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第1話

 繁華街のど真ん中なのに、細い路地の突き当たりにあるためかあまり知られていないバーがある。マスターは五十前後の男で、一緒に働くのは三十代の男一人だけ。カウンタの他にテーブル席もある広い店内を二人で切り盛りするのは大変だろうに、彼らは忙しそうなそぶりも見せない。だからいつも落ち着いた雰囲気でくつろげる場所になっている。  バーの名前は「遥」という。その由来は誰も知らない。そんな「遥」はいわゆるゲイバーだ。女性客はやんわりと断られ、男ばかりがグラスを傾けている。出会いも別れも邪魔しない代わりに、他の客の迷惑になる行為は徹底的に排除されるので、下品なナンパは行われない。目と目があっただけで店外での行為に同意したと判断されるようなことはないし、一杯奢らせて欲しいと差し出された飲み物を飲んだ直後に不自然な酩酊状態になることもない。マスターはいつも穏やかだけれど、その歳の割には頑健な肉体を誇り、怒らせたら容赦されないともっぱらの噂だ。だからこの店は、同好の士の集まる安全な場所として愛されている。  このバーで出される酒は美味い。つまみも厳選されている。でもだからと言って、酒を飲むためだけにこの店を選ぶ人間は少ない。やはり多少の下心を、期待を、思惑を腹に抱えてドアを開けるのだ。 「よう。来てたのか」 「ああ、久しぶりだね」  週末の二十二時。店内は空席がほとんどなくなっている。客たちは自分の幸運を喜んだ。彼らのどちらかと遭遇することも珍しいのに、二人が揃うことなどほとんどないからだ。それぞれに親しげな連れを伴って、気安い挨拶を交わしたっきり、少し離れた席に落ち着くと静かに酒を楽しんでいる。 「いい男だー。ねえ、マスター。あの人たち、なんて名前?」 「ああ……あちらの眼鏡をかけた人が弓削さん。向こうの少し怖そうな人が三枝さん」 「ふぅん。残念、一人なら声を掛けるのに、二人とも彼氏持ちじゃん」 「モテるからね、二人とも」  この店に通い出して日が浅い客が、コソコソとマスターから情報を得ようとしている。弓削は色の白い、優しい顔立ちの眼鏡の似合う男で、その甘い雰囲気から長身であるのに威圧感がない。柔らかい微笑みを浮かべて一緒に座る男の話を聞いてあげている。  三枝は精悍な顔をしたシャープな印象の男で、ぱっと見は不機嫌なのかと思うような愛想のない表情だ。どことなく粗野な感じをまとっているのに、二人がけのソファに一緒に座る恋人らしき男の腰に手を回し、時折何かを囁く時はひどく色っぽい笑みを唇に乗せている。  優男と強面の男。対称的な二人は同じ歳ということもあり、よく比較されて話題に上る。有り体に言えばどちらが好みかという話になるのだけれど、結局どちらもいい男という結論になることがほとんどだ。同じ店を使っていて、同じように周りを魅了する正反対のタイプの二人なら、仲が悪くても当然だろうという大方の予想を裏切り、彼らは顔を見れば言葉を交わし、時には同じテーブルについたりもする。金持ち喧嘩せずということなのだろうと、誰かが言う。それに異議を唱えるように、古株の常連客が囁いた。 「あいつら、昔付き合ってたからな」  マスターは窘めたけれど、その話を知らない男たちは詳細を知りたがった。結局は「そんなこともあったね。昔の話だよ」と認めざるを得ない。そう、本当に昔の話だ。もうあれから五年になるだろうか。マスターは懐かしいような気分で、それぞれの恋人に愛を囁く二人を眺めた。  二人が連れている男はよく似たタイプだった。男の割には華奢で小柄、第一印象は"かわいい"と言われるだろうぱっちりとした目に小さな口。弓削も三枝も、連れてくるのも声を掛けるのもたいていそういう笑顔の似合うチャーミングで愛嬌のある男ばかりだ。だからこそ、そんな二人が付き合ったときには当時の常連客はみんな驚いたものだ。  