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第1話
「こんにちは」
「こんにちは」
「少し、お話伺ってもよろしいですか?」
「ええ、どうぞ。よかったら、座ってください」
都内某所。新しく開発されたエリアで、高層マンションと緑がバランス良く配置された住宅街の公園のベンチに座る、一人の若い男。そして、彼に近づき話しかける二人の男。
「警察です」
「ああ、そうですか。そりゃそうですよね」
「なにか?」
「いや、僕のファンの方かと思ったんですが、そんなわけもないかなって」
「失礼ですが、ご職業は」
「絵本作家です。ま、あまり売れていませんが」
「お名前を教えていただけますか」
「笹本です。笹本勇作」
「笹本勇作さん。えーと、そのお名前で絵本を?」
「ええ、本名で。おまわりさん……は今だめなのかな、刑事さんですかね、さっきの手帳、よく見えなくて、お名前は」
「原です。あっちは、勝山です」
笹本と名乗る男は、まだ二十代半ばくらいに見える、ひょろりと背の高い優男だった。絵本作家を生業とした人間に接触するのは初めてだけれど、いかにも子供に夢を見させてあげられそうな人物いう印象を得る。日本人としては標準的な肌の色なのに、飛びぬけてなめらからしく、なんとも艶っぽい。髪も目も黒く、眼鏡は普通の樹脂フレーム。着衣は長袖のTシャツに細身のジーンズにレザースニーカーと、本当にどこにでもいそうな好青年だ。
「お話とは」
「先日、この公園であった事件についてです」
「ああ……物騒ですよね。怖いですね。女性の死体が見つかったんでしょう?」
「ええ。それで、不審な車や人物を見なかったか、何か気になることはないかと、周辺の方々にお伺いしておりまして」
「うーん……この公園、広くて緑も多くて、気に入っているんです。だから日に何度か散歩しますが……どうかなぁ……」
「なんでもいいんですが」
「割と遠くから、ピクニック気分で来ている人も多いので……事件があったのって、一昨日でしたっけ?」
「発見は一昨日の朝ですが、犯人が死体を置いたのはおそらく三日前の夕方以降だと思われます。また、それ以前にも、下見をしていた可能性も否定できません」
「公園の東側ですよね?あそこのコンセプトが”鬱蒼とした森”らしいので、人がいたとしても木陰にすぐ隠れてしまいますしね」
「随分お詳しいんですね」
「すぐそこに住んでますから」
笹本は微笑みながら、ベンチから見えるひときわ優雅に佇む高層マンションを指さした。原と勝山は、何も言わず、何度か頷いて見せる。それを納得と取ったのか、笹本がおもむろに立ち上がる。
「お役に立てなくてすみません」
「とんでもないです。こちらこそ、お引き止めして」
「もし何か思い出したら、連絡しましょうか。まあ、ご期待には副えなさそうなのですが」
「何かありましたら、ぜひ」
原は自分の名刺を笹本に渡し、去っていく彼の背を見送った。彼はポケットに両手を突っ込んでゆらゆらと、真っ直ぐにマンションのエントランスへ消えていった。
「売れない絵本作家って、儲かるんですか」
「どんな職業でも、売れなきゃ儲からないだろ」
「ですよね?でもここ、分譲ですよ。俺らには手が出ないくらいの」
「親のすねかじりか、遺産じゃないか?」
「なるほど」
原は、もう一度じっと、笹本の吸い込まれたマンションの方を見遣り、勝山に促されて別の住民への聞き込みを再開した。
そして翌日、また同じ公園へ来ていた。今度は一人で。笹本は、同じベンチでまた日向ぼっこをしていた。散歩する気はあるのかないのか。
「あ、原さん、でしたよね」
「はい」
「お仕事大変ですね。よかったら、どうぞ」
「失礼します」
