13 / 18
12 二人の欲望
初めてキスをした日から、キライトの表情が明らかに違うものに変わった。それは小さな蕾が花開こうと一気に膨らむような変化で、目の前にいるだけで触れたいと思わせるような何かをも漂わせていた。
そんなキライトに見つめられるだけで、ミティアスは意識が囚われるような錯覚に陥った。かつてキライトの祖国で淫らな下心に囚われた輩の気持ちが理解できるような、抗いがたい色香さえも感じる。
おかげでミティアスは、日々欲望との戦いを強いられることになってしまった。
「いやいや、僕の下心は真実、愛するゆえのものだから」
誰に咎められているわけでもないのに、言い訳じみた言葉を口にしてしまうくらいミティアスは追い詰められていた。
こんな気持ちで接してしまえば、今度こそ襲ってしまうかもしれない。獣じみた欲望に負けてしまうかもしれない……。
危機感を覚えたミティアスは、“捕リ篭 ”で過ごす時間をわずかばかり減らすことにした。一緒に過ごすときも距離感に十分注意し、触れ合う時間も最小限にとどめる。
それでも少し気を抜くだけで欲望に負けそうになった。ふとした瞬間に気づくキライトがまとう花のような香りに、どうしようもない劣情を感じてしまうことさえあった。
そんな自分を御するためにミティアスができることは、隣り合って座るときに少し距離を取ることや、触れる回数を少し減らすことだった。
そんな状態がしばらく続いたある日、ミティアスはいつもより遅い午後の時間に“捕リ篭 ”へ向かった。いつもどおり前室にダンを残し、扉を開く。
（あれ……？）
部屋にはシュウクの姿しかない。テーブルの前にもソファにもキライトの姿は見当たらなかった。
もう昼寝の時間は終わっているはずなのにと思いながら寝室に続く扉へと一歩踏み出したとき、背中をゾワリとした悪寒が走った。驚いて振り向くと、いつの間にかすぐ後ろにシュウクが立っている。
相変わらず美しい顔をしているが、その目は氷のように冷たく何の感情も見て取れない。初めて目にする美しき侍従の酷薄な様子に、ミティアスは思わず息を詰めた。
そのまましばらくじっと見つめあっていたが、口火をきったのはシュウクのほうだった。
「我が主人 は、気持ちを塞いでおられます」
「え？」
「ミティアス殿下が何かされたのではございませんか？」
「……え？」
シュウクの言葉に、ミティアスはひどく驚いた。
前日もキライトに会っているが、変わったところはなかったはずだ。触れ合いこそ少ししかなかったものの、落ち込んでいるような様子は目にしていない。自分が何かしたのであれば、そのときに何かしら反応したはずだ。
動きを止めたままのミティアスをじっと見ながら、シュウクが言葉を続けた。
「大好きな人が遠くへ行ったら、好きじゃない？」
「……なに？」
「昨夜、キライト殿下がおっしゃられた言葉です。大好きなミティアス殿下が遠くへ行ってしまったように感じておいでのようで、それは自分を好きではなくなったからなのかと、そう考えていらっしゃるようでした」
「え……？ いや、ちょっと待って、大好きなって、え？」
「すでにお気づきだったのではありませんか？」
シュウクの言葉にミティアスは返事をすることができなかった。たしかにキスはされたが、本当に恋愛という意味でのキスだと確信が持てないでいたからだ。
それに、自分が距離を取っていることに気づかれていたことにも驚いた。少し距離を取ってはいたが、キスをする前の近さは保っていた。自分から触れることは少し減ったものの、キライトから触れてくるのを拒んだこともない。そのことで「好きではなくなった」と勘違いされていたなんて、思いもしなかった。
（僕は、……どうしようもない失敗をしてしまったかもしれない）
ミティアスは己の欲望を抑えることばかりに目が向いていて、自分の行動がキライトにどう思われるのか想像していなかった。
初めて好きになった相手とキスをしたのに、その相手が急によそよそしくなれば誰だって気になる。もう好きではなくなったのかもしれないと誤解するのは当然だ。
キライトは周囲の感情に敏感で、自分の声色に反応することが何度もあった。そのたびに気をつけなければと思っていたのに、キライトの心を慮ることができなかった。自分のことに精一杯で愛しい人を傷つけてしまった。
ミティアスは、寝室の扉に視線を向けた。その向こうにいるキライトを思い、「これでは恋愛下手などうしようもない男のようだ」と自嘲気味に思った。いや、実際そうなのだから言い訳もできない。
「キライト殿下のお気持ちに真剣に応えていただけると、そう思っておりました。しかしそうではなかったのかと、僭越ながら、己の内面にばかり目を向ける、その程度の御方だったのかと残念に思っております」
シュウクから痛烈な言葉が投げかけられる。それは不敬とも取れる内容だったが、ミティアスは静かに受け止めた。
シュウクの苦言は間違っていない。首をはねられるかもしれないとわかっていても、言わずにはいられなかったのだろう。
微笑みながらも、シュウクの瞳の奥にはいつも心配の色が見えていた。ダンに心を寄せていても大きく進展したように見えないのは、主人 であるキライトのことを一番に考えているからに違いない。自分の気持ちをうまく伝えられないキライトのために、そっと導いたり席を外したりと心を砕いてきたこともわかっている。
そんなシュウクが寄せていた期待を、自分は裏切ってしまったことになる。
「……申し訳ない。僕は、……いまも昔も、自分のことばかりだな。殿下のことが本当に大好きなのに、こんなに想ったのは、初めてなのに」
思ったより弱々しい声に、我ながら情けなくなった。ミティアスの口に自己嫌悪の笑みが浮かぶ。