弓削は優男とはいえ華奢でも小柄でもないし、三枝は仕事柄逞しくて伸びやかな肢体だ。二人が並べば身長もほぼ同じで、街頭に大きく張り出された海外メーカのポスターの構図のようにバランスがいい。立っていても座っていても、対照的なはずの二人は上手く釣り合っていて、とてもお似合いに見えていた。しかし、二人の性癖を知っているからこそ、周囲はそんなことになるとは想像できなかった。彼らはかわいい男が好きで、そういう男を抱くのが好きな性質なのだから。 「バリタチってことだよね、二人とも。えーじゃあ、付き合ってた時はどうしてたんだろう?」 「さあね。ベッドの中のことまで詮索するのは」 「でも気になるじゃん!」  カウンタに座る客は興奮がおさまらないらしい。声を潜めつつ、ちらりちらりと弓削と三枝を振り返っては、いい男だ、お近づきになりたいと洩らしている。マスターは苦笑し、彼の前に新しいグラスを置いた。 「声を掛けるくらいは、いいんじゃない?ほら、一人になるよ」  言われてそちらを見れば、弓削が恋人と立ち上がるところだ。思った通り、恋人は弓削の肩くらいまでしか届かない小柄な男だった。そんな彼と身体を寄せ合い、腰を抱き、店の扉の前の暗がりまで連れていくと、身体と言葉で別れを惜しんでいる。そしてやがて心地よいベルの音をさせて扉が開かれ、弓削が恋人を見送った。  事情は分からないけれど、今夜は彼を先に返したらしい。  その一部始終を不躾なほど眺めていたカウンタに座る客は、小さくガッツポーズをしている。そうしたのは彼だけではなかった。他の客からも、弓削はいつも注目されている。  丁寧な所作でドアを再び閉めると、弓削がフロアに戻ってくる。先ほどまでいたテーブルに向かうのかと思えば、まっすぐにカウンタにやってきて、件の客の隣に腰を下ろした。そして軽く頬杖をついて、その男に微笑みかける。 「僕の噂ばっかりだね。そんなに気になる?」  声を掛けようとして、逆に声を掛けられて、その客は顔を真っ赤にして狼狽えている。弓削は声も話し方も柔らかい。眼鏡越しの少し垂れた目じりに滲む色気も、凶暴なものではなく思わず縋りつきたくなるような、そそられるような、甘くて優しいものだ。眼鏡を外したらどんなふうだろうか。そう思わせる、底の知れない魅力がある。男っぽい要素はあまりないのに、弱弱しくもなければ頼りなさもない。その大きな手に、長い腕に、抱いて欲しいとお願いしたくなってしまう。  実際、カウンタの客はそう望んでいるようだ。 「き、聞こえました?すみません、こんなに素敵なひと、初めて見たから」 「そう?この店には初めて?」 「えっと……三回目かな。今日来て、よかった。さっきの人、彼氏?もう帰っちゃったの?」 「んー……明日朝早くから仕事なんだって」 「そうなんだ。寂しいね」 「一緒に帰ればよかったんだけど、もう少し飲みたい気分だったから……」  弓削のその言葉と同時に、無口なスタッフが弓削の前にグラスを置く。そんなスタッフに無邪気ともいえるほど優しい笑顔でお礼を言って、隣の客に向き直ると、自分のグラスを少し上げて見せる。 「乾杯、君との出会いにね」 「か、乾杯……弓削さん……って呼んでも?」 「どうぞ。この店では僕は有名人だね。外では地味で目立たないのになぁ」  ほんの少しグラスの中の琥珀に口をつけて、おかしそうに笑って、マスターに同意を求めている弓削は、どう見ても地味で目立たない存在には思えない。白くて滑らかな肌に、柔らかそうなブラウンの髪はくせ毛のようだ。店内の暖かい色の照明に照らされて、艶やかで触りたくなる。ほんの少し身体を傾ければ、その広い肩にもたれられる距離にいて、弓削を独り占めできるような錯覚に囚われる。しかしそんな妄想は長くは続かなかった。 「ん?帰るの?」  弓削が、自分の後ろを通って出入り口に向かう男に声を掛けた。三枝だ。隣には当然、彼の恋人。その男も小柄でかわいい顔をしていて、はにかみながら弓削に会釈をしている。