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第1話

 毎日仕事が忙しい。夕飯を職場で食べるのが当たり前だし、なんなら週に三日は夜食も食べる。終電も乗れたり乗れなかったりだけど、社畜なんて大半はそんなものだ。そうでなければ社畜の看板を上げる資格などない。そう、俺はどこへ出ても恥ずかしくない立派な社畜。それでもう何年もやってきて、社風も合って自分のペースで仕事ができていたのに、最近入った営業が俺の都合も予定も無視してバカスカ新しい仕事をぶっこんでくるから腹が立つ。死ぬほど、腹が立つ。 「悪い。これ、ちょっと今見て意見くれ」 「無理」 「頼む」 「無理」  俺は通勤時も勤務中もノイズキャンセリングのヘッドフォンをしている。流す音楽はジャズかクラシックかサントラで、そういう諸々のプロテクトを突破してくる奴の声に、腹が立つ。  眼鏡に手をやりつつシカトを決め込んでもそいつは手近の椅子を寄せて座り、ヘッドフォンを装着したままの俺に仕様の説明を始める。要約するとすごく大事な仕事で急いでるから俺の言う通りさっさとやれってことらしいんだけど、無駄にいい声で穏やかに話されるとムカつくほど説得力があって、なんとなく手伝ってやってもいいような気にさせられて、それがまたムカつくから黙ってディスプレイ睨みつけたままカチカチタカタカ作業していたら、背後から一部始終を見ていた上司が俺からも頼むわーと声を掛けてくる。  それを潮に、そいつの方をじろりと見る。相手は目が合った途端ににやりと笑った。くっそ腹が立つ!!! 「いつも悪いな。これ、お礼。得意先からの戴きものだけど」 「……」 「助かる。よろしくな」  シンプルで物の少ない俺のデスクの端に置かれた小ぶりの箱。やばい。数週間前から予約しないと買えないもなかだ。その電話もなかなか繋がらないし、予約品を引き取るのにも列に並ぶ名店だ。しかも待て、下の箱は生菓子じゃないのか。やばい。目ざとい同僚たちがやったー!お茶淹れよー!!と叫んでいる。 「待て!生菓子は二つ食いたい!」 「だめだよ、一人一個!」 「頼む!!超好きなんだよ!!」 「だめ!」 「俺が仕事引き受けたのに!?」  俺は同僚を拝み倒して、ちょっと納得いかないけど、とにかくもなか一つと生菓子二つを手に入れて、でかい湯のみに入れたとっておきのお茶をすすってしあわせに包まれる……。ああ!またやられた!!予定外の仕事を無理やり押し付けられたのに、こんないいお菓子くれていい人……とか思うところだった!!俺は我に返ってお茶だけ飲んで談笑している腹の立つ営業マンを睨み、お前は敵だ、と念を送っておく。 ◆  この世にいつの間にか出現していた三つの第二の性。それは男女という二つの性の括りを超え、絶対的な力ですべての人間を傅かせた。  とりわけアルファ性は有能かつ万能で、オメガ性は生殖のみがその存在理由であるというような価値観は、当初人々の精神を大いに歪ませた。  しかしやがて性の壁をよじ登り、偏見や差別を突破する人間が出始めると、人類に課せられた宿命ともいえる第二の性そのものを打ち消そうという人間が現れた。本能を抑制する薬の開発に始まり、今現在ではほぼ第二の性を周囲に気付かれずに生活することが可能だ。幼少期の簡単な外科処置で身体的な特徴は快癒させられるし、小さなチップを埋め込んで性的な差異を発現させるホルモンを抑制できる。人生のあらゆる場面で性を秘匿する権利が認められ、人間を三つに分類した性は血液型か瞳の色程度の個性とも呼べないようなただの個人的特徴の一つとなった。  もちろん偏見は残っている。