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第9話

「……〇三番?」 私は〝笑い犬〟を見上げた。相手の顔はみるみるうちに赤くなり、身体が小刻みに震え出す。 「それ以上、言うなっ……! この人に!」 「なぜだ? いつかわかることだろう。お前が、人を痛めつけることも、人から痛めつけられることも大好きな、性的異常者だってことがな。お堅そうなフリをしたって無駄だ。『外』でさんざんイタズラをして、更正不可能の性犯罪者としてここに移送されたお前が、模範患者のフリをして〝先生〟に取り入ったのはなぜだ? あまつさえ看護士にまでしてもらって。お前の敬愛するご主人様の真似事か? それとも今度は、自分がご主人様になりたかったのか? まぁ、どっちでもいい。お前はさっさと犬小屋に戻って〝先生〟殿のご機嫌でもとったらどうだ? そのやっかいな性癖を治してもらえるかもしれないぞ。まぁ、去勢でもしない限り、無理だと思うがな」 〝笑い犬〟の顔が、さらに赤黒く膨れ上がる。 「それは、こっちのセリフですよ、〝王様〟! いつまでも〝先生〟に反抗していないで、いい加減、彼の治療に従ったらどうです? そうすれば楽になれますよ。自分自身を手放してしまえば、これ以上発作に苦しむこともない。まぁ、どのみち、時間の問題のようですけど。今日の電気治療はたまたま耐えられたかもしれないが、明日明後日は? そんないつ狂うともしれない男が騎士きどりですか? ましてや人殺しの貴方が。あはは、傑作ですね。人殺しで狂人の騎士なんて」 爪で金属を引っ掻くような〝笑い犬〟の笑い声とは対照的に、〝王様〟の声は鋼のように硬く、重かった。 「黙れ。そいつは俺が守ってやらなくとも大丈夫だ」 〝笑い犬〟の笑みが一瞬にして固まる。 「何を言っているんです? 彼は〝人形〟です。今だって、私のなすがままだ」 〝笑い犬〟の持つナイフが、私の喉にかかった。冷たい刃の感触に、身体が竦む。だが、それ以上に頭の中が混乱していた。 一体、彼らは何の話をしている? 〝笑い犬〟が患者? 主人が何だって? 「そいつに、触るな」 静かな〝王様〟の一声に、〝笑い犬〟の持つナイフが怯んだ。 「なっ、命令するなっ……貴方の言うことを聞く道理はない!」 「そう思うか? だがこれは命令だ。俺は知っているんだぞ。昨日、そいつの房の鍵を開けておいたのは、お前だろう? 一体、そいつに何をするつもりだったんだ? 目隠しや手錠なんか持って。〝先生〟殿にお預けでもくらって、我慢できなくなったのか? だがそれが〝先生〟にバレたら、どうなる? お前は看護士の任を解かれ、患者に逆戻りだ。そうしたら〝人形〟──お前の敬愛するご主人様のそばに、もうついていられなくなる。それでもいいのか?」 「……くっ」 〝笑い犬〟の顔に動揺が走った。頭の中で天秤が揺れているかのように、ちらちらと私と向かいの壁を見比べる。 そこへ、〝王様〟がさらに追い打ちをかける。 「それが嫌ならさっさと小屋に帰るんだな。ワン公。もう一度言ってやろうか? お前の部屋は俺の隣──〇三号室だ」 「……〝王、様〟っ……!」 怒りに震えながら、〝笑い犬〟はギッと壁を睨みつけた。だがナイフを持つ手には、もはや何の力も入っていなかった。 「どうした〝笑い犬〟? ハウス、だよ。出来るだろう?」 「……ッ」 荒い呼吸を繰り返したあと、〝笑い犬〟は私の上からのっそりと退いた。そして名残惜しそうにちらりと私を見た後、逃げるように房から出ていった。隣の隣──〇三号室の扉が、ガラガラと閉じられる音が、暗い廊下に響く。 青白い静寂が、再び部屋に戻った。 〝王様〟は何も言わなかった。 私も、何と言っていいのかわからなかった。今起こったことを整理するだけで頭がいっぱいだった。 (本当に、私は何も知らないんだ……) 何を知らないかすら知らない。もうこんなのは耐えられなかった。 私は藁にもすがる思いで、壁に近づいた。 「〝王様〟……今のは一体……」 「自分で考えろ」 きっぱりとした声が返ってきた。 