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第6話

 雨の中を進むという、日常ではない時間でごまかされていたけれど、その日の晩に幕営する頃にはラヴィソンは自分の身体中の関節が音を立てていると錯覚した。それほど、動きが鈍くて、痛い。どこが痛いということではなく、全部が痛い。首の付け根や足の指さえ痛む。  それでも、そのことを自分から訴えたりはしなかった。痛みに慣れたのか、痛いことを理由に何も解決することはできないと身体が理解しているのか。     「お疲れになられましたか」   「……そのようだ」   「殿下に触れることをお許しください。わずかでも、お疲れを癒したく存じます」   「……許す」      陽が落ちても安全を確信できる間は馬を進めた。完全に辺りが闇に覆われて、夜目の利く騎士であっても小さなランタンでは限界を感じた。ちょうどいい場所に出たので、馬を降り、手早く座る場所を調えてからラヴィソンを馬から抱えて降ろし、そこを今日の寝場所とする。  そのとき少し違和感を感じた。服越しの身体が熱いような気がする。そして、彼はこんな風に自分に身体を預けるようにしか降りられなかっただろうか?  騎士はいつも通り、できる限り触れる場所を少なくしてラヴィソンを敷物の上に運び、静かに座らせるた。ラヴィソンは樹の幹に身体を凭れさせて動かなくなった。その様子を見て取って、迅速に天幕を張り、ラヴィソンの寝床を拵える。     「殿下」   「痛い……さわ、るな」   「殿下、少しだけご辛抱ください。ほんの少しです」      この旅が始まってから、自分はどれほどの我慢を彼に強いてきただろうかと考えれば、騎士は胸が詰まる思いだった。少しだけ、など、詭弁だ。だけどそれでもしてもらわなければならない。ラヴィソンは必死に、あらゆる苦痛を我慢しているのに、それでもまだそれを求める自分に反吐が出る。だからと言って、騎士が、ラヴィソンが、バルバの国へたどり着くそのためには、苦痛も苦行も受け入れるしかないのだ。  ほんの僅かな日数であるのに、ラヴィソンの消耗は激しく疲弊しきっていた。天幕の入口に脚を向けて彼を寝かせて毛布でくるみ、何度も何度も非礼を詫びてから彼の脚に触れる。あまり念入りに揉んでもよくないだろうとは想像できる。ひどく身体が弱っているところへ、刺激して血流を促すのは負担が大きいだろう。    騎士は天幕の入口に両膝をつき、仰向けに寝るラヴィソンにあまり近づかないようにして、持参してきた酸化しにくい植物油に炎症緩和の効果を持つ精油を数滴加え、それを馴染ませた手のひらでそっとラヴィソンの脚を撫でた。  綺麗な椅子に座り、豪勢な馬車で移動するのが似合う脚だ。白くて細くて、騎士の腕よりも華奢だった。     「ここを、少しだけ圧迫します。痛いかもしれません」   「痛いとわかっていてなぜしようと」   「明日の朝、少しは楽になるはずです。どうぞ、お許しください」      ラヴィソンは頭痛と吐き気で、まともな思考は困難な状態だった。自分の呼吸が熱いのを感じる。めまいがする。苦しくてやりきれなくて、涙が滲みそうになる。辛くて辛くて、こころが擦り切れていく。  何故自分は、こんな森の中で、硬い地面に横たわって平民に肌を触られているのだろう。暖かくて柔らかい寝所に戻りたい。本を読み、勉学に勤しみ、国の未来を。     「殿下」   「……早く、するがいい。私にはもう、なにもできない」  ラヴィソンは重たい自分の腕を持ち上げて顔を覆い、そのまま黙り込んだ。騎士はラヴィソンの苦痛が少しでも和らぐようにと祈りながら、ただひたすらにその細い脚を撫でた。  想定内であるといえば聞こえはいいけれど、ラヴィソンは騎士の心配した通りに体調を崩した。  王宮を出て数日。疲れも溜まるだろう。雨に濡れないように手を尽くしたし、夜の幕営でも今まで以上に場所には気を配ったつもりだったが、十分ではなかったようだ。  