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第13話  一人と一人にはさせない

 奏多の葬儀に、オミは姿を見せなかった。  オミと奏多の本当の関係を知っていた人は少ないけれど、幼馴染が亡くなったのだから塞ぎ込むのも当然だと、大人たちはみんな口を揃えた。それで言えば参列している自分は薄情な人間ということになる。なんの思いもなく亡骸に花を添えたわけもないのに。  優李はまだ、これが現実だと受け止めきれていない。けれど受け止められないと苦しんでいる時点で、この痛みは本物であり、奏多の死は現実なのだと理解している。  ひどい矛盾だ。頭と心はいつだって一致しない。 「優李ちゃん、ごめんね。ありがとうね」  慌ただしさが通り過ぎ、葬儀はすべて無事に終えた。一見日常が戻ったようにも思えるけれど、マンション内はどこか重い空気に包まれている。おばさんにおかずを差し入れして、奏多の部屋には寄らず玄関を出た。奏多の顔を見ずにこの家を出ることに慣れていなくて、そこにはひどい違和感を伴った。美しい姫のような幼馴染は、もうあの部屋にいない。  自分の部屋に戻ってスマホを取り出し、オミに電話をかけた。呼び出し音が延々と続く。留守番サービスにすら繋がらない。  奏多が死んだクリスマスイブから一週間、今日は大晦日だ。窓の外を見ると、この辺りでは珍しく大粒の雪が降っていた。  あれからオミとは連絡がつかない。家にも帰っていないらしい。電話をすれば呼び出し音が鳴るので、充電できる環境にはいるようだ。放任主義であるオミの親もさすがに心配していた。  優李はこの一週間、オミを探そうとはしなかった。かける言葉が見つけられなかったからだ。もし見つけたとして、帰ってこいと言って、それはオミを苦しめることにはならないだろうか。大事なものを失っても時間は止まってくれない。冬はやがて終わり、春がやってくる。絶望しているオミに、上京はどうするのか、シーレイのボーカルはどうするのか、そんな話をしてもいいのだろうか? 現実の話をしてもいいのか? 奏多がいない現実の話を……。  今のオミに自分の未来を考えさせるのは、あまりに酷で気が引ける。だけどそうも言っていられないのが、岐路に立つ十八歳の宿命だ。  コートを羽織って勢い任せに部屋を出る。外気温は今年最低らしい。凍てつくような寒さに肌が斬りつけられた。マフラーを忘れたことに気づいたけれど、勢いを失いたくなくてそのままマンションを出る。  当てはなかった。思いつく場所は限られていて、近所の公園やコンビニ、学校、スタジオ、ライブハウスを探し回る。どこにも見当たらなくてすぐに行き詰まった。 「どこにいるんだよ……」  オミは今どこで、どんな顔で、なにを考えているんだろう。  ──俺は今ここで、みっともなく鼻水垂らして、おまえのことを考えてるよ。  自分はやはり薄情な人間だ。大事な幼馴染を失ってもなお、好きな人のことを考えてしまう。  奏多、ごめん。こんな人間でごめん。奏多が死んだことは悲しくて、どうしようもなくさみしいけれど、今はオミが心配でたまらないのだ。だから奏多より先に、オミを想わせてほしい。オミを見つけたら、二人で奏多を想うから。  日が暮れてきて、雪は弱まった。それでもしんしんと降り続き、足元がうっすら白く染められていく。暗くなった街は冷たく静かで、一人きりの切なさを煽る。思い当たるところはすべて回った。もう他に思いつかない。しかしこうしている間にもオミがどこか遠くへ行ってしまう気がして、とにかく歩き続けた。こんな住宅街にいるわけもないとわかっているのだけど、止まることが怖い。  どうしよう。どうしよう。どうすれば、オミに会える? 「──あれ、優李?」  ふいに声をかけられ、弾かれるように振り返った。傘をさした仙道が目を丸くして立っている。 「仙道、どうしてここに」 「ここ俺の地元だよ。そっちこそ、こんなところでなにしてるの?」  そんなにずぶ濡れで、と呆れ顔で傘を差し伸べられた。 「寒くないの」 「……寒いけど、暑い」 「なにそれ、どっちなの」  小さく笑った仙道に、尋ねてもどうしようもないとわかっていながら、オミの居場所を知らないかと訊く。仙道とオミはそこまで親しくない。