だけどそれは、A型の人ってどういう性格だとか、赤毛の女はどういう性癖だとか、あの辺の出身者はどういう金銭感覚だとか、そういう一応の根拠があるようなないような、当事者が悪意を持って聞かされれば不愉快だけれど態々食って掛かるほどでもない他愛ない戯言と聞き流せる程度の話だ。そしてそういう話に、眉を顰めるような良識も広がっている。  そんな世の中で、俺、中部俊一はオメガ性であることにそれほど引け目を感じることなく生きてきた。通常幼少期に受ける外科的処置が、超未熟児で生まれたおかげで中々受けられず、さらには両親を含め、第二の性を感じないのがあまりに当たり前になりすぎて危機感がないまま時間が過ぎ、対応が遅れた。今となってはほぼ症例のないオメガ性独特の身体の変化が息子に現れつつあると気付いたとき、両親は大いに慌てた。仮にオメガ性全開の人間がうろついたところでそれに感化される相手はもうほとんどいないから、危険はない。それでも、だからこそ、奇異の目で見られる。オメガ性だからではなく、未処置の人間は最低限の予防接種を受けていないようなものなのだ。根絶したはずの病を無防備に得たに等しい人を何とも思わないほど寛容な社会ではない。  俺の体内では、すでにオメガ性独特の変化が起こっていて、妊娠可能なところまで来てしまっていた。その話を聞いたときにはさすがにゾッとした。俺は同性愛者でその頃には男の恋人もいたし、その人と性行為もしていたからだ。ちなみにお互いの第二の性は知らない。別にわざわざ知らせるほどの情報ではないのだ。俺が特殊だっただけで、普通はとっくに第二の性を消し潰して成長しているのだから。  服薬し当面の問題を押さえこみ、学校の長期休みを利用して手術を受けた。大多数の人が身体からオメガ性の特徴すべてをなかったことにできるのに俺は出来なかった。あまりにも変化が進んでいて、根こそぎ取るには宿主の俺の身体が持たない。それでも埋め込まれたチップから半永久的に供給され続ける化学物質と的確に施された避妊処置のおかげで、その手術以降自分のオメガ性を実感することはほとんどない。  ただ時々、無性に惹かれる相手が現れる。もしかしたら相手はいつもアルファ性だったのかもしれない。だけどそれを確認することは絶対にしなかった。俺はちゃんと、オメガ性を封じ込んで生きているのだから、アルファ性を持つ誰かに振り回される人生などごめんだ。 ◆  仕事を押し付けられたり押し付けられたり押し付けられたりしながら、俺は淡々と変化の少ない毎日を送る。その生活は割と気に入っていた。自分の選んだ職業で飯が食えていて、やりがいもあって自尊心も保たれる。つまり最高ってことだ。ここのところ恋愛はご無沙汰だけど、忙しくて出会いがないだけで枯れているわけじゃないし、彼氏がいなくても時々ムラッとするだけで、それほど不便はない。映画も食事も一人でも楽しめる。酒だけは、一人で飲むのは好きじゃない。でもだからといって、いけ好かない同僚と飲むのはお断りしたかった。 「好きなだけ飲んで食って」 「…………」 「せっかくの予約だから。もったいないだろう?ワインでいい?あ、泡泡飲んどく?」 「…………飲んどく」 「ん。料理はコースだけど、気になるのがあれば追加して」  さあ今日も残業だと、エナジードリンクを取りに給湯室へ行ったら。件の強引な営業マンに掴まった。曰く、取引先との商談用に店を押さえていたけど延期になった、どうせキャンセル料を取られるくらいならもったいないし一緒に行かないかと。俺は当然その誘いを聞こえなかったことにして冷蔵庫を開けた。その営業マンは冷蔵庫の扉を閉めた。