づいていて知らんぷりをするところも、優秀な側近らしいじゃないか。 「別に気づかれたところで僕は困らないけどね。それに、わかっていてシュウクを突き放さなかったんじゃないのか？」 「さぁ、どうでしょうね」 　シュウクの名前を出しても、今度は表情を変えることすらなかった。 「あぁ、もしよからぬことを考えているならば、護衛側近としてお止めしますが」 「……狸め」 　毒づいたミティアスに、ダンがひょいと片眉を上げた。全部わかっていて黙ってくれているのだろう。 「まぁいい。それにしても、真剣になればなるほど恋っていうのは難しいものだな」 　そう漏らせば、ダンが小さく笑った。 「そう何度も笑われると、馬鹿にされているのかと思いたくなるんだけど」 「これは失礼しました。殿下の様子が、あまりに可愛らしいというか……。まるで初恋をした少年のようですよ」 「初恋、って……」 　反論しようと口を開いたものの、結局言葉は出てこなかった。 （そうか、初恋か……） 　ミティアスには、これが初恋なのかどうかよくわからない。しかし自分のことをよく知るダンが言うのなら、きっとそうなのだろう。 （ということは、これまで本当の恋を一度もしていなかったということか） 　散々色男ぶっていたというのに、恋だったかどうかすら気づけなかったとは情けない。そんな反省をしながらも、“初恋”という言葉に胸が昂ぶる思いがした。わくわくするような期待に満ちた感情も湧き上がってくる。 　昔読んだ物語には“初恋は実らない”と書かれていたが、自分はそんな失敗を犯したりはしない。ミティアスは高揚する気持ちを抑えながら、ニヤリと笑ってダンを見た。 「僕のほうは当然うまくいく予定だけど、ダンも同じだろうね？　僕とキライト殿下のためにも、美しい侍従殿をしっかり手の内に収めておいてくれよ。あぁ、尻に敷かれたままでもかまわないから」 　そう告げればダンの頬がわずかに引きつったのがわかり、しっかり反撃できたことにミティアスは満足した。