弓削が先ほど帰した男は二十代後半に見えたけれど、三枝の連れは学生かと思うほど若い。未成年者はマスターが入店させないので、問題はないのだろう。弓削はその子に微笑みかけて、こんばんは、と甘い声で挨拶をしている。 「帰る。こいつがもう、限界なんだ」 「ちょっと、変な言い方しないで。夕べ徹夜だったんだからしょうがないでしょ」 「大学生は気楽だよな。徹夜で遊んで、学校行って、バイトして、夜は彼氏と飲んだくれて?」 「超しあわせ!で、俺は大学院生だってば」 「もう少し体力つけないとな。俺が学生の頃は二三日寝ずに遊んだぞ」 「その頃から鍛えてたの?俺は頭脳派なの。尊みたいに肉体派じゃないの」 「俺が筋肉バカみたいに言うなよ」 「筋肉バカじゃないから、尊が好きなんだよ」  三枝の連れは、酔っているわけではなさそうだ。元来こういう性格なのだろう。整った顔にコンパクトながらバランスのいい身体をして、一回り年上の男の恋人に人前で臆面もなく甘えることができる。学力もあるし遊び方も知っている。そして、恋人の魅力も十分に理解していて、その隣にいる自分の価値を正しく評価し、自信につなげている。  弓削は友人とその恋人のじゃれ合いを微笑ましく眺めていた。三枝は黙っていると人を寄せ付けない雰囲気を出すけれど、話してみればそれほど排他的ではない。人がいるところで若い恋人にしな垂れかかられても邪険になどせず、ちゃんと抱きしめ返して尻を撫でるくらいには甘やかして見せる。生意気な物言いを聞き流す程度には寛容だ。もちろん相手が憎からず思う相手で、この店の中だからではあるけれど。 「かわいい子だね。紹介してくれないの?」 「ああ、純一だ。見ての通りピチピチの二十三歳」 「ピチピチとか言っちゃうのがおじさんだよ。初めまして、純一です。弓削彰さん……ですよね?」 「初めまして、弓削です。そう、彰、名前も知ってるの?嬉しいな」 「尊から教えてもらいました。すごくかっこいいから、気になっちゃって」 「ありがとう。純一君もかわいいよ」  弓削は大きな手で純一の手を握った。くだらないことを言い出さない辺り、そしてさりげなく牽制する辺り、やはり彼は賢くて遊び慣れていると感じた。しかしそれは不快ではない。三枝の大きくて分厚い身体から離れずに、その腕の中で、弓削の微笑みに頬を赤くする。その様子は正しく三枝の庇護対象であることを印象付ける。実際そうなのだろう。とてもかわいい。 「純一君はおうちに帰るのかな?僕も連れに置いていかれてね。もしよかったら、彼氏を貸してもらえないかな?顔を見るのも久しぶりで、少し一緒に飲みたいんだけど」  純一との握手をほどく時、するりと指先でその手首と手のひらを愛撫しながら、弓削は眼鏡越しに純一を見つめる。遊び慣れているとはいえ、まだ若い。弓削の色気に毒気を抜かれたように、純一は頷いていた。そしてハッと我に返って三枝に抱き付いて、マーキングするようにキスを強請る。三枝は純一を出入り口の傍の暗がりまで誘導して、先ほど弓削がしたように、そこでゆっくりたっぷりキスをして純一を蕩けさせた。 「ねぇ……浮気しちゃだめだよ?俺のこと好き?」 「好きだよ、純一。また連絡する。少し飲んだら俺も帰るよ」 「明日、尊の家に行ってもいい?」 「ああ。どうせ昼まで寝てるんだろう?起きたら呼べよ。迎えに行くから」  純一は嬉しい、と少し背伸びをして三枝にキスをした。  この男と付き合うようになって二か月ほどだ。大人に、それも少し悪そうな大人に、かわいいから声が聞きたくてとこの店で話掛けられた。わずかな時間を一緒に過ごして、連絡先を書いた紙を渡されたけれど、こちらの連絡先は聞かれなかった。気が向いたら電話して、とその場を離れた三枝は、本当に本当にかっこよかった。急いでマスターに確認すれば、いい男だよ、と笑顔で太鼓判を押される。純一は次の日の晩に三枝に電話をして、もう一度この店で会い、付き合いが始まった。