おごるからさ、とにっこり笑う。そして俺のおなかが鳴った。 「中部って、本当にセンスいいよな。その歳ですごいな」 「歳、関係なくね?そんなに違わないし」 「んー。でもやっぱり、経験で磨かれるところもあるだろ」 「うち、すっごい仕事量なんで。すっっっごいんで」 「あはは。いつも頼ってるもんな、すまん」  営業マンは楽しそうに笑い、俺のグラスにシャンペンを注いでいる。こんないいレストランに来る予定なんかなかったから、コットン素材のシャツとパンツとジャケットでノータイ。明らかに客層から外れている俺なのに、お店の人はとても親切にしてくれるし料理もめちゃめちゃおいしい。え、待って、マジでおいしいんだけど。 「中部、食い方きれいだな」 「そうか?あー美味い」 「うん。お前連れてきてよかったよ。デザート、お土産に持って帰れるようにしてもらうか?」 「デザートって何?」 「今から出てくるのは、なんだ?中がとろっとしたやつ。お土産にできるのは焼いてるやつ」 「お前、本当に語彙力ないな。そんなんでよく仕事取ってこられるな」 「料理の名前、難しいから覚えられなくてさ。要る?」 「要る」  遠慮はしねぇぜ。普段散々な目に遭わされてるんだ。ちなみに綺麗なお皿に乗って出てきたのはフォンダンショコラだった。営業マンは綺麗な色のシャーベットだ。ピンポン玉の半分くらいのサイズのがいくつか透明なグラスに入っている。 「一個食う?」 「食う」  お行儀が悪いとは思いながらもその魅力には抗えず、俺は黄色いシャーベットを口に入れてもらった。やばい。美味しい。バケツくらいのサイズで食べたい。そんな美味しいデザートまでしっかり食べて、飲み足りないという営業マンに腕を引かれて、なんだかこじゃれたバーに連れて行かれた。そこで飲んだ酒の名前は覚えていないけど、それもすごく美味しかった。だからすごく飲んで、すごく酔って、目が覚めたらベッドの上だった。 「…………ここ、どこ」  呟く声はかすれている。喉が痛い。酔うと話し声が大きくなるタイプで、しかもしゃべりが止まらなくなるから、たくさん飲んだ翌朝は大体喉を痛めている。でも知らない場所で目が覚めたのは初めてだ。そんなに深酒したことはなかった。 「起きたか?」 「ひ!」  すぐそばで声がした。どのくらいそばかって言うと、目を動かしただけで本体が視界に入るくらいそば。同じベッドの上で、同じ布団を身体に掛けて、同じ会社の営業マンが寝そべっている。 「ひっ!!」 「いや。驚きすぎだろ。あー、覚えてないのか?お前酔いつぶれて」 「そんなに、飲んだ、っけ、俺」 「おお……まあ、別に吐いたり騒いだりしなかったからいいけど。フラフラしてて危なっかしいから連れて帰ってきた」 「おおおおお世話に、なりまし、た」 「休日出勤、しないよな?」 「あ、うん」 「朝飯、食えそう?」 「うん、ありがとう、ちさと」  ……え?誰、ちさとって。元カレにいたっけ、ちさとって。口にまだ馴染まない覚えのない名前。枕を抱えてうつ伏せで寝転がっていた営業マンは、ふっと目元をほころばせて俺の頭を撫でた。 「覚えてたんだ。俊」  お前か!?お前がちさとか!!??なに勝手に俺を俊とか呼んでんだ、それは仲いいやつにしか呼ばせない呼び方なんだぞ!だから、だから。 「お前食い方も綺麗だけど、そもそも綺麗好きなのな。あんなにベロベロだったのに、しっかり風呂入って歯磨きもして、新品のパジャマと下着を寄越せって要求して」 「ご、ごめ」 「普通新品のパジャマはないだろ。洗濯してるから大丈夫だよって説得するのに時間が掛かった」 「パンツは新品?」 