〝王様〟も〝先生〟と一緒だ。肝心なことは、何も教えてくれない。 しかし〝王様〟の沈黙は、〝先生〟のように曖昧で、不安を煽るものとは違う。うまく言えないが、こちらを導いてくれるような、そんな力強さと優しさがあるような気がした。 (何でそんなこと思うんだろう……? あんなことをした人なのに……) 昨夜のことを思いだし、唇を噛んだ。身体の痛みがぶり返してくる。同時に、切ないほどの疼きまで……。 ぶるぶると首を振る。 〝王様〟は狂人だ。自分は、それを痛いほど思い知ったはずだ。 なのに、なぜこうして、また〝王様〟に近づいてしまうのか。近づかずにはいられないのか。 〝王様〟もなぜ、私を助けようとしてくれるのか。彼にとって自分は欲望を、狂気を満たすためだけの獲物でしかないはずなのに。 (もう、何がなんだかわからない……) 壁に両手をつけ、ずるずると床に座り込んだ。 「──体は、大丈夫か……?」 「えっ」 やけに〝王様〟の声が近く感じた。身じろぎの音で、彼が壁を隔ててすぐ向かいにいることがわかった。 「あんなところに置き去りにして悪かった。けどあれ以上そばにいたら、またお前にひどいことをしてしまいそうで……」 徐々にか細くなっていく声には、痛みと後悔の念が滲んでいた。 ──この人のことが、わからない。 私は固い壁に額をつけた。 急に狂ったように暴れだしたと思ったら、蕩けるほどの優しい声を出す。 一体、どちらが本物の彼なのだろう。 そして私は一体、どちらの彼を信じたらいいのだろう。 (……いや。そんなの、初めからわかっている) どちらも、信じてはいけないのだ。 これは、すべて〝王様〟の罠なのだから。 頭ではそうとわかっているのに、なぜか彼を信じてしまいそうになる。信じたいと思ってしまう。 一体、この感情はどこからくるものなのだろうか。 私はその答えを探し求めるように、壁に指を這わせた。 すぐ向こうに〝王様〟がいる。そう思ったら、不思議な気持ちになった。 昼間の絶叫を聞いた身としては、彼が無事でここにいること自体、奇跡のように感じた。 (ほんと、何なんだ……) 苦笑いがこみあげてくる。 あんなことをされてなお、〝王様〟があの責め苦に耐え、戻ってきてくれたことに安堵しているなんて。 「……ありがとう、〝王様〟……」 心の中で思っていたことが、ポロリと口から出てしまった。 「は?」 〝王様〟がガタリと腰を上げたのがわかった。 「お前、何を言っているんだ? 俺がお前に何をしたのか覚えていないのか?」 「でもさっき、助けてくれただろう?」 「あのな……助けられたら、何をされてもチャラになるのか」 呆れ果てた、とでも言うような大きなため息が響く。壁の向こうで相手がどんなしかめっ面をしているのか、手にとるように想像できた。 「ぼおっとするのも大概にしろよ。お前は前からそうだった。異常に頭はいいくせに、変なところで抜けていて」 くどくど言う〝王様〟の声を聞いていたら、ぷっと吹き出していた。〝王様〟がむっとした声を出す。 「おい、冗談じゃないんだぞ。お前は緊張感がなさすぎだ。いいか? 今の〝笑い犬〟の件でもわかっただろう? ここにいる誰のことも信じてはいけない。もちろん、俺のこともだ」 「どうして?」 「どうしてって……お前が言うのか?」 〝王様〟は嘲り笑ったあと、かさついた険しい声で言う。 「俺は小さい頃から、怒りに支配されると我を見失って、何をしでかすかわからないタチの人間だった。昨日も、急に頭が真っ黒になったと思ったら、あんなことをしていた。気がついた時には、お前を茂みの中に組み敷いて、あんな……」 耐えきれなくなったように、〝王様〟は苦しげな息を一つ吐いた。 「言い訳をするつもりはない。ただこうなってしまった以上、俺はもう、お前を助けることは出来ない。助けたくても、逆に危害を加えてしまうかもしれない。最近は〝先生〟の薬のせいで、怒りの発作も頻繁になってきている。それに電気治療も……次こそどうなるかわからない。悔しいが〝笑い犬〟の言うとおりだ。