改めて低くて太い声で口説かれたとき、身体の奥が燃えたのを覚えている。その日の晩にでも抱かれたかったけれど、三枝の仕事で一週間待たされた。初めて寝た日から、純一は三枝の虜だ。  どこもかしこも実用的な筋肉で覆われて、ゆるみもたるみもない身体は、全裸でいればうっとりと眺めてしまうほど美しい。見事に浮き出た背筋に、細く引き締まった腰、太ももと二の腕は太くて硬く、わざとらしくない程度に盛り上がった胸筋と隠しようもないほど割れた腹筋は正面から抱き合えば舐めまわしたくなるほどだ。そんな大きな身体で、繊細に優しく熱烈に抱かれる。三枝は身体だけではなくペニスも大きくて太くて、形もいい。持久力もあるし、何よりもすごくかたい。それで奥の奥まで犯されて、死ぬほど気持ちいい思いをさせられる。いれられただけで、震えるほどだ。  男くさい精悍な顔立ちに、時々見せる色っぽい笑み。仕事が忙しいとかで毎日は会えないし連絡も頻繁ではないけれど、純一は最高の恋人だと思っている。  この店に二人で来るのは何度目だろうか。今夜初めて、弓削という男を見た。普段愛想のない三枝が、自分から声を掛け、相手の弓削も楽しそうに返事をした。弓削は三枝とは対照的と言っていい優しく柔らかい雰囲気で、座っていてもスタイルの良さがわかるような魅力的な男だ。連れている男も楚々とした綺麗な男で、お似合いだった。  席に着いたと同時に三枝に聞けば、古い知り合いで、たまにこの店で顔を合わせる同い年の弓削彰だと教えてくれた。誰かが話す声が耳に届き、昔付き合っていたのだと知る。三枝は何でもないことのようにその話を肯定し、昔のことだと一蹴した。弓削は背が高いし、かわいいという形容の当てはまらない男だけれど、三枝に抱かれて自分と同じように啼いたのかと思えば、純一は複雑な心境だった。  その弓削が、三枝を貸せと言う。決して強要ではなく、お願いだ。あくまでも友人として、酒を飲みたいのだと、こっそり純一の手に悪戯をしながら優しく笑う。一瞬、頭の中に二人と付き合えたらいいのにという不埒な考えが過った。先に声を掛けたのが弓削だったら、自分は弓削と付き合っていただろう。男っぽくて逞しい三枝と、優しくて柔和な弓削。どちらも、いい男だ。弓削はどんな風に自分を抱いてくれるんだろうか。 「気を付けて」  三枝はちゃんと大通りまでついて来てタクシーを拾って、純一を乗せてくれた。笑顔はあまり見せないけれど気遣いのある男だ。窓越しに眺めれば、改めていい男だと思う。純一は、弓削も欲しいと思ったけれど両方を手に入れることはできないとわかっていた。自分を大切にしてくれる三枝が傍にいるだけでも十分恵まれていると。だから、無謀なことはするまいと肩を竦めて諦め、動き出した車内から手を振った。  三枝が店に戻ると、弓削は隣に座る男と楽しそうに会話していた。弓削はいつも穏やかで楽しそうだ。 「悪いな」 「いや。俺ももう少し飲みたかったから構わない」  二人は頷きあい、弓削は隣の男にまたね、と声をかけて立ち上がる。その様子をマスターは微笑ましげに見ていた。  二人が向かったのは店の奥に設えられたソファ席だ。そこに彼らが腰掛ける様は、完璧に段取りして撮影された写真のようだった。それぞれのグラスを手に、長い足を組んで背もたれに身体を預け、男友達の距離で並んでいる。その辺りは店内でも照明が抑えられているので、わずかな灯りがグラスや時計に反射してキラキラする。その薄闇の中で、絶品の男二人が穏やかに歓談している。店内にいる他の客たちは何を話しているのか知りたがったけれど、二人とも声を低くして、囁くように話しているので一番近い席にいるものでも聞こえない。聞こえたとしても、内容は大したことではなかったのだけれど、なんだかひどく色っぽい話をしているように映るのだ。  そんな、周りから見れば眼福ものの光景が小一時間続いただろうか。三枝が突然ボスンと後頭部をソファの背もたれに預けて大きなため息をついた。