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彼の前で涙を見せたのは、あの日が初めてだった。 泣き崩れるこの背中はいつものそれとは違い、さぞ弱々しく見えた事だろう。閉じた瞳からは、抑えきれない涙がぽたりぽたりと落ちて、膝に置いた手の甲から、ズボンや床に伝い落ちていく。 この姿を見て、彼は一体どう思っただろう。 何もかもが怖くなって、思わずその手を突き放したのに、それでも、その小さな手が悲しみを奪おうとするかの如く懸命に背中を擦るものだから、なんだか許されたような気がして、また涙が溢れていた。 思い返せば、いつだってその小さな手に支えられていたような気がする。けれど、それを認める事は、これからもこの先も、きっと出来やしないのだろう。 *** 東京のとある小さな町、その町にある都立咲蘭(さくらん)高校は、偏差値は高すぎず低すぎず、残念ながらこれといった特色もない、ごく普通の学校だ。 一つ特徴を挙げるとすれば、高台の丘の上にある事ぐらい。塗り直したばかりの白い壁の校舎は太陽に眩しく、丘の上からは小さな町が見渡せる。眺めが良く、学校へ向かう道中も、まるで森の如く木々に溢れており、朝なんかは清々しく気持ちが良い。ただ学校への道のりは、丘をぐるりと囲うように作られた坂道しかないので、登りは少々きついようだ。 丘の上には学校しかないので、坂を行く車も学校関係者の車しか通らない。生徒達は徒歩や自転車で通い、部活によってはトレーニングの一環として、早朝から坂道を駆け上がる生徒の姿もあった。 咲蘭高校の教師である久瀬ノ戸槙(くぜのとまき)は、自転車通勤で、毎朝自転車を押しながら坂を上がっていく。体力には自信がある方だが、年々、自転車を漕いで坂を上がるのが苦しくなってきた。そろそろ年齢という逆らえない壁が立ち始めているのか、いやそんな事はないと、毎朝葛藤しては、負け越す日々だ。 「槙ちゃん、おはよ!」 声を掛けられ振り返ると、女子生徒が元気に手を振っていた。 「おはよう、宮崎。転ぶなよ」 「はーい!」 彼女はすれ違いながら元気良く返事をして、坂道を駆けていく。その背を見送りながら、その元気を少しで良いから分けて欲しい、そう思わずにいられない。 槙は数学の教師で、今年、三十歳になる。 大きめな瞳に愛らしさを感じる整った顔立ち、背は百七十半ば位で、体格は華奢な方だ。さらりとした黒髪は爽やかで、好感が持てる。だが、年齢よりも幼く見える為、学校を訪れる外部の人間からは、未だに教育実習生と間違われる事もあるようで、それが悩みの種でもあるようだ。 人当たりが良く、生徒にもざっくばらんに接するからか、生徒にとっては友達みたいな先生のようで、大体の生徒は彼の事を「槙ちゃん」と、親しみを込めて呼んでいた。 実際よりも長く感じる坂を上がると、学校の校門が見えてくる。その両脇には桜の木が連なっており、散りかけた桜の花がヒラヒラと風に吹かれていた。今年の冬は長く、春先になっても寒気が残っていた為、新学期を迎えても桜はまだ咲いてくれていたようだ。 ハラハラと花びらが散る姿に、束の間、目が離せなくなる。それは、美しい春の姿に見惚れて、というのとは少し違った。 桜が美しくあればある程、槙にとってそれは悲しく映り、まるで槙を責め立てるように、あの日の記憶が色濃く蘇ってくる。 騒ぎ出す胸が苦しいが、でもそれも、槙が望んだ事だ。 落ち着かない心に導かれるように、槙は自然と胸元のネックレスに触れた。小さな球体のペンダントヘッドは、まるで夜空を閉じ込めたような色合いで、光の反射具合では、一番星のようにキラリと光る。 記憶の隅に、あの人と見た夜空が蘇り、その愛おしい姿は、すぐに冷たい川の流れに掻き消されていく。 どくどくと、鼓動が止まない。頭の上から過去が降り積もり、槙の喉をじわじわと締め上げるみたいだ。 「槙ちゃん、遅れるよ!」 「わ、」 その見えない枷に沈みかけた時、突然、凭れかかるように背中を両手で叩かれた。驚いて顔を上げると、そこには男子生徒がいて、ゼェハァと息を切らしながら、今度は膝に手をついてどうにか息を整えようとしているようだ。恐らく、全力で坂を駆け上がってきたのだろう。 生徒の姿に、どくどくと煩かった鼓動が幾分和らぎ、思考が徐々に現実へと引き戻されていく。 槙は、はっとして腕時計に視線を向けた。 「ヤバい!竹本も、ほら急げ!」 「もう無理、足上がんない…なんでうちには、エレベーターとかエスカレーターとかないわけ?せめて階段…あれ?階段と坂ってどっちがきつい?いや、もう坂じゃなければ何でも良いよ…」 「嘆くな嘆くな、うちの学校にそんな予算あるわけないだろ」 「なんで俺こんな学校に来ちゃったんだろ…」 「大丈夫だって!きっと卒業する頃には足腰強くなってるからさ!」 「何それ、全然励まされないんだけど…」 「はは、ほれ急ぐ急ぐ!」 「はーい」 生徒の背を押してやりながら、声を掛けて貰ってよかったと、槙は内心ほっとしていた。 少しして、校舎からチャイムの音が聞こえてくる。新学期から遅刻とはいただけない、槙は生徒の背中を押しながら慌てて駆け出した。 桜の木を通りすぎれば、胸の苦しさも徐々に癒え、朝の会議も無事に間に合った。今日もいつも通りの一日が始められそうだ。 *** 「えー、一限から数学ってあり得ないんですけどー」 「えー、元々決まってたからどうしようもないんですけどー」 生徒の嘆きを、少々大袈裟におうむ返しにして槙が言うと、教室は笑いに包まれた。 「まぁ、槙ちゃんならいっかな」 「お!良いねぇ、その意気よ」 「調子に乗んなし」 「乗らせて下さいよー、小テストやらせて下さいよー」 「えー!鬼ー!」 「いきなりかよ!」 「復習復習、ほら用紙回してー、みんなの大好きなテストだよー」 そう茶目っ気たっぷりに槙が言うと、教室内は途端にブーイングの嵐となったが、いざ号令を出せば、すぐに静かな三年二組の教室に戻っていく。槙の調子も、もう大分落ち着いたようだ。 カリカリとペンの走る音が聞こえる中、槙はちらと教室の一番奥、窓際の席へと目を向けた。そこに居る筈の生徒の姿がない。 あいつめ。 心の内で呟いて、槙は窓の向こうへ目を向けた。さてはどこかでサボっているなと、向けた視線が校庭を囲う桜の木に止まる。それはたまたまだったが、槙は僅かに胸を跳ねさせ、少しの間そこから視線を逸らせないまま、やがて生徒から声を掛けられると、はっとして桜から顔を背けた。

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