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第1話
いつからこんなことになったのか。もうあまり覚えていない。
最初の経験は高校生の時だった。野球部の先輩二人に悪戯された。情けなくて悔しくて、なのに何度も何度も、変態だと笑われた。マゾなんだと断じられた。自分ではよくわからなかったけれど、繰り返し言われることで、そうなのだと思った。僕がされて悦ぶことは、普通の人は嫌がるのだそうだ。
わからない。痛みや苦しみで感じるわけじゃないけれど、痛くても苦しくても、最後がよければいいんじゃないのか?
そう考えること自体、変態でマゾなのかもしれない。
そしてもう何年も、そんなことはどうでもいいと思っていた。
「また桂店ですかー?」
「うん。あと、よろしくね」
「はぁい」
僕の働くスポーツクラブのアルバイトの女の子は、受付カウンタ越しに不満げに口を尖らせている。何人かいる中で、よく僕に話しかけてくれる気さくで明るい子だ。ハキハキしていて、バイト暦も長めなのでバイトメンバーのリーダー的なポジションにいる。スポーツクラブでは、こういう子はとても助かる。黙々と仕事をこなすだけではなく、ニコニコしているだけで明るい雰囲気にしてくれるというのは貴重な戦力だ。
僕もさっき、次のイベントで使う飾りや備品を用意するのに付き合わされた。元気よく、手が届かないからあの辺の荷物全部小阪さんが下ろしてくださいね!と言われ、備品庫の棚の上段にある段ボール箱を運ばされたのだ。確かに小柄な彼女の手は届かないだろうし、荷物の上げ下ろしはトレーニングにもなるけれど、全部?全部なの?僕一人で?
受け持ちのクラスが終わって、まだ汗まみれの状態で呼び止められて指示されて、僕はそれでも言われたとおりにやり遂げた。
「小阪さんくらい背が高いと、あんな上のほうにある荷物も楽勝ですね!」
「そうだね。危ないから、片付けるときも無理しないで誰かに頼んでね」
「小阪さんに頼んでもいいですか?」
「……そうだね。そうしよう」
「はぁい!」
どうも僕は押しに弱い。押しも弱い。
確かにこの店舗で、足場なしに棚の最上段から荷物を下ろせるのは僕と、最近入ったバイト君くらいだろう。つまり他にもいるのだ。しかもそれは新人で現在受付業務担当中。彼女の直下の後輩かつ、まだ何もできない雑用係だ。
でも僕は、彼に頼めばいいじゃないという言葉は飲み込んだ。彼らが仲良くないのかもしれないし、彼は背が高いだけで非力なのかもしれない。
今時の男の子という風情のバイト君は、明るくて爽やかで人懐っこくて、仕事を覚えるのも早い。おかしな用事を任せて怪我でもされたらかなわないし、僕がやればいいかな。そう納得するのは一瞬だった。
そして僕はようやくロッカールームの奥にあるシャワー室で汗を流し、罪悪感とやりきれなさを抱えてスーツに着替える。
時々僕は自分のクラスのない夜に桂店へ出かける。名目は、業務指導。実情は、ただの逢引。だからせめて、ここにいる間は精力的に仕事も雑務も引き受けないと申し訳ない。
ロッカーを閉めて荷物を持って、受付に声を掛けて出かける。若干不満そうではあるけれど笑顔で彼女は見送ってくれる。その隣には件のバイト君、風間がいて、彼も爽やかな笑顔でいってらっしゃいと言ってくれた。
僕の勤める川辺店から桂店までは電車で二十五分。仕事帰りの人でごった返す車内で、迷惑にならないように大きめのバッグを網棚に載せて、つり革を掴んでため息をつく。三十を超えてから、疲れが抜けにくい気がする。身体的には衰えるどころかまだまだ鍛えていけるけれど、多分精神的な切替が上手くないのだろう。
いつまでこんなことを続けるのか。自分はこのままどうなるのか。
考え始めると怖くなって、いつも逃げ出す。そして、丈夫が取り柄の身体を仕事でも仕事以外でも酷使して誤魔化す。
駅直結の桂店は、電車が停まってから店の事務所に入るまでにわずかに五分だ。とっくに顔なじみの受付スタッフと挨拶を交わし、構造上、奥まった場所にある小さな事務所を訪ねる。
「お疲れ様です」
「おお」