弓削が優しい声色で、どうした、眠いのかと笑いながら問う。 「はあ……もう、諦めるしかねぇか」 「うん?」 「五年だぞ、五年。俺の努力は実らなかった」 「努力?……ねえ、尊。場所を変えようか?」 「……そうだな」  日付が変わるころ、まだ席を温め続けている客たちは出て行く美丈夫二人を興味津々に見送った。  彼らは店の前の細い道をゆっくりと歩き、喧騒の中に戻っていく。大通りに出てタクシーを停めると、弓削と三枝は先を譲り合いながら乗り込んだ。向かった先は、付き合っていた頃も時々利用していたホテルだ。「遥」と同様、都会の真ん中にあるにもかかわらずチェーン展開をしていないので目立たないホテルだが、急な客にも対応できるように、事前予約だけで満室にはせず必ず幾つか部屋を空けておくという経営方針のおかげで、よほどのことがない限り泊まりたい時に泊まれる。もちろんその特権は、会員登録している人間にだけ使えるものだ。今夜もその威力は発揮され、レセプションスタッフは夜中にもかかわらずにこやかに二人を出迎えてくれる。その応対からも知れるように、接客と居心地の良さ、部屋の設えのセンスは素晴らしいホテルだ。  使い慣れたエレベータで、部屋に向かう間は二人とも無言だった。それは気づまりするような時間ではなく、五年前に短い間付き合っていた頃の心地よさを伴う静かさだった。 「何を飲む?」 「水」 「オッケー、ちょっとウイスキー足しといたよ」 「彰……それはちょっとって色じゃない……」 「そう?」  弓削が三枝に渡したグラスの中で揺れていたのは、綺麗な琥珀色。多分水など一滴も入っていないだろう。弓削の手の中にも同じグラスがある。弓削はとにかく酒が強い。三枝も飲む方だけれど、弓削に付き合っていたらあっという間に潰れてしまう。実際今夜は少し過ごしすぎている自覚がある。その結果が今だ。どうして二人でホテルなんかに来ているんだ。  三枝はため息とともにグラスを受け取り、弓削は満足そうにニコニコ笑って三枝の隣に腰を下ろす。いいグラスと硬い氷がぶつかる澄んだ音が部屋に響いた。 「邪魔者はいない。誰にも気兼ねしなくていい。ゆっくり話して?」 「おー……彰ってそういうとこ変わってないよなぁ」 「うん?」 「なんつーか、無邪気に相手を追い詰めるところ」 「無邪気なわけないだろ」  弓削はやっぱり楽しそうだ。昔からそうで、付き合っているときもそうで、別れた時もそうだった。三枝はグラスを揺らし、少し黙り、中の液体をほんの少しだけ舐めた。「遥」で出されるのと同じくらい魅惑的な酒だ。三枝の口から、穏やかなため息が漏れる。おもむろに、隣の優男をじっと見つめて、口を開いた。 「……俺たち、なんで付き合ったんだっけ?」 「尊が言ったんだよ。お互いフリーなんて珍しい。ちょっと付き合ってみようかって」 「あーそうだった。俺が自分で自分の首を絞めた瞬間だな」 「絞めてないでしょ。首輪はつけたけどね、それで、つながる鎖を僕に持たせた」 「あの頃は面白かったな」 「ふふ……覚えてる?最初に寝た時」 「おー……ジャンケンしたよな。どっちが先にいれるかって」 「そう。僕が勝って、先に尊を抱いた」 「そうだったな……その晩は、先も後もなかったけど」 「我慢できなくて。ごめんね」  最初の晩、抱いたのは弓削だけだった。三枝は弓削に抱きつぶされて、ぐったりとベッドに沈んだのだ。その後も行為の前に今日はどうしようかと相談したりしていた。当然二度目は三枝が弓削を抱いたけれど、その晩は弓削も三枝を抱いた。三枝の胸中に、不思議と悔しさはなく、自尊心を傷つけられることもなかった。そのうち、弓削は三枝を抱くためにキスや愛撫を仕掛けるようになっていき、三枝はなし崩し的にそれを受け入れるようになった。ベッドの中で、外で、抱きしめられて身体を撫で回されて、弓削は遠慮なく三枝の後孔に触れたし、三枝は「早くいれてくれ」と誘った。 「懐かしいね。