「そのお言葉は、直接キライト殿下にお伝えください」
そう言って美しい従者は寝室の扉へと視線を向けた。
「……いいのか？」
「はい。キライト殿下もお待ちだと思いますので。……どうか、良きように導いてくださいませ」
・
・
・
シュウクに促されて入った寝室は、ひっそりと静まりかえっていた。大きなベッドを見ると、中央がこんもりと盛り上がっている。いままでそんな寝方をしているのを見たことがないミティアスは、本当は自分が部屋に入ることを望まれていなかったのではないかと不安になった。
ところが、そうではないことにベッドに近づいてから気づいた。
「……ミティアス様」
目元から下を掛布で隠したままの言葉は少しくぐもっていたが、綺麗な瞳はキラキラ輝き、しっかりとミティアスを見ている。それはわずかな期待と密やかな思いを混ぜているような不思議な雰囲気だった。
ミティアスはベッドの端に静かに腰掛け、微笑みかけてから口を開いた。
「殿下、すみませんでした」
「ミティアス様……？」
謝ると、宝石のような瞳が動揺するようにわずかに揺らぐ。それすら綺麗だと、少しばかり見惚れてしまった。
「あなたを自分の欲のままにしてはいけないと、僕は怯えていたのです。だから少しだけ距離を取ってしまいました。決して、殿下のことが好きではなくなったということではありません」
「嫌いになったわけではない」とは言えなかった。子どものように純粋なキライトに、「嫌い」という言葉を聞かせたくないと思ったのだ。
そんな小さなことすら気にしている自分がおかしくて、ほんの少し苦笑いを浮かべる。それに敏感に反応したキライトが、眉をわずかに下げた。たったそれだけの小さな表情の変化でさえ、愛おしくてたまらない。
「殿下のことが大好きです。大好きすぎて、またキスがしたいと思っているくらいです。そのくらい大好きなんです」
「……うれしい、です」
つぶやいたキライトの目尻が、うっすらと赤くなった。羞恥のような、それとは別の感情も込められているような眼差しに、ミティアスの脆弱な理性がグラリと揺れた。
（……ここは、じっと我慢だ）
ここで欲望のままに振る舞っては、今回の二の舞になりかねない。渾身の力で欲望に蓋をし、伸ばしそうになる手を何とか押しとどめる。
そんなミティアスの内面など知るはずもないキライトが、掛布から顔を出しそっと口を開いた。
「わたしも、キス、したいです」
気がつけば、小さな体をベッドに押さえつけるように覆い被さっていた。キスに慣れていない柔らかな唇を塞ぎ、思う存分貪っていた。
小さく震える体が愛しくてたまらない。絡め合うことを知ったばかりの幼い舌を舐めしゃぶりながら、同時に体の線をなぞるように手を這わせた。
幾分か肉づきがよくなってきたとはいえ、キライトの体は十八歳にしては細く頼りなく、身長もずっと小さい。肉感的な女性やしなやかな筋肉を持つ青年が好みだったミティアスだが、いまは目の前の痩せて骨張った成長途中の王子にしか興味が湧かなくなっていた。
思う存分触れたい……そう思いながらも、これ以上手を出してはいけないとギリギリの理性で踏みとどまる。名残惜しいと思いつつ唇を解放すれば、トロリと蕩けたキライトが潤んだ瞳でじっと見つめてきた。淫らで美しい瞳に見入っていると、濡れて赤みを増した唇がわずかに開く。
「……だが、……ず、して……」
小さすぎる囁き声はミティアスの耳にははっきりと届かない。それでも何かを訴えるような様子が気になり、口元に耳を寄せた。小さく吐き出された温かな吐息に耳をくすぐられ、下肢にあらぬ熱が集まりそうになる。それを必死に押さえ込みながら、ミティアスは耳元に意識を集中させた。
「ミティアス様のこと、考えると、……体がむずむず、します」
「…………は、い？」
「体が、熱く、なります……」
思いもよらない発言に、ミティアスの体は一気に欲望へと傾いた。何とか踏みとどまっていた理性がガラガラと音を立てて崩れていく。
体を起こしたミティアスは、じっくりとキライトを見た。潤んだ美しい瞳は濡れたように輝き、頬は真っ赤に染まっている。ゆっくりと掛布を剥がすと、小さく震える華奢な体が現れた。少女が好みそうな寝衣が、よけいにキライトを可憐に見せている。
首から肩、胸へと順番に視線を移し、愛しい人の体を目で堪能する。そうしてたどり着いた先には、柔らかでゆったりとした布地を押し上げている小さな存在があった。
「キライト殿下、……むずむずするのは、ここですか？」
「……っ」
優しく触れたそこはたしかに熱くなっていて、欲情しているのがはっきりとわかった。先端を撫でるように触れればヒクンと細い腰が揺れる。顔を見ると気持ちよさと困惑が混じり合ったような表情を浮かべていて、もしや自慰すらしたことがないのではと思うほどだった。
灼けつくような目眩を感じたミティアスは、思わず固く目を閉じた。これ以上の行為に及ぶことにひどく怯えている自分を感じていた。こんなことは初めてで、据え膳に二の足を踏むのも当然初めてのことだった。
触れたい、貪りたい、貫きたい――そんな欲望と、大切にしたいという思いがぶつかり合う。
懊悩するミティアスの耳に入ってきたのは、またもや予想外のキライトの言葉だった。
「ミティアス様、触って……」
「キライト、殿下」
「大好きなら、触る、って」
「…………あなたの侍従は、なんてことを教えているんでしょうね」
華奢な手が、ミティアスの頬を包むように触れる。
「あつい、です」
「興奮してますからね」
なるべく怖がらせないようにとは思っているものの、たぶん無理だろうなと予想しつつ、ミティアスは目の前の肢体へと意識を囚われていった。
ともだちにシェアしよう！