どうしても、この笹本勇作という男が気になる。おっとりと穏やかなように見えて、なんというか、隙がない。今自分が追っている事件の犯人だなんて思わないけれど、普通じゃない気がするのだ。署に戻って、彼を調べたけれど、怪しいところはなさそうだった。絵本作家として納税しているが、所得の大半は株取引によるもので、そのあたりも今時珍しくはない。ただ、彼には家族がなかった。いわゆる孤児として、戸籍が作られていた。生後間もなくではなくある程度、推定五歳で保護され、身元を示す所持品はなく、保護された日を五歳の誕生日として。笹本性は、育った施設の園長の苗字だ。勇作という名は、その園長がつけたらしい。
刑事になってもうすぐ七年だ。それなりの実績も自信もついてきた。そんな原の何かに、笹本は引っ掻かるのだ。当の笹本はのんきに、原さんはごついですねぇ、スポーツか何かやってるんですか?などと聞いてくる。
「警察官は、柔道などをやりますので」
「へぇ、ああ、逮捕術。背負い投げとかですね」
「はい、実戦ではあまり機会はありませんが」
「そうなんですね。えーと、何かまた、お話が?」
「…………いえ、あの、先生の作品を、昨日一冊買ってみました」
「あはは。先生はやめてくださいよ。そうですか、ありがとうございます。お子さんがいらっしゃる?」
「いえ、自分に妻子はありません」
「そうですか。絵本、お好きなんですか?」
笹本は、自分の顔に乗る眼鏡を指先で押し上げて、わずかに首を傾げて、隣に座る原に微笑んだ。少し長めの髪がさらりと揺れて、滑らかな頬にかかる。思わず見とれた。そして、もちろんすぐに我に返り、視線を逸らす。原は、自分の大きな手を組んだり解いたりしつつ、地面を見たまま返事をした。
「いえ。正直、自発的に絵本を手に取ったのは、多分人生初です」
やんちゃな子ども時代だったから、絵本など興味がなかったと思う。もちろん記憶が鮮明なわけではないが、よく親から子育てやんちゃ苦労秘話を聞かされていたから、多分そうだろう。男ばかり三人兄弟で、物心ついたころには雨でも雪でも外を走り回っていたし、小学生になって以降はずっと運動部に所属していたから、家で本など、読む暇もなかった。
笹本は不思議そうに原の横顔を眺めて、そうですか、と呟いた。
「原さんのハジメテ、貰っちゃいましたかぁ」
「え?あ、いや、え?その、言い方は、ちょっと」
「間違ってます?」
「いや、そうでは」
「嘘つきました?」
「ついてません」
「よかったぁ。僕、嘘つく人が一番苦手なんです」
「自分も、嘘は苦手です」
「ご感想を、聞かせていただけませんか?」
「え?」
「絵本の」
「ああ……」
原はしどろもどろで、なんとなく、感想らしきものを述べた。読書感想文は苦手だったし、そもそも絵本だ。主人公の小さな少女が、いろんな場所へふわふわと飛んでいって、いろんな動物から花を貰う。そんな、原からすれば掴みどころのない、教訓じみた何かを受け取ることもない、正直よくわからない本だった。
「絵本作家の方というのは、絵も描いて、文章もお作りになるのですか」
「人に寄りますが、僕は両方自分でかきますね」
「そうですか。すごい才能ですね」
「あはは。売れてませんが」
「芸術とか、私は不勉強でわかりませんが、でも、ご立派だと思います」
「警察官も、立派ですよ。まあ、働く人はみんな立派ですけどね」
「貴賎なし?」
「それはどうでしょうね。難しいところです」
二十代半ばに見える笹本だが、戸籍上は三十一歳だった。それを知ったから、この妙な落ち着きや受け答えも、納得できる。しかし、それ以上に何か、彼にはあるのだ。それが知りたくて、同僚の勝山に頼んで自由時間を貰って、単独でここへ来た。だけど、甲斐はなかったようだ。ただひたすら、気になる。そう思い知っただけだ。なんなのだろう、この落ち着かなさは。落ち着かないのだ。この笹本勇作のことを知りたくて、仕事が手につかないほどに。原は無意識にため息をついていた。