昨晩の手当てのようなことも残念ながら奏功しなかったらしい。  朝、天幕の外から騎士が声をかけても、ラヴィソンの返事はなかった。何度か呼び、そっと入り口の布を捲り上げて中を伺えば、夕べ騎士がくるんだそのままに、暖かい毛布から少しだけ頭が見えている。 「殿下……ラヴィソン殿下。失礼いたします」  騎士は身体を屈めて天幕の中ににじり入り、そっと毛布を引いた。見えたのは、真っ赤な頬。騎士は黙って天幕を出て、まだ登り切らない朝日と空を睨んで今日一日と明日の天気を真剣に予想する。  雨はおそらく降らない。むしろ晴天。そのおかげで気温は下がり、恐らく風も強い。しかしそれらは進行速度に影響しないだろう。地図を確認して、太陽の方向と照らして進路を読む。急げばラヴィソンの負担が増える。しかし時間をかける余裕はラヴィソンは持ち合わせていないだろう。 「殿下。少しだけでも構いません。水を口にしていただけませんか」 「……」  騎士は再び天幕に頭を突っ込む。ラヴィソンが差し出した水筒を受け取ろうと手を伸ばしてくれたことに幾ばくかの安堵を得た。丁寧に断りを述べてから、その手を掴んでそっと引き、ラヴィソンの身体を起こす。  ラヴィソンは荒い呼吸を繰り返しながらも、気丈に背筋を伸ばして座ろうとしている。 「殿下。少し、熱があるようでございます。吐き気や腹の具合などは如何でございますか?」 「……もんだい、ない」 「殿下」 「かまうな」  ラヴィソンは震える手で水筒を傾け、零しながらも少しだけ水を口に含む。その水が、今のラヴィソンにはひどく冷たくて、水の通った内側から身体が冷えていくような気がした。思わず自分の身体を抱きしめて、息を吐く。 「今日一日馬で駆け、明日の夜までには街へ着きます。そこで医者を当たります。ですので」 「要らぬ。そのような時間はないと考える」 「僭越ではございますが、この旅の段取りにおきましては、私の目論見を採り入れて頂きたく存じます」 「当初の目論見通り、極力知らぬ者との接触は避けよ」  騎士とラヴィソンとの会話はそこまでだった。騎士は粛々と頭を下げ、出立の準備をすると言って天幕を辞する。ラヴィソンはそのまま発熱の倦怠感に負けて意識を手放してしまった。  次にラヴィソンが目を覚ましたときには、すでに馬上で揺られていた。 「……」 「お目覚めでございますか」 「……」 「ご無礼極まる振る舞いをお許しください。水を、飲まれますか」 「……」  ラヴィソンは、幾分緩やかになった揺れの中で、ぼんやりと自分の状況を確認した。  ひどく近いところ……あろうことか頭上から騎士の声が聞こえる。熱で頭がはっきりせず手足もうまく動かない。それは体調だけが理由ではなかった。柔らかく暖かい織物にキッチリとくるまれて、ラヴィソンは騎士の腕に抱えられていたのだ。視界には騎士の外套に覆われた胸部だけが広がっている。 「ご不便であられることと存じますが、……ご辛抱を。うまく行けば、夜に街へ着きます。何か召し上がりますか?」  騎士はまっすぐに前を見つめ、自分の身体に固定したか弱い王子を気遣った。しばらくして、視界の端に捉えている美しい黒髪がゆらゆらと揺れて、どうやら首を横に振られたようだと知る。意識はあるのだと、少しだけホッとした。  騎士は馬を走らせながらラヴィソンに水を飲ませ、その背中をしっかりと抱え直す。赤毛の馬は、いつもよりも重い荷物を載せられ、疾走に近い速度で駆け続ける騎士の愛馬の尻を、ピッタリと追い続けている。 「おやすみください、殿下。私がお守りいたします」  ラヴィソンは騎士のその言葉になんの感慨も抱かなかった。ただ、目を閉じていてもいいのだ、それでも旅路を進み、使命を全うする日が近づくのだと思えば、ラヴィソンは深く熱い息を吐いて眠りに落ちて行った。

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