五年かぁ」 「なんで別れたか、覚えてるか?」 「それもお前が言い出したんだよ、尊。もう終わりにしようって。僕フラれ慣れてないから驚いて、頷くしかできなかった」 「いいや、お前は笑ってた。いつも楽しそうで、あの時も楽しそうだった」 「楽しいわけないでしょう、フラれてるのに」 「理由を、今言おうと思う。酔った勢いで」 「聞かせてもらいましょう」  弓削はまた笑っている。三枝は弓削の笑顔が好きだ。そう言えば、彼は自分を抱いているときさえ楽し気だったような気がする。  三枝はもう一口酒を含み、そっとテーブルにグラスを置いた。 「……あれ以上お前と付き合って、お前に抱かれてたら、俺は俺じゃなくなる気がしたんだよ。初めてじゃなかったけど、抱かれてあんな風になったのはお前相手の時だけだったから。ああもう、逃げるしかないって思った」 「そうなんだ」 「おかげさまで、次の恋人はすぐに出来たよ。俺の好みの小さくてかわいいやつ。そういう奴を抱いて、ああこれが俺だって安心できた。俺の腕の中でアンアン言ってる男がかわいくてしょうがなかった」 「僕だって、尊の腕の中でアンアン言ってたと思うけど?」 「その何倍も、俺がアンアン言わされてたからな……」  女役をしたのが初めてだったわけじゃない。だけどもう何年もしてなくて、それは自分は抱かれるよりも自分の好みの男を口説いて誘って抱くのが好きなのだと悟ったからだ。それなのに、弓削に抱かれて身体が全部変わってしまったかのようだった。男性器を挿入されて、信じられないほどの快感に揺さぶられ、誤魔化しようがないほど陶酔した。弓削とのセックスで得る満足感は、それまでの比ではなかったのだ。もちろん、弓削を抱くのも気持ちよかった。だけど、弓削に貫かれないと物足りなさを覚えるようになっていってしまった。  焦燥感は三枝を動揺させ、付き合いはわずかに三か月ほどで終わった。  弓削は黙って三枝の言葉を受け取り、時々グラスを揺らしている。眼鏡の奥の少し垂れた目じりは優しげに微笑みを滲ませて、唇は楽しさを形作っている。 「そうだったんだ。それで?僕と別れて正解だった?」 「わからん。ただ、しばらくは禁断症状が出た」 「あはは。すごいね、僕の精液。中出しはしなかったと思うけど」 「経口摂取してたからな」 「別れてから、ケツから精液飲みたくて、ウズウズしたの?」 「……まあ、有り体に言えばそうだな」  三枝は諦めきった表情で、何もかもを白状し始める。恥も外聞もない。ここには二人しかいなくて、三枝は酔っていた。 「お前以外に抱かれたりもした。わざわざ金払ってそういう奴呼んだんだぞ?商売なんだから上手くやってくれるはずだと思ってな。まあ、「遥」でナンパもしたけど」 「気持ちよかった?」 「普通。そしたらますます不安になるんだよ。彰じゃなきゃダメなんだろうか。それは困るって」 「なんで?僕のことそんなに嫌い?」 「は?お前の好みと、俺がかけ離れてるからだろうが。仮に俺がお前に抱かれるのが最高に気持ち良くて、復縁したいって思っても」 「復縁って、古風だね」 「茶化すな。お前だって、小さくてかわいい、愛想はいいけど控えめなのが好きだろうが。俺はそうじゃない。だから、お前以外の相手を探そうと必死だったんだ」 「ふうん」 「いろいろ試した。金払って呼んだ奴には遠慮せずプレイに付き合ってもらった。ケツにバイブ突っ込んだまま、自分のを相手に突っ込んだこともあるし、尿道まで開発されたぞ」 「うわーうわー尊って結構馬鹿だね」 「ハードなのは無理だけど、手足を拘束したり、複数でやったり、笑って許せる程度のことはだいたいやった」 「尿道開発は笑って許せる範囲を逸脱してるよ。どのくらい?」 「ほっそい棒が入るだけ。それ以上は無理だった、怖いし結構痛い。おすすめできないな、あれは」 「最初は怖くて痛いと思うところを、気持ち良くなるようにするのが開発じゃないの?」 「そうかもしれないけど、無理」 「僕がしてあげようか?」 