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第8話  こんな自分、大嫌いだ

 金曜の昼時、いつも通り少々の緊張を持ってオミに弁当を渡した。だけど今日は今までで一番の自信作だ。中身を見た途端、オミは目を輝かせた。 「今日ハンバーグじゃん」 「チーズ入ってるよ」 「マジ? 俺、チーハンが世界で一番好き」  知っている。オミの好物だと知っていて入れたのだ。はじめて作ったけれど、なかなかうまくできたと思う。 「いただきまーす」  オミはいつもすごい勢いで弁当を平らげていく。おかずの一つ一つに必ず「美味しい」のひと言を添え、食べ終わればきちんと「ご馳走様」を言う。そんな細やかな気遣いに、優李は毎日胸をときめかせている。  夏期講習も残り少なくなってきた。オミはサボらず真面目に通い、志望校合格ラインまであと少しというところまで迫っている。正直意外だったけれど、それだけ三人同じ高校に行きたいと思ってくれているのだと思うと、いじらしい気持ちになった。  ──三人、三人。  弁当を片づけるオミの前で、無意識に数字の三を机になぞる。三人という言葉を忘れてはいけない。  自分に刻むように何度もなぞって、授業が始まった頃、手のひらでさっと拭った。 「もうすぐ夏期講習も終わりだから、最後まで気を抜かないように」  一日のカリキュラムが終了し、講師の話を聞きながら時計を見る。予定通りに終わったけれど、オミのほうはまだ授業中のようだった。ガラス越しに隣の教室をぼうっと見つめていると、真ん中で目立っている金髪が急に動いた。  ──ん?  周囲のぽかんとした表情を置き去りに、オミは荷物とスマホを持って教室から飛び出した。思いがけぬ光景に、優李もぽかんと口を開ける。 「え、ちょ、え?」 「ん? 安室、どうした?」  終わりの挨拶をしようとしていた講師に問われ、なんでもないですと小さく答える。解散してすぐ優李も荷物を背負い、一目散に教室を出た。  オミはすでに昇降口で靴を履き替えていた。あまりの慌ただしさに、受付の人も驚いた顔をしている。急いで階段を下りながら声をかけた。 「オミ! どうしたんだよ」 「優李、走れ!」  意味がわからず困惑していると、ふいに後ろから怒声が飛んできた。 「待てよ、安室!」 「え?」  呼び止めたのは中西だった。振り返ると、驚く間もなく頬を殴られた。受付の人がキャッと叫び、階段から下りてきた他の生徒も何事かと騒めく。優李はあまりの痛みで頭が真っ白になり、視界は衝撃でぐらついていた。 「おまえ、いい加減にしろよ! 無視してんじゃねぇよ!」  中西がなにを言っているのか、まったくわからなかった。混乱してなにも言えずに突っ立っていると、中西の背後に隠れている女子が泣いていることに気づく。この間告白してきた子だ。だけど無視なんかしていない。そもそも今日は話しかけられてもいないし、いったいなんのことだ?  痛む頬を押さえて、助けてくれとオミを見た。オミは中西を睨んでいる。そこに自分の絶対的な味方がいることは、優李の心を落ち着かせてくれた。  ──大丈夫。俺にはオミがいる。  オミ、と呼ぼうとした。するとオミは、そのまま踵を返した。 「悪い、優李。俺行くわ」 「え」  急いでいた理由を説明もせず、オミは優李を置いて出て行った。  ──え?  一瞬なにが起こったのかわからず、ぼけっと自動ドアを見つめる。  置いていかれた。急に殴られた優李になんの言葉もなく。……置いていかれた。  いや、あれだけ急いでいたのだから、よほどのなにかがあったのだろう。のっぴきならない、優先しなければいけない都合が。そもそもオミがここに残ったところで乱闘騒ぎになるだけだ。だから結果的には問題ない。  問題ない、のだけど。  取り残された絶望に打ちひしがれて、後ろから中西に肩を掴まれるまで現実に戻ってこられなかった。 「聞いてんのか、安室! おまえ、ミナから手紙もらっただろ。授業のあと残ってくれって書いてあっただろ!」 「……手紙?」 「ミナのこと傷つけてんじゃねぇよ!」 「もういいよ、中西くん」  ぐずぐずと泣いているカナが中西の腕に触れる。中西はほんのり頬を染めた。なんという安い茶番劇だ、と乾いた笑いが洩れた。 「なに笑ってんだテメェ」 「いや、笑うでしょ、これは。なんなんだよ。手紙ってなんのことだよ。知らないよ」 「机の中に入ってただろ!」 「知らないっつってんだろ! 机の中なんていちいち見てない。俺がくる前に入れたんなら、奥のほうで潰れてんじゃないの」  優李の言葉に、ミナは嗚咽を上げて泣き始めた。