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第二話
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小学生のときにちょっと大きな大賞をとってから、なんとなしに画家になりたい……、という頼りない夢があった。
だけども画家だけじゃ食べていけない現実がある。芸大に入るためには美大専門の予備校に通わなければならないし、合格率だって旧帝大より難しい場合もある。
実家は都内だが三人兄弟だ。姉、兄、自分、という順番。姉がいちばんこわく、兄はのんびりした性格をしている。家族がベータのなか、自分だけがオメガだったが肩身の狭い思いをすることはなかった。それでも通院費と抑制剤にお金がかかった。比較的軽いヒートだったから薬をちゃんと服用すれば生活に支障はなかったけど、両親にはちょっとした負担だったと思う。だからこそ、郊外にある狭い一戸建てに自分の部屋が一つだけあるのも申し訳なかった。
はやく一人前になりたかったし、家を出て両親の負担を軽減させてあげたかった。
画材も含めて、美大は医学部の次にお金がかかるというし、才能があるんだという自信もない。手に職もつけたい。なにかしらの資格は必ず欲しい。俺は悩んだ末、国公立の教育学部にある芸術学科というものをみつけた。それなら教職の資格も取得できるし、家賃も学費も抑えられる。
とりあえず潰しがきいて、学費がお手頃という志望先を探す。担任の意見も兼ね合って、俺は東北にある国立大学教育学部芸術文化過程というところに入学を決めた。田舎にあるせいか、オメガ専用の寮などなく、かろうじてあるオメガ向けの賃貸物件を探すハメになった。
それだから初めてのひとり暮らしに胸を躍らせ、ぼんやりと聞いていた生協の案内を聞き流し、めちゃくちゃボロボロのオメガ専用アパートを選んでしまった。それでも実家に比べれば気にするほどでもない。焦げ茶色の木造アパートはプライベートを守ってくれ、まさに天国だ。
だが住み慣れてきたところで、見えなかった部分がさらけ出される。
この地方の寒暖の差は激しく、つねに一枚上着が必要になる。冬なんてマイナス十度なんてざらだった。雪こそ降らないが、夕方には凍てつく空気が漂い、寝る前に必ず水抜きをしなければならない。そうしないと水道管が破裂して部屋が水浸しになってしまうらしい。学内のポスターを目にして震えた。
石油ストーブなんてものを知らなかったので、俺は古びたエアコンの下ぐるぐるに布団にくるまって寒い春を乗り越えた。買い物はというとスーパーまでチャリで二十分かかるし、本屋なんて一キロ先にある大通りまででなければならない。
色んなことが初めてで、数か月はひとり暮らしというイベントを継続することもやっとだった。ホームセンターの場所を調べて、料理器具やカラーボックスを揃えて、帰ったらごはんを作って……とすべてがてんてこ舞いだった。
対照的に大学は学校内の隅に小さな草原をかかえ、馬がパカパカと走っているほどのどかなところだ。農学部と獣医学部の敷地らしい。自由に学士課程カリキュラムを編成でき、徐々に友人もできた。忙しいが、皆がのんびりとしていて癒された。
そして、運命というものは突如やってくる。
魂の番いと出会ったのだ。
眠そうな顔で教室に入ってきた男、こと慶斗と出会った。出会ったといっても、大学の講堂のいちばん後ろから見ただけだ。それでも、その姿に一瞬で心奪われた。
運命の番い。
勝手に、一方的に、そう思った。
背はすらりと高くて、がっしりとした体つきをしている。眠そうな顔で、前方の席に腰かけて教科書を開いていた。その様子は、のそのそと冬眠から目覚めたグリズリーに似ていた。
——運命の番いかな。
その言葉にはっとした。
隣の女の子たちが、クスクスと笑ってしゃべっていた。それで、すぐに自分の考えが気のせいだとわかった。そうだよな。男だし。気のせい。そんなことあるわけない。それでも毎週火曜の一般教養はこの上ない楽しみとなった。
グリズリーは黒々とした短い髪をしていたがたまに寝ぐせで先っちょが跳ねていた。強面の顔で堂々と前で授業を真剣に受けていた。背筋を伸ばし、後ろで寝ている奴をうまく隠しているおかしさに笑ってしまう。真面目な性格なんだなと勝手に思っていた。
かわいい。
見ているだけでもおもしろい。
遠くからで十分だった。
サークルなんて入るひまも金ないし、学科が終わったらデッサンや油絵の課題を仕上げなければならない。それが終わったらスーパーに駆け込む毎日。慌しい一日のなか、グリズリーを目で追うのが唯一の楽しみだった。
生あくびを嚙み殺してノート書く姿もかわいくて、ちらちらと視線を送ってしまう。己の存在感なんてないに等しいので、彼を遠くで眺めるだけで毎日が満たされた。
「カッコいいよね」、と女の子がうしろで口にしたのを聞いたとき、俺はドキッとした。
「アルファだし、真面目そうだね」と。また耳にして、ドキっと危機感がさらに増す。この田舎の地方大学にアルファは少ない。優良物件なのは確かだ。誰もがグリズリーに憧れを抱いていた。
つき合っている恋人がいないか気になったけど、彼を囲む友達も怖くて近づけない。そもそもかわいいベータやオメガの女の子たちがいるなかで、男のオメガなんて眼中にないだろう。それでも眺めていたい。
流れてきた噂でバイト先を入手して、俺は近くの複合施設にあるレストランにママチャリを走らせた。
創業四十年の老舗のレストランのチェーン店。おすすめは蟹ピラフ。結構お高くて、一皿千五百円もする。それを週一回のがんばったごほうびにした。
慶斗が作っていると想像すると、目の前のピラフが輝いて見える。フランス料理でも食べているような気分になってにやけてしまう。カウンター越しからこっそりと顔を見る。慶斗の骨ばった腕を剝き出しにしてフライパンを振っている。真剣な眼差しを送っている横顔もかっこいいなと思った。
一般の客に扮して、想い人にストーカーしていた自分が今更ながらちょっと怖いのはわかっている。勝手に運命の番じゃないかなと思い込んでいるのもあぶないのも知っている。それでも夏の太陽のような片想いに盛り上がっていた。
好きで、好きで、この溢れる想いを止められない。初めての恋は白いキャンパスに鮮やかな色を重ねて、ぐちゃぐちゃにかき混ぜたようなものだった。
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