「本末転倒。お前がそんなことをしてどうすんだ」  三枝は嬉々として開発担当に名乗りを上げる元カレを睥睨した。尿道開発は目的じゃなくて、弓削に抱かれるのと同じくらいの快楽を得る他の方法を探していた過程なのだ。なのに弓削にそんなことをされて、万が一にもそこで感じるようになってしまったらますます離れがたくなってしまう。泥沼にもほどがあるだろう。  ああきっと、怖がる俺を穏やかに宥めながら、優しく強引に小さい穴を弄るのだろう。眼鏡を取った顔が楽しそうに輝くのが目に浮かぶようだ。  弓削は久々の三枝との語らいに、ひどく満足そうに笑い、ネクタイを緩めている。 「僕と復縁したいの、尊?」 「……」 「五年間、かわいい彼氏作って、時々デリバリーで棒を見繕って、おしっこする穴まで曝して。尊がそんなことを繰り返してたなんて知らなかったなぁ」  のんびりと穏やかな弓削の口調はいつも通りだけど、なぜか三枝は落ち着かないような気分だった。もしかしてこの五年間の自分の努力は、弓削に筒抜けだったんじゃないだろうかと心配になる。水でも飲もう。三枝はそう考えて、ソファから立ち上がろうとした。その三枝に、弓削は眼鏡を触りながらにっこりと笑いかけた。 「尊は、僕が好きなんじゃない?」  三枝はきょとんとして、浮かしかけた尻を再び座面に押し付けた。この優男は、いったい何を聞いていたんだろう?三枝は拍子抜けのあまり、情けない声を出した。 「だからそう言ってる」 「言ってないだろ。尊は僕に抱かれるのが死ぬほど気持ちよくて、何年経っても忘れられなくて、もう僕のちんぽなしじゃ生きていけないって言っただけ」 「そうは言ってない」 「僕が好き?」  弓削にそう問われて、三枝は確かに言ってなかったなと自覚した。そしてきゅっと唇を噛んで黙り込み、ほんの数秒思案した。何と答えようかと。答は決まっているのだけれど。 「……好きだと思う」 「僕だってそうだよ」 「そりゃどうも」  三枝は水を取りに行く代わりに目の前の琥珀を口にした。  お互い男関係は派手だしナンパもするし、だから思わせぶりなセリフは頭で考えるよりも先に口から出る人間だ。それを誰よりも理解しているから、弓削の言葉は三枝には響かなかった。弓削も酔っているのかもしれない。そして、三枝がそう考えていることは、弓削には手に取るようにわかる。思わず弓削が笑ってしまい、三枝はさすがに不愉快そうに顔を顰めた。 「お前はいつも楽しそうでいいな」 「え?僕は別に、そういうキャラじゃないよ」 「お前はいつも楽しそうに笑ってるだろう」 「尊がいるからでしょう」 「え?」  香りを楽しみながらゆっくりと飲んでいたグラスの中身も、弓削の方は空になっていた。それを長い腕でテーブルへ戻し、自分の膝に頬杖をつくようにして、弓削は三枝を見つめる。  三枝は弓削の話がよくわからなくて、見つめ返してしまう。 「尊が見てるってことは、尊がいるってことだろう、僕の近くに。そういう時は確かに僕の機嫌はいいし楽しそうかもしれない。だけどそうじゃないときはそうでもない」 「……ああ、そう」 「僕は、尊をすごく大事にした。抱くのも、すごく一生懸命抱いた。だから尊は僕に抱かれて気持ちよかったんじゃない?僕はこういう感じだけど、恋人を抱く時、そんなに丁寧でも優しくもないよ」 「意味がわからん」 「なんで?僕の好みは確かに小さくてかわいい男だけど、僕が好きなのは尊だってことだよ。なんでわからない?お前は僕にとって特別なんだよ」  弓削の顔から一瞬笑みが消えた。その真剣な顔に、三枝は心臓を撃ち抜かれたように魅入られる。鼓動が早まり、頬が熱くなるころには、弓削はゆったりとした笑顔に戻っていた。だけど、三枝の興奮は収まらない。久々に見た弓削の男の顔が、三枝の身体の奥に強烈な衝動を叩きつけた。 「彰……」 「尊は付き合ってる頃も、全然僕のこと好きだって言ってくれなかったもんね。