だから──」 ドンと、壁を叩く拳の音がした。 「強くなれ。一人でも逃げられるように。そのために早く記憶を取り戻すんだ」 「……何でそこに記憶が関係あるんだ?」 「騙されないためだ。お前が少しでも自分自身に迷いを見せれば、〝先生〟は必ずそこにつけ込み、お前を懐柔しようとしてくる。奴は、そうゆうせこいのが得意だからな。そうならないためにも、お前はちゃんと自分自身で自分を見つけろ。誰の言葉にも従ってはいけない。そして自分を──自分の信じたものを、最後まで信じ抜くんだ」 〝王様〟は、全てを出し尽くしたかのように荒い息を吐いた。 「俺が言えることは、それだけだ。……もう寝ろ」 一方的に言ったきり、隣からは何の物音も聞こえなくなった。 寝てしまったのだろうか。私は、小さく壁を叩く。 「どうした?」 しばらくしてから、返事が返ってきた。今まで以上に優しく静かなその声に、無性に目の奥から何かがこみ上げてきそうになった。 「泣くな」 〝王様〟が言った。私は咄嗟に手の甲で顔を拭った。 「泣いて、ない……私は、泣き方を知らないんだ」 「あぁ、そうだったな。〝人形〟も、確かそう言っていた」 一拍おくと、〝王様〟は妙に確信のこもった声で続けた。 「でも大丈夫だ。お前も、いつか泣ける日がくる。その時は思いっきり泣け。今までの分まで」 自分がおかしいことを言ったことに気づいたのか、〝王様〟は小さく笑った。 「馬鹿だな、俺は。泣くなと言ったり、泣けと言ったり。これじゃ、まるで〝さかさま〟だ」 低い笑い声を聞いていたら、私はどうしても聞かずにはいられなかった。 「〝人形〟は貴方に優しかった……?」 沈黙のあと、〝王様〟はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。 「そうだな。でも初めて会った時は、俺も他の連中と同じように、なんて冷たい奴だと思った。だが、それは間違いだった。あいつの腕は温かかった。俺はあの温もりがあったから、今もこうして、何とか正気を保っていられるんだ」 当時を懐かしんでいるのか、〝王様〟の声は遠くかすんでいた。 不思議と、私は昨日感じたような苛立ちも焦燥感も覚えなかった。 逆に〝人形〟に感謝したいくらいだった。この先の見えない閉鎖病棟で、どこか寂しげな顔をした〝王様〟を〝人形〟が救ったのだ。 冷酷だと言われていた彼が。 〝人形〟は、どんな人だったのだろう? 〝王様〟をどう思っていた? 知りたかった。 〝人形〟のことが。自分自身のことが。 そして、〝王様〟のことが。 私は顔を上げて、前の壁にそっと手を這わせた。 「──わかった。私は、記憶を取り戻す」 壁の向こうに誓言するように言うと、〝王様〟は、 「そうか」 と一言だけ言い、それ以上何も口にしなかった。 翌朝、壁の前で目を覚ました。どうやら、あのまま眠ってしまったらしい。 隣の部屋の気配を窺う。が、何の物音もしなかった。 廊下から、スタッフたちがヒソヒソと話す声が聞こえてきた。 「〇二番は、また保護棟行きらしい。何でも二度目の電気治療がすぐだとか」 「へぇ、こんな短時間に、何度もやって大丈夫なのか?」 「さぁ? でも〝先生〟が言うんだからいいんだろう」 スタッフが去っていく足音を聞きながら、私は焦っていた。 もう時間がない。早くしなくては。 すぐさま広間に行き、点呼をかねた朝食を受け取る。そして、人目を盗んでこっそり廊下へ抜け出した。 意外と簡単だった。ぼおっと外でも見ていれば、誰も〝人形〟に注視する者はいなかった。まるでそれが、正しい〝人形〟の姿とでもいうように。 幸い、廊下には誰もいなかった。〝王様〟の一件で、スタッフは大方、出払っているらしい。 しかし、気になることもあった。 〝笑い犬〟が、どこにも見当たらないのだ。看護士の中にも、患者の中にも。 不気味だったが、ホッともしていた。 彼の本性を知ってしまった以上、平常心で会える自信がない。あの歪んだ笑顔を思い出すだけで、背筋が冷たくなるのだ。 (駄目だ。今は、目の前のことに集中しよう) 気を取り直して、廊下を進む。