「パンツは新品」 「ありがとう、……ちさと」  情けなく掠れてる俺の声とは違って、朝っぱらからちさとの声は甘く響く。仕事の時はあんなにムカつくのに、昨日は俺、一度も財布開けてないだろうし、本当はすっごくいいやつなのかもしれない。  ちさとはその後甲斐甲斐しく朝飯を食わせてくれて、車で家まで送ってくれた。もちろん夕べのレストランのお土産の焼き菓子も持たせてくれた。その車が走り去るのを見送りながら、ちょっと期待したなぁとぼんやり思った。顔も声もいい仕事のできる同僚。酔った勢いで寝てればいい感じに転がったかも、とか。ヘテロか、俺が好みのタイプじゃないか、いずれにせよ脈はなさそうだ。残念だけど社内恋愛で拗れても面倒だし、これでよかったんだ。そう思って、俺はその日一日をだらだらと過ごした。 ◆ 「ふざっけんな、毎回毎回無茶言いやがって、バカじゃねぇ!?客の言いなりになってんじゃねぇよ!!」 「お前の方こそやればできるくせに、実力出し惜しみするな」 「やればできるよ、当たり前だろうが!俺が言ってんのはお前の仕事の進め方だ!」 「後で聞くから、今はこれを先にやってくれっつってんの」  本当にこいつと寝てなくてよかった。あの日以来、クソムカつく営業マンちさと、上条智里は、恐ろしい暴君と化した。信じられないけど今まであれでも遠慮してたらしい。お互いを名前で呼ぶようになった途端、距離感が変わった。言わなくてもわかるだろうと丁寧な説明を省き、終電を逃したような時間から新しい案件の相談を持ち掛け、その代りのように仕事が片付けば大いに褒めて美味いものを食わせてくれる。俺は何だ?お前の子分か?お前は俺の親分か!!?? 「ほんと、俊がいてくれて助かる。てか、お前がいないと生きていけない」 「さっさと死ね」 「ここさ、もう少しだけ華やかな感じにならん?後ろに光が灯ってるみたいな」 「先に言えよ、能無し!!」  キーボードとマウスを操作する音と俺の暴言が静かなオフィスに響く。お前バカなの?もう日付変わってんのに明日の朝これ持って商談に行くとかバカなの?それに付き合わされる俺の身にもなれバカ―!!!! 「最高。やっぱお前に任せるのが一番だわ」 「任せてねぇだろうが……隣でブツブツチクチクうるせぇったら……」  これでもう何度目だろうか、智里の無茶に付き合うのは。他の営業の追随を許さずトップセールスを走り続けている。それはこちらに無理を強いているからだ。そういう仕事のやり方は大嫌いだ。俺はもっとちゃんと一つ一つに向き合いたい。 「あー……くそ……」 「悪かった。ごめんな。それ、冷めたら送るよ」  脚をデスクに載せて頭を椅子の背もたれに預けて、眼鏡を外して酷使した目にお高い目薬を差し、目頭をしばらく押さえ、ホッとするあったかい蒸気が出るアイマスクでしばし休憩。一息ついたら智里が車で家まで送ってくれる。以前なら仮眠室で寝てたところだ。車の中でも寝てるから睡眠時間は変わらず、家に帰ったという安心感で疲れは軽減される。そうでもなければこんなことに何度も付き合わない。どれほど顔と声がよくても甲斐甲斐しくても。  智里は俺の髪をさらさらと撫でて、仕上がりを確認しながら俺のホッとする蒸気がおさまるのを待っているらしい。 「俊」 「あー……?」 「寝るなよ」 「寝てない……」 「寝たら担ぐけど」  そう。智里は声も顔もいいし体格もいい。でも痩せてはいるが小柄ではない俺を担げるとは思えない。そもそも寝てない、まだ。 「なあ、俊」 「……んだよ……」 「お前さ、オメガだろ」 「……」 「処置が遅かったか」 「……は?」 「俺もそうだから。生まれた時に心臓が元気なくてさ。