「原さん?お疲れなんですか?お仕事大変ですもんね」
「え?あ、いえ、全然、大丈夫です」
「休んでいかれます?僕の家で」
「…………え?」
「なんて。冗談です」
自分の脈が、速まるのを感じた。腹の奥底に、劣情が湧いた気がした。そんな馬鹿な。目の前にいるのは、どこからどう見ても、自分と同年代の普通の男だ。俺は、どうなってしまったんだ。
原は動揺し、笹本から目を離すこともできず、ただひたすらじっと見つめてしまった。眼鏡の奥の黒い目が、自分を見ている。その目を、見つめ返すことしかできない。すべてを、奪われていくような気分だった。そしてそれが、心地いい。どうしよう。どうしたらいいんだろう。
「あ、あの」
「はい」
「……連絡先を、教えていただけませんか」
これは職務だろうか。どうにか絞り出した自分の声に、原は自問したが自答は出来なかった。笹本と繋がる何かが欲しいのは、個人的な気持ちだとわかっているから。笹本はゆるく微笑み、眼鏡を指で押し上げて、自分の連絡先を口にした。不思議なほど明瞭に、原の記憶にそれが刻み付けられる。まるで一生忘れないのではないかと思うほどに。
「僕に何か協力できることがあれば、また来てくださいね」
笹本はそう言って、また柔らかく微笑み、昨日と同じようにゆっくりと立ち上がって、マンションのエントランスへ消えていった。
◆
「だから僕は反対だったんだ。あの役立たず、死んで当然だ」
「勇作。口が過ぎるぞ」
「でもそうでしょう。あんな女、うちに相応しくなかった」
「俺の人選にケチをつけるとは、偉くなったもんだな?」
「ケチじゃない。注文と忠告です」
「あ?」
「お二人とも、もうその辺にしてください」
これまた都内某所。人材派遣会社としては国内トップシェアを誇る企業の社長室。そこの豪勢な応接セットの一番大きなソファに寝転がっているのは、絵本作家の笹本勇作だ。この様子を某刑事が見たら驚くだろう。勇作は細く長い脚をソファのひじ掛けに載せて、不機嫌さを隠そうともしない。この部屋の主は、自分の、これまた立派な椅子に座って、無礼極まりない若造を殺しそうな目で睨んでいる。彼らを諭すのは、社長秘書の梶だ。
「もういい。あの女の抜けた穴は僕が埋める。それでいいでしょ?」
「助かります、勇作さん」
「梶さん、梶さんはそうやって僕に優しくしてくれるけど、社長の教育もしっかりしてよね?そもそも」
「うるせぇぞ、クソガキ。梶にゴマ擦ってんじゃねぇ」
「僕がガキに見えるのは、社長がおっさんだからです」
「お前は指しゃぶってた頃から変わらねぇなって言ってんだ。癇癪持ちの気分屋なところがな」
「気分屋だろうが屁理屈屋だろうが、仕事はちゃんとしてる。あの間抜けな女とは違う。あの女は、うちの看板を汚した。殺されて当然だ」
「はい、勇作さん。これ引継ぎ用の資料です。お客様は、結果を待っておられますからね。できれば早めにお願いしたいのですが」
「特急料金戴きますね、梶さん」
「契約上追加料金の規定はありませんが、今回は特別に手に入れた情報を利用してもいいですよ。ばれない様にうまく使ってくださいね。一時間で数億は儲かっちゃいますから、気を付けて」
「梶、勇作を甘やかすな」
「でも社長。お客様とのお約束の期限に間に合わないと大問題です。我々の評判に関わります」
「ありがと、梶さん。また、連絡するね。じゃあね、社長」
笹本は梶から資料が入っている記憶媒体を受け取り、最後には人懐こい笑顔を二人に向けて社長室から出て行った。やれやれと言った風情で、梶が勇作の寝ていたソファのクッションを調える。社長と呼ばれる男は、バカでかいため息を吐きながら椅子を回し、背後の全面ガラスから外を眺めた。遠くに、古い方の電波塔が見える。いい天気だ。