僕の勤める川辺店には、僕を含めて社員が二人いる。僕は学生時代からバイトをしていて、そのまま就職させてもらったクチで、主に肉体労働担当。もう一人は定期的に入れ替わる、デスクワーク担当の人だ。人員管理や店舗の運営に関わること、本部とのやり取りなんかを一手に引き受けてくれている。僕は個人レッスンやクラスの編成、外部インストラクターや出入りの業者との交渉、そして自分でクラスを担当して実際にトレーニングの指導なんかをするのが仕事だ。今の社員の人は、仕事もできるし穏やかだし、何より僕に興味がないのが非常にありがたい。
「再来月のクラス、決まりましたか」
「え?ああ。お前の言うとおりにした。サンキュ」
「いえ」
僕が入ってきたときに一瞬顔を上げただけで、ずっとパソコンから目を離さないこの人は、この桂店の社員だ。スポーツの経験がないわけではないけれど、入社時の研修でインストラクターになった人なので、受け持つクラスは初心者向けのみで、後はもっぱらデスクワークをしている。もう一人社員がいて、そちらもデスクワーク業務が担当だけれど、もうすぐ退職するらしい。
たくさんの客が常時出入りするので、管理仕事というのは楽ではない。売上や新規獲得目標を頭に入れながら、本部からの催促を聞き流しつつ、アルバイトと常連客の機嫌も取らなければいけない。本部には人員補充の申請を出しているらしいけれど、その人の退職までには補充されそうにもない。
それに伴うストレスも手伝ってか、僕が|桂店《ここ》に呼び出される頻度はどんどん上がっている。以前は月に一度程度だったのが、最近は週に二回来ることもある。
「新規、いけそうですか」
「近所にショッピングモールができたからな。そこから流れてくるのが何件か」
「そうですか」
「お前んとこは?」
「原田さんのおかげで、なんとか」
「克彦」
「…………すみません」
僕はバッグを床において、彼の背後にあるパイプ椅子に腰を下ろした。パイプ椅子が二脚と簡易で小さな机が一つ、そして彼の使っているパソコンデスクとデスクチェア、ロッカーとちょっとした棚。それだけでいっぱいの、六畳ほどの事務所だ。もうすぐ退職する社員は火曜日と金曜日に休みを取る。今日は火曜日。だから、呼ばれる。
「原田の話をするな」
「はい」
彼は、原田さんが気に入らないらしい。以前、近隣店舗の合同ミーティングの席で顔を合わせたときに、僕を便利使いされては困ると、柔和な笑顔できっぱりと言い切ったのだ。それ以降、藤田さんは原田さんを毛嫌いしている。僕が名前を出すと瞬時に咎めるほど徹底的に。
僕はぼんやりと、ああ、機嫌を損ねてしまった、と後悔していた。藤田さんは本当は優しい人だけど、機嫌が悪い時は力加減が雑になる。僕は作業を終えた彼に名前を呼ばれるまで、ただぼんやりと、明日のプログラムを考えていた。
「なあ、克彦」
「はい」
「お前は本当にかわいいな」
気が付いたら僕は、彼にキスされていた。藤田さんは優しい。キスも優しい。もう何年も関係が続いているから、最初のころのように心臓が爆発しそうになるような感覚はない。それでも、トクントクンと心拍数は上がり、体温が上昇する。
何年だ?僕がバイトしていたころからだから、えっと……。
身体に触られながら考え事ができるほど、僕は器用じゃない。早々に思考を放棄して、藤田さんの制服の裾に手をかけ、握りしめる。僕に覆いかぶさるように身体を屈めている藤田さんは、それに気づいてさらにキスを深めてくれる。
僕が彼とのキスに夢中になっていると、事務所のドアがノックされた。藤田さんはさっと僕から離れて、返事をする。ドアを開けて顔を覗かせたのは、この店の古参のアルバイトだった。ぼんやりしている間に営業は終わり、閉店作業も済んだらしい。
「あがります」
「ああ、お疲れ」
「お疲れ様」
「お先に失礼します」
僕の店と客層が違うので、桂店は終わる時間が少し早い。報告に来たということは、全員が帰ったということだ。その証拠に、遠くでシャッターが半分降ろされる、耳に馴染んだ音が聞こえた。僕はいつも、誰もいないここで、藤田さんに抱かれる。
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