性処置が遅かったから、普通よりそういうのが残ってて」 「……」 「お前にだけ、他の人と接し方が違うのは、頭ではわかってるんだけど。気を付けてるんだけどうまくいかなくてさ」 「……」 「いつも、悪い」 「…………お前はアルファってこと?」 「うん」 「そういうの、口にするのは行儀悪いって習わなかったか。自分のことも人のことも」 「ごめん」 「言い訳にすんなよ」 「ごめん」 「俺は周りの人の性なんて気にして生きてない。確かに俺はオメガ性だけど、ちゃんと処置したから消えてるはずだ。アルファ性の人間に振り回されたりしないし、影響を与えることもないし、妊娠させられることもない」 「俺だって処置済みだ。何年か前にパイプカットもした」 「は?関係なくね?」 「大昔のオメガ性が自分でコントロールできない発情期を嫌ったように、アルファ性だって遺伝子レベルの支配欲と征服欲に憑りつかれるのは煩わしいんだよ。もしも万が一そういう部分が暴走したとき、取り返しのつかないことになるのは嫌なんだ」 「……」 「俺は、本能じゃなく、理性で人と付き合いたい」  アイマスクは冷めていた。智里はずっと俺の髪を撫でている。これってどういう状況?口説かれてるのか、告ってもないのにフラれてんのかどっち?俺はアイマスクを毟り取って、天井灯の眩しさに少し目をしばたかせてから、智里を睨んだ。 「はっきり言えよ」 「今日俺んち来いよ」 「なんで?」 「お前が好きだから」 「俺、お前みたいな仕事のやり方すごい嫌い」 「仕事の話はしてない」 「お前のことは好き」 「だろうな」  口説かれてたのか。いや違うな。おびき出された、に近い。すごいムカつくけど、キスしたら全部吹っ飛んだ。本当に吹っ飛ぶほど気持ちよかった。理性なんか何の腹の足しにもならない。ただし社会人としての最低限のマナーは死守できる。つまり、誰もいないとはいえオフィスでセックスはしなかった。 「あー、くそ……信号……!」 「事故んなよ」  キスだけで歩けないほどヘロヘロになった。智里もすごい顔してた。もうここで抱かれてもいいやとも思った。いや、抱かれたかった、すぐにでも。ずっとムカつく奴だとしか思ってなかったけど、意外と智里に憑りつかれていたらしい。智里も智里で自分のネクタイを乱暴に外して、俺のベルトも外しにかかってた。そこまで盛り上がったとき、データ受信のお知らせ音が二人を現実に引き戻した。  息を乱し、気まずくもいそいそと自分の服を直してバッグを掴み、絡まり合うようにキスしながら地下駐車場に降りて、湧き上がるヨクボーを抑え込んで智里の家に向かう。  心臓がバクバクしてる。顔が熱いし股間がつらい。襲い掛かりそうになるから助手席の窓の外をじっと見つめて気を逸らしているのに、智里が手を握ってくるから色々台無しだ。指先で手首とか指の股とかスルスル撫でられて、頭がガンガンするほど興奮する。ギュッと目を閉じて、息を吐く。 「……まだ?」 「まだ」  遠いんだよクソ。幹線道路沿いにホテルの看板が見えて、いっそそこでいいと言いそうになったし、智里の指も条件反射みたいにウィンカつけたけど、一瞬で消してた。二人ともとにかくやることしか考えてないから、使ったことのないホテルに向かって手間取るより智里の自宅を選択した。早く、早く。  ようやく着いて、さすがに智里の生活の場所だから死ぬ気で我慢して、玄関のドアを閉めた瞬間タガが外れた。智里にしがみついてキスをして、それだけでイキそうになる。こいつはアルファ性がまだ残っている男で、俺はオメガ性を消し切れなかった男で、でもこの感情や衝動の原因がそれだとは思いたくない。なのに、今までしたどんなセックスよりもよかった。