「梶」
「問題ありません。殺された彼女は気の毒ですが、私も勇作さんと同意見ですね。彼女は依頼された仕事のついでに小遣いを稼ごうとして、下手を打って殺された。死体の遺棄現場が勇作さんの自宅至近だったのは偶然です。幸いにも彼女を“派遣”した我々の存在に向こうは気づいていませんが、随分危ないことをしてくれたものです」
「俺の人選が悪かったと思うか?」
「あなたは優しすぎますからね。困ってるから仕事が欲しいと言われたら、断れない」
「はぁ……耄碌したか」
「まさか。まだ若いでしょう?」
「そうでもない」
「そうですか?私に隠し事は出来ませんよ」
梶は優雅な足取りで、外を眺める社長の目の前に立つ。いかにも優秀な男といった雰囲気のにじみ出る四十代。背は高く、イタリア製のスーツを見事に着こなす体躯と、甘い顔立ちと、優しい物腰。数年前に代替わりした社長に影のように寄り添う秘書は、自分の雇い主をうっとりと見つめる。誰もがドキドキするようなその梶の視線を、不遜に受け流すのがこの会社の社長を務める佐々岡だ。本名は笹本。勇作の育った施設の今現在の運営資金のほとんどは、佐々岡の寄付だ。梶は養子縁組に恵まれたので戸籍ごと変更してはいるけれど、元々は笹本だった。つまり、三人は同じ施設の出身だ。ちなみに、殺された女はそうではない。それでも、同じように家族に縁の薄い人間から助けを求められると、無碍にできない。佐々岡はそういう男なのだ。そしてそれを、梶も勇作も、心の底から尊敬している。口では色々言うけれど。
「お前に隠し事なんか、したことないだろうが」
「ん?そうですか?秘書室に先月新しく入った女性、あなたの好きな香水つけ始めましたけど、偶然ですか?」
「……」
「亮介さん?」
「……すまん」
微笑みを絶やさない秘書にじわじわと詰められて、最終的には名を呼ばれて、簡単に降参して両方の手のひらを見せる、この佐々岡亮介は、実は警察の一部と繋がっている。かつて刑事と言えば、自分だけの情報屋を数人囲い、彼らを優遇することで様々な情報を得て、捜査に役立たせていた。しかし昨今は様々な事情でそれは難しい。義理人情で繋がる人間関係というものを構築しにくい風潮もあるし、そういうやり方を先輩から受け継がない刑事も多い。それでも、表に出ない情報を、褒められない方法を使ってでも得ることは必要だ。そういう警察の要請に応えて情報を取ってくることを仕事にしている。世間から見れば大企業の社長、裏側は、あらゆる手段で情報を取ってくるスパイチームの首謀者。その構成員はほとんどが笹本性か、似たような境遇の人間だ。警察以外でも、懇意にしている人間からの依頼で動くこともある。いわゆる企業秘密を探る仕事だ。
ただし、佐々岡には信条があって、何でもかんでも依頼を受けるわけではないし、警察側も、佐々岡たちの違法行為を見て見ぬふりをするものの、もし仮に発覚して拘束されれば、庇ったりはしない。あくまでも、依頼した情報を金で買う、その一瞬だけの接点しか持たない。だからこそ、うまくバランスが取れている。勇作は、スパイとしては非常に優秀だ。だから、殺されてしまった女のせいで警戒度の上がっている某企業からも、難なく情報を抜いてこられるだろう。
「悪い癖ですね。新しい女は、味見してみたくなるんですね」
「そうじゃない。そうじゃないが、手懐ける方法を、他に考えるのが面倒なんだ」
「秘書室をまとめるのは私の仕事では?」
「そうだけど、色々、あるだろ」