たぶん連絡先すら知らないだろう。だから期待はしていなかったのだけど、ここで意外な答えが返ってきた。 「知ってるよ」 「え」  顔を上げると、仙道はどこか複雑そうな顔をしていた。 「知ってるというか、偶然聞いただけなんだけど。ここ最近のオミ、いつも駅裏のホテル通りで大人と一緒にいるんだって。女も男も見境ないって噂。どうしちゃったの、あいつ」  愕然とした。その方面で荒れているとは思っていなかった。吐き気に近い気分の悪さが込み上げる。いくら落ち込んでいるからって、それはないだろう。その行為が奏多に対するひどい裏切りになると、わかっていないのか? 「ありがとう、仙道。俺、ちょっと駅裏行ってくる」 「待てよ。なにかあったのか? 奏多はどうしたんだよ」  ハッとした。仙道はまだ知らないのだ。仙道にとって奏多は友人とまでも呼べない程度の関係で、訃報を受け取る立場でもない。だから当然、一週間前になにが起こったのかも知らないでいる。  羨ましい。はっきりとそう思った。自分とオミが味わっている痛みは、きっとこの人には一生伝わらない。そんな気さえした。仙道が悪いわけではない。だけど今の優李は、自分たちを守ることに必死だった。心配そうな顔でこちらを見ている仙道を、心の中で一発殴る。どうしたのかなんて訊くなよ。奏多は、奏多は── 「奏多は死んだよ」 「……え?」 「だから俺は、オミを迎えに行かなきゃ」  驚いた様子の仙道に背を向け、白くなった歩道に駆け出した。ほとんど全速力に近いスピードで走る。たまに滑って転びかける。それでも一心不乱に足を動かした。肺が軋んで痛い。肌も痛い。頭も痛い。けれど、心が一番痛い。  自分の汚さは知っているつもりだった。だけどまだ、気づいていない醜悪さを孕んでいたらしい。行き場のない悲しみを理不尽に仙道へ向け、自分のためにオミを探している。奏多が死んだというのに、どこまでも自分のことばかり考えている。ああ、やはりこんな自分が大嫌いだ。  仙道の言う駅裏は、スタジオがある駅の裏側のことだ。商業ビルが多い表側と違い、そちらは居酒屋やキャバクラなど大人の世界が立ち並んでいる。高校生の身では入りづらい場所だけれど、今はそうも言っていられない。  いざと意気込んで進み入ったそこに想像していた騒々しさはなく、今日が大晦日であることを思い出した。居酒屋の大半は閉まっている。灯りの少ない駅裏はどこか薄気味悪い。足早に進んでしまいたいところだけど、人探しにそれは向かない。ゆっくり歩き、すれ違う人々の顔を確認していった。  ──オミ。オミ。  心の中で呼び続け、ひたすら歩いた。なんだか自分はいつもオミを探している気がした。そばにいないとわかると、途方もない不安に襲われるのだ。きっともう、オミがいなくては生きていけないのだろう。  寒さで指先の感覚がなくなってきた頃、ついにその顔を見つけた。少なくなってきた人通りの中、隣にまったく知らない女性を連れている。  オミは無表情のまま頬だけを少し赤らめていて、飲酒後だと見てすぐにわかった。絡められた腕を振り解かず、ただひどくゆったりとした調子で歩いている。  ──その歩き方は、奏多のためのものだろう。  激情が迫り上がった。胸の深いところに刃物を突き立てられたようだ。今、自分は明確に傷ついた。溢れ出した血は真っ黒で、まるで自分が人間ではない別の生き物かのように思えた。こんなに強い怒りに塗れるのは生まれてはじめてだ。 「オミ!」  勢いよく肩を掴んだ。オミは振り向いて目を見開いた。隣の女性が小さな悲鳴を上げたけれど、構わずオミの腕を引っ張った。きつく手を握り、走る。  置いていった女性の声を無視して、周囲の視線も気にせず、ひたすら走って帰路を進んだ。オミはなにも言わない。ただ力を抜いて、優李に連れられるがままだ。まるで抜け殻を引っ張っているように重い。そこに命は宿っているのかと問いたくなった。  ──オミとシーレイをよろしくね。  奏多の言葉が頭の中をぐるぐる駆け回る。よろしくね、の意味を訊けないままだった。もう永遠にわからない。奏多の心のうちを知ることは、この先ずっと叶わないのだ。  走って、走って、走った。奏多と三人で並んで歩いた道を、二人だけで進む。  人通りがまったくない道に出た頃、足元が滑った。つんのめって堪えきれず、そのまま倒れ込む。