何をどうされると気持ちいいとかそういうレベルじゃなくて、吐息さえ掴まえたいほどに、溺れた。 「俊……俊……」 「あ、ああ……!あー、も、だめ、だめだめ、やめてぇ……!」 「また、イく?イクな?あー……すっげ……」  智里のセックスが巧みなのかどうかはわからない。でもとにかく、彼のが俺のにぴったりくる。奥まで差し込まれて、普通なら苦しいはずなのに、すごいところを押し潰されて宙を蹴る自分の脚が信じられないほど震えてる。足の指がぎゅって丸まったりこれでもかって広がったりしてる。脳みそ全部とけちゃって、よだれとか潮とか精液になって出てんじゃないのかなって思うくらいだ。 「俊の、俺のに吸い付いてくる。キスされてるみたい」 「キス、して」 「うん。上に来て」  キスしながら体勢を入れ替えて智里の上に乗り、身体を起こして智里を見おろす。智里は早漏って言うんでもないけどちゃんと何度か射精してて、だからすごい強いんだなって思う。すぐ勃つし、途中で萎えたりしないし、今もほら、下から俺の中を突き上げて笑ってる。 「あーすっげぇ気持ちいい……俊の奥、先っぽに当たって、こりこり擦れて、あー……」 「そこ、だめだってぇ……!あ、ぐッ……!いく、いっちゃ……!……!」  両手首をがっしりと掴まれて、俺も智里の手首を掴んでいるから、汗で滑りそうでも離れることはない。突き上げられながら自分でも必死に腰を振り、また思いっきり絶頂して身体が大きく後ろへ倒れたけど智里の腕が引き止めてくれるし、イってる最中のその体勢の俺をさらにガンガン攻めてくる。  もう死にそう  最高にキモチイイ  何も考えたくない  ぐにゃぐにゃになる俺の身体を、智里が抱えてベッドに沈めてくれる。力が入らず腕を投げ出していると、手首を掴んで俺を押さえつけて、動きはゆったりながらも容赦なく中を抉ってくる。  死んじゃう  許して  もうこわれちゃうよ  何度も失神しそうになりながら、それでも本心は、本能じゃない、本心だ、本心は智里を欲していて、自由にならない腕の代わりに脚を智里の腰に巻き付けて続きを必死に強請っていた。 「俊」 「な、に」 「脚、離せ。ゴムつけてない」 「……はっ!?なんで、ちゃんと」 「在庫が切れた。生でもいいかって聞いたぞ?」  覚えてない。いつ?結構前から、いっそ最初から、意識は朦朧としていたから聞き逃していても不思議はない。グズグズにとけていた頭の中が急に冷える。生でセックスなんかしたことない。中出しなんてとんでもない。冗談じゃない。ありえないはずの可能性が脳裏に浮かんで身体が強張る。そういうのは、イヤだ。 「やめ、ろ」 「わかってる。だから、脚をどけろ」 「あ、やだ、やめて、いや……!」  智里の手が俺の手首を解放して、代わりに俺の膝を叩く。信じられないこのクソ営業マン、初めてのセックスで生ハメだと?さっさと俺の中からいなくなれ!  本心ではそう思っているのに、惰性でユラユラする智里の腰の動きに翻弄されて、脚を解くどころか腕も使ってしがみついてしまう。しょうがねぇなと耳元で囁いて、智里が少し強引に俺を引き離そうとする。そして俺はまた、痙攣しながら天国を見る。 「く……っ!ばか、お前……!」 「も、やだぁ……!あ、あ、ああああ……」  智里がギュッと眉根を寄せて、射精を堪えているのが見える。だって、身体が勝手によろこんじゃうんだもん。どうにかしてくれ。もうどうにもならない。智里は俺にキスをして、強い力で俺の腕を振りほどいてもう一度手首を真上から押さえつけた。 「いいのか」 「よく、ない、いや……いやだ……やめて……」  なのにやめたくない。