だから身体の方を求めすぎた自覚はあるよ。僕に溺れればいいのにって思いながら抱いてた。フラれたときはダメかーって落ち込んだんだよ」 「なあ、彰」  三枝はその逞しい腕で隣に座る弓削を抱き寄せると、唇が触れそうなほど顔を寄せて、低く囁く。キスしていいか、と。弓削は眼鏡越しの目で三枝をじっと見つめて、甘く答えた。ダメに決まってる、と。 「なんでだよ」 「僕はね、浮気はするのもさせるのもされるのも嫌いなんだ」 「俺が好きなんだろう?」  三枝の脳裏には、明日の約束を交わした純一の顔と、「遥」で弓削の隣にいた男の顔が同時に浮かんだ。だけど、我慢できるわけがない。別れてからずっとこころのどこかで身体の奥底で、弓削に抱かれることばかり期待していた。今それができる状況で、我慢などできない。  男くさい色気を漂わせながら、三枝は空いている手で弓削の太ももを撫で、頼むよ、いいだろう?と誘いかける。じっと相手の目を見つめて身体に触れ、低くて太い声で口説けば頷かない男などいない。「遥」の客なら全員おとせるかもしれない。それぐらい、性的興奮を隠さず率直に求めてくる三枝は魅力的で、涎が出そうなほどセクシーだ。実際弓削も、三枝の誘いに乗りそうになっていた。だけど、寸でのところで思いとどまり、さらに笑みを深くする。 「ダメだよ、尊……いい子にしな」 「ふざけんなよ、できるわけない……彰」  吐息のかかる距離で、囁くように静かに、美丈夫が二人駆け引きをしている。お互いが好きだと認め合っているのに、ベッドはすぐそこにあるのに、唇さえ触れさせない。強引に奪うこともない。そうやってしばらくやり取りが続いたけれど、結局三枝が折れた。名残惜しそうに、本当に惜しそうに弓削の身体を腕から放す。弓削は眼鏡の位置を指先で直しながら、楽しそうに笑っている。 「……純一と別れたら、俺と付き合ってくれるのか?」 「僕にもかわいい彼氏がいるからね」 「知ってるけど」 「純一君もかわいいよね。尊の好みにどストライクって感じ。セックス上手?」 「子供っぽい。けど、かわいいよ。お前んとこは?」 「あんな控えめな見た目だけどね、百戦錬磨かも。フェラとかマジで腰溶けそうだもん」 「意外だな……」 「でしょう。ギャップって、いいよね」 「いいよな」 「うん。尊もかっこいいのにネコのときはかわいいよ。尊のギャップ、僕にとっては最高だから」 「……お前なぁ、煽ってんじゃないよ……」  三枝は弱り切ってしまって大きなため息を吐いた。さっきから思考の大半は弓削とのセックスだ。精悍でほんの少し粗野な感じのする三枝はその見た目を裏切り、キス一つでも強引にすることはしない男だ。だから、完全に生殺し状態で、弓削はそれをわかっているから容赦なく煽り、三枝が悶えるのを楽しんでいる……としか思えない。  ソファにうな垂れて沈んでいる三枝に、弓削は少し真剣な声で話しかけた。 「尊を信用してないわけじゃないけどね。もう少し時間を置こうよ」 「五年だぞ。飲み頃食べ頃だろう。これ以上は腐っちまう」 「ねえ尊、もっと僕を見てよ」 「え?」  眠気と酔いに、身体が少しフワフワする。しかし弓削の一言で三枝はパチリと目を開き、どういう意味だと彼に聞いた。弓削は楽しそうではなく、嬉しそうな顔で笑った。 「尊に僕を好きになって欲しいから。ちんぽにしか執着されないんじゃ、僕がかわいそうだろ?他にいいちんぽがあったら浮気されそうだし」 「しねぇよ。てか、だから五年頑張ってもお前以外ダメだったんだって。他の男じゃ満足できないの」 「好みは変わるしね。僕を好きになって欲しいんだ。そしたら、痛くて怖いところも気持ちよくしてあげるよ。今度はきっと、逃げられないくらいに」  今夜一番きれいな笑顔で、弓削は三枝を魅了した。三枝はただひたすら、弓削とのセックスのことを考えていた。

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