中西はもう一発殴らんと拳を振り上げたけれど、駆けつけた講師たちに止められていた。いつかの光景とは逆だ。あのときはオミと奏多が助けてくれた。今は一人ぼっちだ。 「こんなに尽くしてくれるんだから、中西と付き合えば?」  ミナにそう言うと、信じられないという顔で優李を見た。わかっている。告白してきた相手にこんなことを言うなんて最低だ。だけどミナは、中西に守られているヒロインな自分に酔っているようにしか見えない。  人を巻き込んで青春ごっこか。悪いがこっちはそんな場合じゃない。  よろよろ立ち上がって靴を履き替え、注目を集めたまま塾を出た。好奇だろうが軽蔑だろうが好きに騒げばいい。馬鹿馬鹿しくて付き合っていられない。  ポケットからスマホを取り出す。今日は例の家庭教師がくる日だ。おそらく奏多になにかあったのだろう。アプリを確認すると、奏多からの連絡は入っていなかった。  ──よっぽどのときはちゃんと言えよ。俺じゃ頼りないこともあるだろうし。  奏多がオミに助けを求めるのはいつものことだ。だからオミが奏多を優先するのも、いつもの……。 「……ふ、ぐ」  ぼたぼたと涙がこぼれた。熱されたアスファルトに飲み込まれていく。殴られた頬より胸が痛い。じんじん痺れるように痛い。呼吸が苦しいほど痛い。  奏多への心配よりも、オミが自分を置いていった悲しさでいっぱいだった。そんな自分が恥ずかしい。どう考えても奏多のほうが一大事だし、こちらは結局大したことなく終わったではないか。頭では理解しているのに、心が追いつかない。オミが奏多の元へ行ってしまったことが、今はじめて、はっきりさみしいと感じている。  真夏の夕暮れは涼しさのかけらもない。一人で歩く帰路はやたら長く感じた。顎から垂れていく水滴が汗なのか涙なのか、もうよくわからない。たぶん今の自分は、今世紀最大に情けない顔をしている。周りに誰もいなくてよかった。  マンションが見えてきた頃、スマホが震えた。急いで確認すると母さんからだった。今日の夕飯は要らないという連絡に、了解の二文字だけを返信する。  オミと奏多からの連絡はない。  自分の家に帰る前に、約束通り奏多の家に行った。いるだろうと思っていたけれど、やはりオミもいた。真っ青な顔で泣いている奏多を、部屋の真ん中で抱きしめている。  奏多の服は乱れていて、なにがあったかは一目瞭然だった。オミの右手は血まみれで、カーペットにも血が付着している。 「……遅くなってごめん」  優李が声をかけると、ようやく気づいたように二人が顔を上げた。けれどオミは奏多を離そうとしない。  自分はなにを言えばいいのだろう。大丈夫か、怪我はないか、相手はどうなった。訊きたいことはいくつもあったけれど、どれも口から出なかった。  そこにはただ重苦しい沈黙があって、優李の胸はどんどん冷えていった。あんなに心配だったのに、いざ傷ついた奏多を前にすると、優しい言葉のひとつも言えない。部屋の入り口に佇んだまま激しい自己嫌悪に襲われた。  泣きじゃくる奏多を見て、帰り道の自分を思い出す。比べてしまう。自分のつらさと奏多のつらさを秤に乗せて、どっちが本当に重いのかを眺めている。判決は一瞬でついた。当たり前だ。ただ面倒事に巻き込まれただけの優李と、犯罪に遭いそうになった奏多。どちらが重いかなんて考えるまでもない。だけど傾いた秤を前に、優李はいつまでも動けなかった。  ──俺は結局、俺が一番大事なんだ。  自分がこんなに醜い人間だとは思わなかった。二人のそばにいてはいけない気がして、逃げるように自分の家へ帰った。その姿は、あの二人にどう見えていただろう。  翌日、事の次第を知った大人たちは通報しようとした。しかし奏多が全力抵抗したので、クビにするだけで終わった。本人は男に襲われたとバレるのが恥ずかしいからと言っていたけれど、本当の理由はたぶん違う。オミが必要以上に相手を殴ったからだ。奏多はオミの立場を悪くしないために閉口した。オミを守ったのだ。  オミと奏多はとても綺麗な人間だ。相手のためを心から願うことができる。そんな二人の幼馴染であることは優李の誇りだった。  だけど、オミたちにとってはどうだろう?  考えると無性に恥ずかしくなった。自分のことばかり考えてしまう優李は、誰にも誇ってもらえない。オミも奏多も、人を守ることができる人だ。どうして自分にはできないのだろう。どうして人のことを心から大事にできないのだろう。こんな自分、大嫌いだ。  泣きたい気持ちで空を見上げてみると、澄み渡る真っ青な夏空が広がっていた。

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