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第1話

 私の名前は太宰治。其れだけは覚えている。逆に云えば其れ以外の事を私は何も知らない。  自分が今迄過ごして来た時間を忘れても、生きていく上で必要な事は忘れて居ない。だから此処は病院であると分かる。  天井から床迄一面が真っ白、格子の嵌められた窓から射し込む光が時折濃い影を作り出す。  窓の外には桜の大樹。満開の白い桜の花弁が風が吹く度はらりはらりと雨の様に降り注ぐ。  今の季節は春なのだろうか。生憎と暦を確認する術は無く、此の白い部屋で何年も時が過ぎるのを見てきた。  何時の頃からだったか、部屋の隅に人影が見えるようになった。陰一つ創り出さない真っ白な部屋の中、際立つ真っ黒な人影。  子供だろうか、体躯は小柄だった。黒い帽子に黒い外套、明るい色の髪が波打つ。瞳は海の様に澄んだ蒼をしていて、其の二つの瞳が何時も私を見ていた。何も云わずに私だけを見詰め続けて居る。  軋む躰を無理に起こせば、彼が近寄り私の手を取る。握り返せない其の手からは僅かに温かさが伝わって来た。  何か伝えたい事が有るのか、彼の顔を見上げるが私は彼の事を知らない。  其の手の温かさだけは何処かで感じた事が有る様な気がした。其れが何時の事だったのか、もう私には思い出せない。  或る日、彼が私を抱き締めた。骨が軋む程迚も強い力で、温かかった。  彼は頻りに何かを話している様に口を動かすが、其の言葉が私の鼓膜を揺らす事は無い。彼は恐らく生きている人間では無いのだ。其れでも伝わる此の温かささは何故なのだろうか。  此の温かさですら実際には無いものなのかも知れない。錆びた記憶が彼に抱き締められると温かいという事を覚えて居ただけなのでは無いのだろうか。恐らく遠い昔に私は彼に会った事が有るのだろう。  彼の事を思い出す事が出来たのならば私は楽に為る事が出来るのだろうか。  白い世界に黒い彼、彼は私の頬に触れて寂しそうに笑う。  其の時、私の脳裏に何かが突然飛び込んで来た。  血、真っ赤な血。  私の両手は血で真っ赤に染まって居た。  ――命は保たないだろう、そう感じた『何時か』。  此の出血量は長く保たない。少しずつ失われて行く、其処に確かに存在して居た体温。  止血をしたくて、銃創を両手で抑える。白い包帯は赤黒く染まって居た。  私は彼を扶けたくて何度も声を掛けた。其れでも彼の生命は今目の前で喪われ様として居る。  顔を上げれば寝台に腰を下ろした彼が変わらず私を見て居た。  此の両手に広がる血は彼の物だ。私は――思い出した。 「私は君を愛していたのだね」  中也、私は間違いなく君の事を愛して居たんだ。漸く思い出した。中也、君の事を。  頬に温かい水が伝う。其れが敷布に落ちて楕円状の染みを作る。  中也、そう呼ぶと彼は嬉しそうに表情を綻ばせた。握られた手から伝わる体温が温かい。  何故ずっと忘れて居たのだろう。こんなにも、こんなにも君の事を愛して居たのに。  そして、そして――  此の血に塗れた両手。  あの日、あの時、君は私を護って撃たれた。  異能を発動出来なかったのは、君が私の手を離さなかったからだ。  此の両手に広がる赤い血は君の物。  私の目の前で君は其の命を散らせた。  ずっと死にたいと願って居たのは私の方だったのに。  ――私を残して、君は先に死んだ。  重なる唇、蒼い瞳が私を捉える。  ――ダ、ザ、イ。  君の唇がそう動いた様な気がした。  君を喪ってから私は生きては居なかった。然し死ぬ事も赦され無かった。  生きてさえ居れば、もう一度君に逢えると思って居たんだ。 「私も今行くよ」  君は私の事を迎えに来て呉れたのだね。  中也が差し出す手に自分の手を重ね、寝台から起き上がる。普段よりもずっと躰が軽い気がした。  白い桜の大樹が風で大きく揺れ、病室の中にに大量の桜の花弁が舞う。  敦は孫娘を連れて恩師の見舞いに来ていた。  もう遥か昔、恩師は恋人を目の前で亡くした事で心を壊して仕舞った。  此の白い病室に移されて何十年経ったのだろうか。  病室に残された、白い桜の花弁。部屋の主はもう其処には居ない。

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