ちゃんと処置したから妊娠なんてしない。だからきっと中で出されたって平気。ちょっと不安はあるけどそれは初めてだから。絶対、気持ちいいでしょ。でも、いやだ。  ぐるぐると訳の分からないことが頭をめぐる俺を見おろして、智里は唇の端で笑った。そして動き出す。完全に俺をいかせるつもりだし、自分も出すときの動きに、頭の中が白く光る。もう、どうにでもして。 「怖くないのか」 「なに、が」 「孕むかもしれないのに」 「……は……?え?なに、言って」 「俺のパイプカットが不完全だったら?お前の避妊処置が失敗してたら?」 「ふざけんな……!!」  血の気が一気に引いていく。恐怖は快楽を一瞬凌駕し、刺激し、お互いを増幅しあう。俺がどれだけ暴れても智里はもう動きを止めない。  こわい  こわい  誰かに支配される予感  それを望む自分  いやだ  いやだ  それなのに身体が、今までで一番高いところに登りつめようとしている。智里は枕に額を預けるようにして顔を突っ込み、俺の首筋に歯を立てた。痛みと、はっきりとした与えられる愉悦。その傷を舐められる刺激さえ叫んでしまうほどの快感だった。追い詰められる。間近にある智里の目を見て必死で首を横に振った。涙が散る。お願い、やめて、出さないで。 「いや、いや……!」 「例えそんな危険があっても、それでもお前は、今ここで俺に中出しされたい。違うか?」  違わない。どうなってもかまわないから、中に欲しい。本能も本心も関係ない。ただ本気で智里の全部が欲しかったし、智里に全部を奪われたかった。腕にも脚にも力をこめる。絶頂に身体が反り、暴れるのを智里が全身で押さえつけて俺を離さない。 「俺も、出したい」  智里は俺の大好きな声でそう囁いて、もう一度俺の首に噛みつきながら俺の中で射精した。身じろぎもできないほどにがっちりと抱えられて、一滴残らず全部を注ぎ込まれる。ふ、と一瞬気を失って、もちろんすぐに意識は戻り、まだ俺を抱きしめている智里の満足げな呻きを耳にしたら猛烈な多幸感に襲われて、智里が抜くいてもしばらく、俺はメスイキしっぱなしで震えていた。  ◆  あの後結局付き合うことになったんだけど、お互い執着心が強すぎるせいでものすごく衝突するし、遠慮も会釈もないくらいお互いが好きすぎて、本音を言いまくって喧嘩は絶えない。そして何より、智里の仕事のやり方は変わらないから、付き合わされてムカつく日々は続いている。 「こっちの方がいいって言ってるだろ。俺のセンスを疑うな」 「わかってるけど。でも客はもう少しかわいい感じがいいって」 「あー、客ね。あのかわいい客ね。近所まで来たんでーとかいう理由で手土産持って乗り込んできたかわいい客ね」 「なんだよ、かわいいのはお前だろ?焼きもちか。かわいいな、お前」 「デレデレしてんじゃねぇよ、気持ち悪い。あの客、お前目当てだろ。仕事取るのに、ちょっかい掛けたんじゃ」 「するかバカ」 「は、どうだか。お前が一切何も調子いいこと言ってなくて、客があんな風に押しかけてくるか?」 「知らん。いいから、ここ直してくれ」 「お願いしますって言えば」 「お願いします」  こいつの仕事のやり方は本当に嫌いだ。だから根拠もなく、その声や顔で誑かして誑し込んでんじゃねぇのかなんて、焼きもちを通り越して確信めいた諦めが頭に浮かぶ。だって、智里かっこいいもん。俺みたいなひょろ長青びょうたん眼鏡とは違うもん。手近のアイスコーヒーをすすり、これも智里が買ってきてくれたものだ、黙々と手を動かす。明日は休みだ。こいつは仕事するんだろうけど俺は寝て過ごす。ああくそ、調整が上手くいかねぇ。 「俊、ごめん」 「……」 「別にちょっかいかけてないけど、愛想よくしすぎたかも。