雪が積もっているとはいえ、体重を受け止めてくれるほどの量ではない。コンクリートに鼻をぶつけ、あわや鼻血が出るかと思った。それでもオミの手は離さなかった。そのせいでオミも転んだようで、後ろで低い呻き声が聞こえる。 「……ごめん」  さすがに謝った。起き上がってオミを見ると、俯いたまま肩を震わせている。 「ご、ごめん、痛いよね。血とか出てない?」 「──血が」 「え?」  オミの声はあまりに小さくて聞き取れなかった。問い返すと、オミはぽつぽつとこぼすように呟く。 「血が出ればまだいいんだよ」  抑揚のない言い方だった。 「これだけ痛いんだっていうのが、目に見えるほうがいい。あいつも、どれだけつらかったのか、ちゃんと教えてくれたら……」  ハッとして息を呑んだ。  オミは自分を責めている。奏多の変化に気づけなかった自分を許せないでいる。  だけどそれは、どうしようもないだろう。自分たちにできたことなんて、きっと足しにはならないことばかりだ。それに、奏多は……。  どうしようもないことを言うオミに、優李はどうしようもない返事をした。 「見せたくなかったんだよ、奏多は」  奏多は自分がもうすぐ死ぬことに気づいていた。それをオミには絶対に悟らせたくなかったのだ。  毎日少しずつ削れていく命をただ見ることしかできないなんて、きっと死ぬよりつらい。だから奏多は自分の変化を隠し通した。……オミだけに。  ──僕らの場合、それが優李だった。  奇跡も、軌跡も、奏多は優李を犠牲にした。  奏多は優李だけに、終わっていく自分を知らせた。まったくひどい奴だ。優李がどんな気持ちになるかなんて考えもせず、言いたい放題言い散らかして死んでしまった。だけど許そう。あの日の会話は墓場まで持っていく。オミにも誰にも言わない。優李と奏多だけの秘密だ。あれは奏多が唯一見せた、弱さだったのだから。 「奏多は俺たちのために、なんでもないように振る舞ったんだよ。俺とオミがつらくないように、ちゃんと生きていけるように」  オミは焦点の合わない目で、ぼうっと優李を見つめる。 「……つらくないわけがない」 「そうだね。馬鹿だね、奏多は」 「俺、どうすればいい?」  またもどうしようもない質問をされ、少し考える。  どうすればいいのか。自分たちはこれから、奏多のいない世界をどう生きればいいのか。 「帰ろう。ご飯食べて、あったかくして寝よう。それで明日も音楽やろう。明後日も、ずっと」  そう言うと、オミの目は見開かれた。それから小さな声で、 「……死ぬわけには、いかないんだよな」  と、自分に問うように呟いた。その答えは自分できちんとわかっているようだったので、優李は肯定も否定もしなかった。  幼馴染が死んだ。恋人が死んだ。だからといって、自分も死ぬわけにはいかない。自分という人間は幼馴染や恋人だけに生かされているわけではないからだ。一番大切なものを失っても生きていくというのは、きっと想像以上にとてもつらい。何事もなく動いている世界を恨みたくなるときもあるだろう。だけど生きていく。奏多のため、なんてことは言わない。ただ自分たちは、自分たちのために生きる。  そんなふうに、今は嘘でも前を向かなければいけないときだ。そうでないと、自分たちは瞬く間に屍のようになってしまう。生きながら死んでしまう。それほど奏多の死は重くつらく、目を背けたい現実だった。 「……っく、う、あ」  オミは細切れに声を発しながら、ひたすら涙を流した。いつの間にかコンタクトが落ちて、瞳は黒くなっている。  道路に座り込んだまま泣きじゃくるオミを抱きしめた。濡れて震える肩にも体温はある。オミは生きているのだ。抜け殻なんかではない。  ──俺がずっと支えていく。  一人と一人にはさせない。二人で一緒に生きていく。そのためなら、恋心なんていくらでも捨ててやる。なによりもオミを優先し、オミを守り、オミのために生きると誓おう。それが優李にできる最大の恩返しと償いだ。  降り止まない雪がオミをこれ以上濡らさないように、強く抱きしめたまま年が明けた。長い夜が終わっていくのを、ひどく寒い世界の中でずっと眺めていた。 △第一章END▲

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