梶よりは少し年上。梶よりも少し逞しい身体。梶のような優しさや柔らかさや甘さのない外見。その分、男っぽくて頼りがいがあるように見える。そんな佐々岡の太ももに跨り、梶の細い指がゆっくりと自分のと、佐々岡のネクタイを緩める。高層階とはいえ、周囲にビルは多い。ガラスの向こうから注視されれば、何をしているかくらいはわかってしまうだろう。それでも、佐々岡は梶の行動を止めなかった。ジャケットのボタンに続いてシャツのボタンも外されて、さらす素肌には大小の傷跡がいくつか浮かんでいる。若い頃は、色々あった。恵まれた境遇ではなかったし、自分が世界で一番不幸だとさえ思っていた。梶の指が、愛おしそうに佐々岡の傷を撫でる。
「犯人に、目星はついたか」
「ええ。私が始末します」
「俺がやる」
「相手は一人ではありません。私が」
「俺がやると言った。手を出すな」
「嫌です。危ない事はさせたくない。そんな事は、番犬の仕事です」
梶は佐々岡に身体を預け、目を覗き込んで、唇を重ねた。二人分の体重を受け止めて、椅子がきしむ。お互いの口の中を、思う存分舐め合って、佐々岡の素肌を撫でまわす梶の手に、熱がこもる。甘い声で佐々岡の名前を呼んで、梶はずるりと滑り落ちるようにして床に座り込み、佐々岡の股間を撫でた。佐々岡は、そんな梶の柔らかい髪を撫でる。
「私があなたを護ります」
「……うん」
「護り切ったあなたを、めちゃめちゃに抱くのが好きなんです」
「うん」
「私が命を懸ける、この世で最も値打ちのある男を組み伏せるのが」
「うん」
「善がり狂って泣き叫ぶくせに、あなたはいつも最後には笑う」
「うん」
「その、絶対に敵わない、圧倒的な強さに支配されている自分が好きなんです」
「やだねー。どSのM発動」
「お嫌いでした?」
「好き」
「でも今は、抱いてあげませんよ。浮気のお仕置きです」
梶は優雅に笑い、佐々岡のペニスを取り出し、まだ柔らかいそれに頬ずりをしてから根元まで一気に咥えた。佐々岡は、今から始まる地獄のような天国を思い、期待に目を閉じた。
◆
「原、ちょっと」
「はい」
死体遺棄事件の進展はない。殺害現場さえ特定できず、被害者の身元も不明なままだ。当然容疑者も、有力な目撃情報もない。捜査本部の雰囲気は暗い。それでも一応、泊まり込みで情報を整理していたら、上司に呼ばれた。上司は苦い顔をしている。何かしただろうかと少し不安になりながら、何でしょうかと上司に尋ねる。
「こちら、板倉さん」
「はぁ」
「公安部の板倉です」
「……原です」
「お前に話があるそうだ」
上司はそれだけ言って、原と板倉を残して去っていった。公安が自分に用事があるとは思えない。そもそも、公安なんて悪い噂と変な噂しか聞かない。内心ビビりながらも、原は、何の御用ですかと尋ねる。
「原刑事。笹本勇作、ご存知ですね?」
「……え?」
「笹本勇作です」
「あ、ああ。笹本先生、絵本の。えっと、はい。自分が今やってる死体遺棄事件の」
「彼にはこれ以上接触しないでください」
「え?」
「あれに触るなと言っている。話はそれだけだ」
原に質問の間を与えず、板倉は冷たい目で命令して、去っていった。残された原は、動揺した。公安が触るなというのだから、笹本勇作にはやはり何かあるのだ。しかしあの人畜無害そうな絵本作家に、一体どんな危険要素があるというのか。原の頭の中は、笹本のことで埋め尽くされている。その事実が原を混乱させていた。なぜこんなにもあの男のことが気になるのかと。それなのにその上、公安事案の関係者であることをにおわされて、もういよいよ仕事など手につきそうもない。脳裏に鮮やかに蘇る、笹本の連絡先。だめだ。たった今触るなと言われたんだ。でも、だけど。その時、スーツの内ポケットの電話が震えだした。慌てて取り出せば、表示された番号は笹本のものだった。
「……はい」
「原刑事、ですか?」
「ええ」
「笹本です、あの、公園でお会いした、絵本作家の」
「ええ、はい、覚えています」
「あー……お忙しかったですか?ごめんなさい」
「あ、いえ!いいえ、全然!」