ごめん」 「……仕事だろ。それがお前の営業スキルだろ」 「顔しか取り柄ないみたいに言われると辛いんですけどー」 「はい、できた。これでいい?俺もう帰る」 「おお、ばっちり。最高。ありがとうな」  椅子ごと俺を引き寄せて、智里がご褒美のようにキスをくれる。唇が触れた瞬間ビリビリって痺れるくらい、気持ちいい。前にそれを言ったら、俺もだよって言ってくれた。だから、あんまりキスしてると歯止めが効かなくなる。二人ともキスで理性を飛ばすから。うちの部署はもう誰もいないけど、この時間ならまだほかに人は残ってる。こういうシーンを見られるのは好きじゃない。離れがたい気持ちをねじ伏せて、智里の身体を押し返す。 「帰る」 「もう少し待ってろよ。一緒に帰ろうぜ」 「……」 「だめか?疲れた?お前の家まで送るよ、それぐらいさせて」 「まだ電車あるから、いい」 「俊。機嫌直してくれ」 「別に怒ってない。車より電車の方が速いし、いい。それに、コンビニ寄りたいし」 「は?」  智里の声が低くなった。え?なに?なんか変なこと言った?普通だったよな?ぎょっとして智里の方を見たら目がすわってる。なんで、怒って。 「ちさ」 「コンビニって、お前んちの近所の?お前あそこの店長、気に入ってるもんな」 「はあ?何言ってんの」 「四十ちょっとって感じ?愛想よくはないけど顔と声はいいよな。お前、顔と声のいい男好きだもんな。ああ、あの店長ガタイもいいし」 「バカじゃね?つまんないこと言うなよ。店長ってどの人かわかんない」 「この間そこのコンビニでコンドーム買おうとしたらお前嫌がったじゃん。レジやってた店長に彼氏持ちだって思われたくなかったんだろ?」 「ちげぇわ!」 「じゃあなんだ?中出しのお誘いだったか?でもお前あの晩」 「あーもーうっせぇな!お望み通りそのコンビニで、店長さんのサイズのコンドームどれですか?ってナンパしてくるわ!それでお前の妄想と現実の辻褄合うだろうよ!」 「お前、ふざけんな!閉じ込めて孕ますぞ、ボケオメガ!!」 「お前の種なんか死んでも願い下げだ、クソアルファ!!」  人に聞かれるとまずい種類の口喧嘩なので、一応トーンは抑え目だけどみるみるヒートアップしていく。智里は馬鹿だ。店長って誰だよ。俺の周りにそんないい男いたかよ、お前のほかに。 「付き合ってらんね。帰る」 「おい待て。今のは別れ話じゃないよな」 「さあ?」 「嘘。やめて。ごめん、俊、許して」  智里は馬鹿だ。俺がお前に別れなんか切り出すはずないのに、喧嘩してほんの少しでも別れ話に発展しそうに思うと智里は驚くほど取り乱す。それを見て俺もあっという間に怒りは消えて、智里への酷い態度を悔やむのだ。 「別れるわけないだろ、俺はお前が好きなのっ!」 「本当か?絶対か?頼むよ、俊。俺を捨てないで」 「ちー、ごめん。俺も言い過ぎた。別れるなんて考えてない」 「俊、好きだ。もう顔で仕事取ったりしない。この顔はお前のお気に入りなんだから、他の奴にはやらない」 「やっぱり顔で仕事取ってたのかよ」 「俊、俊。別れるなんて言わないでくれ。本当に閉じ込めてしまう」 「言わない。ほら……一緒に帰ろう?」  手を差し出せば、智里は嬉しそうに、ホッとしたように笑って俺の手を握って立ち上がる。じんわりと、手のひらから智里の執着が伝わってくるような気がする。そしてそれが、心地いい。 「お前んちで、いいよ」 「ああ、早く帰ろう」  閉じこめられるなら、お前の家の方がいい。

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