〝先生〟の診察室は、廊下の一番奥にあった。 辺りを警戒しながら、ドアに手をかける。中は真っ暗だった。〝先生〟の姿も見あたらない。 それもそのはず。今日は週に一回、〝先生〟が『外』の学会に出かける日だった。先ほど本人が病院から出て行くのを、広間の窓から確認したばかりだ。普段通りなら、夜までは戻ってこないだろう。 物音をたてないようにして、〝先生〟のデスクに近づく。一つ一つ引き出しを開き、中を確認していく。 欲しいのはカルテだった。私と〝王様〟の。それを見れば、何か思い出すかもしれない。 自分が何者なのか、なぜここにいるのか。 そして〝王様〟のことも。 「……あった!」 デスクの上にある書類立ての中から、見たことのあるファイルを見つけた。診察の時、〝先生〟が書いていたものだ。 表紙には『NO.01』と書いてある。 一呼吸おいて、ファイルを開ける。中には、数字や英字が羅列したカルテと二枚の写真が挟んであった。 一枚は少年、もう一枚は青年くらいの年齢の男が写っている。似た面立ちから察するに、同一人物だろう。 どちらも口元一つ動いていない、冷めた表情をしていた。視線はカメラの方を向いているが、まるで心をどこかに置き忘れてしまったかのようにぼんやりとしていた。 (もしかして、これが私……?) この時になって、私は初めて自分の顔を見た。しかし、それ以上の興味が湧かず、ファイルを置く。 〝王様〟のカルテは、いくら探しても見つからなかった。 デスク、棚、ありとあらゆるところを当たるが、〝王様〟──どころか、他の患者のファイルさえない。 (どうゆうことだ?) 診察室を見回す。カルテがありそうなところは、他にはない。 ふと、あるものが目に飛び込んできた。デスクの後ろにある一枚の扉。特別な治療室への入り口。 (……もしかしたら、ここに……?) ゴクリと喉を湿らせ、扉のノブに手を掛ける。金属製のノブは冷たく、一瞬、掌が震える。ここで〝王様〟の治療が行われたかと思うと、緊張で体に力が入った。 キイッと錆びた音をたてて、扉が開く。横にある電気のスイッチをつけると、蛍光灯の人工的な光が十畳ほどの広さの部屋を照らし出した。 部屋の中央には、大きな手術台があった。それはぬらぬらとした不気味な銀色に光り、周りには箱型の機械類、器具がおかれたワゴン、無影灯などが置かれていた。 精神病院というよりも、外科室を思わせる、血なまぐさい部屋だった。 そろそろと中に入った私は、部屋の右奥隅にぽつんと置かれているスチール製のデスクに目をやった。柔らかな木目を基調とした〝先生〟のものとは正反対の、冷ややかな銀色をしたデスクだった。 カルテがあるとしたら、あとはここしかない。そう確信し、デスクに近づく。 パイプ椅子の周りには、研究書らしきものが雑然と積まれていた。その中の一つを、手にとって見る。 「『Psychopathia Sexualis(変態性慾心理)』?」 何気なく題名を読み上げて、すぐ違和感に気づく。 「あれ……? 何で、読めて……?」 本は自分が今まで見たこともないし、聞いたこともない言語で書かれていた。なのに、意識せずともスラスラと頭に入ってくる。 (どうして……?) 奇妙な焦燥感にかられ、慌ててデスクを調べる。 カルテはすぐに見つかった。というより、どこに置いてあるのか、初めからわかっていたように手が動いたのだ。 なぜと、疑問に思う前に、カルテの方に意識がいった。 カルテは私以外の患者のものが、全てそろっていた。 〝眠り男〟、〝笑い犬〟、〝さかさま〟〝長老〟、そして〝王様〟。 その全てのカルテの主治医の欄には、こう走り書きがしてあった。 『NO.01』 ドキリと、心臓が跳ね上がる。 「NO.01って──」 「君のことだよ」 後ろから声がした。振り返ると、ドアの前に〝先生〟が立っていた。彼はいつもと変わらぬ鷹揚とした笑みを浮かべて、ゆったりと部屋に入ってくる。

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