「夜分にすみません」
「いえ、いいんです、本当に。えっと、何か、ありました?」
少し不愛想すぎただろうか。もともと低い声が、緊張でさらに低くなって不機嫌なように聞こえたかもしれない。原は無意識に自分の心臓の辺りをトントンと手のひらで叩く。落ち着け、落ち着け。俺が触ったんじゃない。向こうから連絡があった。事件への情報提供かもしれない。この人が、公安に追われるような危険人物のはずがない。
原がぐるぐると色んなことを考え、汗の滲む手で携帯電話を握りなおしたとき、電話の向こうでふと笹本が笑ったような気がした。思い出される彼の笑顔。原の動悸は、ますます激しくなる。
「笹本先生?」
「電話くれるかなって思ったけど、掛かってこないから、掛けちゃいました。迷惑でした?」
笹本の柔らかい声にくすぐられて、頭がぼんやりする。まともな思考ができないまま、誘われるまま、原は笹本と会う約束をしてしまった。ほとんど知らない男に会うのに、どうしてこんなに緊張するのか。どうしてこれほど浮かれてしまうのか。なぜ、喫茶店などではなくホテルの一室なのか。その理由は、考えないようにした。
◆
「あ、あ、あ……!」
頭の中が真っ白だ。なんでこんなことになったのかわからない。笹本に指定されたホテルに尾行を気にしながら訪れ、桁数の多い部屋番号のドアをノックした。返事もなくドアは内側に吸い込まれ、用心しながら足を踏み入れた途端、ドアの影にいた笹本に腕を引かれてキスされた。なけなしの理性が消滅する。勢いに流される。俺はホモじゃない。笹本にだって、女性的な要素はない。なのに、激しく欲情した。微笑む笹本にうまく促されて、あっという間にセックスが始まって、終わらない。頭蓋骨の中に詰まっているはずの脳味噌が、溶けてしまったような気になる。もう、笹本を抱くことしか考えられなかった。
「ん、あ、原さ、ん…………!ちょ、んん……!!」
笹本は脱がせても抱いてもどこをどう触っても男だった。痩せてはいるけど骨格は太いし、皮下脂肪が少ないから筋肉も浮き出ている。彼の手や視線に誘われるように挿入して、繋がってしまえば我を忘れるほどの快感で、だけどそこは性器ではない。わかっている。夢中で腰を振って滑らかな肌に歯を立てて、聞かされる声も男のものだ。感極まって高く響き、掠れて、原の耳から入り込んで全身に浸み込んでいく。抱いているのはこっちなのに、内側から犯されていく。セックスで、こんなに興奮したことなんかない。原は乱暴に笹本を抱きしめ、自分のペニスを深々と押し込んでそのまま力任せに揺さぶり、唸りながら二度目の射精を果たした。笹本を気遣う余裕など、ない。そして笹本も、原が我に返るのを邪魔するように、息が整う暇もなく、勢いを失くした原のペニスを握り、その小さい口に咥える。嘘だろう、よくもそんなことを。そんな風に考えたのは一瞬で、原の性器はすぐにまた怒張する。それどころか、笹本の後頭部の髪を掴み、笹本の喉を何度も犯した。笹本は原の蛮行をものともせず、上目遣いで微笑んで見せた。それがまた、原の自分でさえ知らなかった劣情を燃え上がらせる。
「現役刑事の精力、すっご……!あー……!あ、ああ!あー……!!」
「気持ちいい、先生?なにこれ、むちゃくちゃ締まる……気持ちいいの?」
「いい、すごい、いい、原さんの、太くて、あーすっごい……!」
甘い会話も優しい前戯もなく、ただ激しく犯し続け、ようやく原が正気に戻った時には、笹本は身体中にあざを作ってベッドに力なく横たわっていた。一気に血の気が引く。自分は、一体なんてことを。
「せ、先生、先生!大丈夫ですか!?すみません、俺、とんでもないこと」
「えー……?マジか……原さん、まじめすぎ……」
「え?ちょ、とりあえず、水飲みますか?」
笹本の柔らかい声はガラガラに掠れていた。何度も彼の悲鳴を聞いた気がする。自分の、どこか遠いところで。原は素っ裸のままで離れた場所にある冷蔵庫に駆け寄り、水を手に急いでベッドに戻った。笹本はぐったりとホテルの部屋の天井を眺めながら、変なひとだなと苦笑いをしていた。
「これ、飲んで……起きられますか?」
「無理ですぅ……」
「ごめん、ほんと、俺何やってんだろ……!」
原は笹本を抱き起こし、蓋の開いたペットボトルの飲み口を彼の唇に宛がった。笹本は、じっと原を見つめ、もう少し意地悪をしようかと思ったけれど思い直し、ゆっくりと少しだけ水を飲んだ。その様子を見て、原はあからさまに安堵の息を吐く。
「本当に、申し訳、ありません。こんな、これって」
「傷害ですね。あ、今は男が被害者として性犯罪を問えるんでしたっけ、非親告で」
「……ですね」
「ダメですよ。原さん、刑事さんなんだから」
「……」
「男、初めてでしょ?もう少し及び腰かと思ったけど、すごいがっつくんですもん」
原の手からペットボトルを引き受けて、笹本はちゃんと自分でベッドに座り、ゴクゴクと水を飲みながら笑う。原は、事の次第についていけずに、ただひたすら冷や汗をかいていた。自分はこのまま、脅されるのだろうかと。
「別に、原さんを困らせたいわけじゃないですよ。安心してください」
「でも、なんでこんな」
「お礼ですよ」
「お礼……?」
「僕の絵本、買ってくれたでしょ?だから、そのお礼。僕たくさんお金持ってますけど、それじゃ味気ないし、原さんのお仕事的によくないでしょうし」
「……あなたはそんな簡単に、男と寝るんですか、そんな理由で」
「簡単かどうか、基準は人によりますが、少なくとも絵本を買ってくれた成人未婚男性が僕の目の前に現れることは滅多にありませんね」
「そういうことじゃない、こんな、売春紛いの」
「原さん」
動揺に、よくわからない怒りに、唇を震わせて言い募る原に、笹本が静かに微笑む。そして原は気づく。この感情は、嫉妬だ。そして、笹本から好意を聞かされるのではないかと期待した、浅はかな自分への羞恥。原はそれ以上何も言えずに黙り込み、脱ぎ散らかした自分の服をかき集めて身につけ始める。笹本はそんな原を、ベッドの上で膝を抱えて眺めていた。
「帰るんですか?」
「……あなたの意図はよくわかりません。絵本を買ったと、私がたまたまあなたに告げただけで、よく知りもしないのに身体を開くなんてどうかしてる」
「そんなおかしな絵本作家を抱いちゃう刑事さんはどうなんでしょうね」
「どうかしてます、私も」
「いいじゃないですか。僕は嬉しかったですよ」
立ち上がった原の背に、笹本が微笑みかける。笹本を振り返ることは、原にはできなかった。嬉しかったのは、売れない絵本を買ってもらえたからだろうか。それとも、あるいは。自分は本当にどうかしている。もう一冊買えば、どうなるのだろうかと考えてしまう程度には。
「……あなた、本当は何者なんですか」
「絵本作家です。売れてませんが」
「……」
「毎日、株取引で日銭を稼いで、好きな絵本をかいて、気晴らしと健康のために公園を散歩します」
「……それがあなたの日常なんですね」
「日常……?……そうですね。大事な、日常です」
日常の空白を切り売りしてその対価で日常を支える。それが自分の日常。まともな株取引の成果など本当はほとんどなくて、大半はそれに見せかけて佐々岡から受け取っているスパイの仕事の報酬、もしくはそれで得た情報によるインサイダー取引だ。金なんか欲しいと思わないけれど、必要な時に不足していた昔を思うと、あればあるだけ何かの足しにはなるんじゃないかと溜め込んでいる。使わないままに死ぬだろうと、ぼんやり確信しながら。
笹本は、おもむろにベッドから抜け出して、原の広い背に手のひらを当てた。体温と、彼の身体中をめぐる血の音が伝わってくる。ただ、それだけ。他には別に、なんの感情も湧かなかった。
「お仕事、頑張ってくださいね」
笹本のその言葉に、原は何も答えずに足早に部屋を去った。
◆
「どこからだ」
「自分の情報源からです」
「ほー……」
死体遺棄事件の捜査会議中、原は挙手をして許可を求めてから、立ち上がって、自分の手帳に認めた情報を述べた。被害者の名前、彼女の死体を遺棄しただろうと思われる容疑者の想定、そこから推察される殺害現場の見当などだ。突然明らかにされたそれらに、捜査の指揮権を握る管理職者たちは唸った。事件からすでに二週間ほど経過して、目ぼしい証拠も何も出ていない。それなのに、何故。
「原。個人的な情報源の運用に口を出すつもりはない。しかし、全く明かされないとなると、我々も少し、動きにくいな」
有力な手がかりかもしれないが、お前そんな話どこから拾ってきた?そう言いたいのだろう上司は、一応、原の立場を慮るかのように回りくどい言い方をしてくれた。原は、ひどく真面目な顔で、でしょうねと頷く。
「自分に情報をくれたのは、知り合いのホームレスです。本来あの公園の近辺をウロつかない、別の縄張りを持つ者ですが、死体が発見される直前の未明、たまたま通りかかった時に、女物のバッグを拾ったそうです」
その中に入っていた免許証を見た。記憶力はいいので、顔写真と住所の一部と名前は覚えている。財布の中の現金だけを自分の懐に仕舞い、後は川に捨てた。テレビの報道を見て、知り合いである原に事の次第を話して聞かせた。原は、捜査本部にその情報を上げる前に、真偽を確かめるべく同僚の勝山とともにある程度裏付け捜査をし、それに伴って彼女がある男とトラブルになっていたとの新しい情報を得た、ということだ。出来すぎてはいるが破綻のない話に、誰もが、じゃあとりあえずその男の行方を追うことにしようとしか提案する。原本人が、普段から周囲の信頼厚く、正義感のある刑事だったことも幸いした。
「お手柄だ」
「ありがとうございます」
原は粛々と頭を下げて、着席した。隣に座る勝山が、得意げに笑っている。原もそれに応えるように微笑んだ。
もちろん、この情報の出所は知り合いのホームレスなどではない。原にそんな知り合いはいない。あの日、笹本を抱いた日、自分のしでかしたことや初めて男を抱いたという事実や笹本の得体の知れなさに当てられて、原は呆然と歩いて自宅に戻った。自分のベッドに倒れ込み、混乱から抜け出せないまま天井を眺めて、無意識に笹本とのつながりを確認したくて着信履歴を見ようと、ポケットの中の自分の携帯電話を探った。そうしたら、一枚のメモが出てきた。女の名前と、住所と、男の名前が書かれていた。それが、笹本が仕込んだものかどうかはわからない。もしそうだとしても、彼がそんなことをする理由もわからない。これが、事件に関する情報だとして、そんなことを知り得る理由もわからない。だけどなぜか、原は、笹本だろうと確信し、すぐさま電話をかけた。売れない絵本作家は、先ほどの濃密な時間などなかったかのように、公園で出会った時と変わらない声と口調で、電話に出た。
「これは、なんなんですか」
「お礼ですよ、言ったでしょう?」
「本当に、あなたは何者なんだ」
「原さんは、正義の味方。僕は、悪い絵本作家、かな」
「……あなたが殺したのか」
「まさか。僕は自分の両親以外、殺したことはありませんよ」
事件、早く解決してくださいね。落ち着いて散歩もできませんから。
笹本はそう言って、電話を切った。原は、その晩眠ることもできずに、ただひたすら笹本とのセックスのことばかりを考えて過ごした。原が笹本に囚われたのだと、気づくのはもう少し先になる。
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