5 / 64

5

咲良(さくら)のアトリエは、(まき)が暮らす町から、電車で一本の距離にある。歩いても行ける距離なので、槙はよく自転車で通っていた。 時刻は夜の十時を少し回った頃、駅前の店はまだ煌々と明かりを灯しており、夜の町は賑やかだ。 飲み会の帰り、はたまた二軒目に向かうサラリーマン達を横切り、槙は表通りから一本裏手に入ったところにある、小さな洋食店へと向かった。ここは、織人(おりと)が働いている店だ。店名は、“クローバー”。明かりは落とされ、扉には“クローズ”の札があった。 「…遅かったか」 閉店は十時だが、店の片付けや明日の準備をしている為、いつもなら店の明かりはついていた。だが、極端に客が少ない日は閉店時間を早める時があり、もしかしたら、今日がそうだったのかもしれない。 槙は仕方ないと肩を落とし、自転車を押しながら表通りに戻った。 そういえばお腹空いたな、何か買って帰るかと、コンビニへ目を向けた所、聞き慣れた声が耳に届いた。 「行かねぇ、今日は気分じゃないから」 あ、と思って振り返る。スラリと背の高い男の背中に、一目で織人だと分かった。 「良いじゃん!お前いると女の子が喜ぶし!」 「面倒だからパス」 「えー、最近付き合い悪くない?さては彼女でも出来たか?」 「そうだよ」 その言葉に、思わず駆け寄った足を止めれば、人の気配に気づいたのか、タイミング良く織人が振り返った。 「え、」 そして、後ろに居た槙を目にすると、その綺麗な瞳を驚きに見開いた。その姿を槙は呆然と見つめていたが、すぐにはっとして、織人を囲んでる少年達に声を掛けた。彼らも槙の生徒だ。 「…コラ!未成年がこんな時間まで何やってんだ!」 「げ!槙ちゃん!」 固まる織人をよそに、織人に絡んでいた生徒達は、さっさと織人から手を放し、罰が悪そうな顔をする。見た目はチャラついていても、中身は普通の高校生だ。もしかしたら、槙への信頼が、彼らにそんな態度を取らせているのかもしれない。 「新学期始まったばっかで叱られたくないだろ?ほれ、今日のところは解散!」 「ちょ、急に先生面すんだもんなー」 「残念ながら、元から先生ですぅー」 「でも槙ちゃん、この前、学生に間違えられてたよな」 「あ、鈴木!お前そういう事言うなよ!傷つくだろ!」 「傷つくのかよ」 「当たり前だろ!プライドがズタズタよ」 「ははは!あったのかよ、プライド」 「お前ら失礼だな!ほら、もう良いから、帰れ帰れ」 「はーい」 「鈴木と福本は向こうだな、…都築(つづき)は俺と同じ方角か」 「うわ、織人、御愁傷様ー」 「またなー、織人、槙ちゃん」 手を振る二人にひらひらと手を振り返し、槙は、さて、と織人を見上げた。 「俺らも帰るぞ」 そう槙が歩き出そうとすると、織人は絵に描いたように焦りを見せ、槙の前に回り込んだ。 「い、今の嘘だから」 「ん?」 「あいつらと遊びに行くの怠くてついた、嘘だから」 視線を合わせ、織人が懸命な表情を浮かべて言う。織人が言いたいのは、彼女がいるという発言についてだろう。 そりゃ、彼女がいるのに、さすがにキスしないよな。と、どこかほっとしている自分に気づき、槙ははっとして首を振った。 いや、ほっとしてどうする。どの道、彼女が居ようがいまいが、あれは子犬にじゃれつかれただけだ。 そう自分に言い聞かせ、槙は織人の元へ歩み寄った。そう、あれはこいつの単なる気まぐれだ。好きだと言うのも、もはや本心かどうか分からない。 「…帰るぞ」 槙は織人に声を掛け歩き出した。何も言わなかったが、それでも大人しくついてくる織人にほっとする。 でも結局、何されても織人を突き放すどころか、放っておく事なんて出来ないのだと思う。教師と生徒以前に、織人は大事な弟のような存在で、この思いはきっと、この先も変わる事はないのだと。 槙は、そう強く自分に言い聞かせていた。 いつもより静かな織人を連れて歩いていると、コンビニの前で槙は足を止めた。夜ご飯を買おうとしていた事を思い出したからだ。 「あ、ちょっとコンビニ寄っていい?」 「何か買うの?」 「腹減ってさ、晩飯まだなんだよ」 「なら俺が作るよ」 「え?」 「あんたの家の冷蔵庫の中は把握してるから、材料はあると思う」 「え、いや、お前は家に帰るんだよ」 「どうせ家に帰っても誰もいないし」 「…いや、でもさ、」 「それに母さんも、あんたの家なら安心だって、いつも言ってるし」 「いや、そりゃ有難いんだけど…」 幼なじみで独身の教師の家だ、思春期の息子を預けても不安はないだろう。何より、昔から家族ぐるみの付き合いをしてきてるので、織人とは本当に身内のような関係だ。その為か、織人はよく槙の家を訪ねていた。 「…分かったよ」 「そんじゃ、早く帰ろ」 今度は意気揚々と先を行く織人に、槙は内心溜め息を吐いたが、それでもいつも通りの姿に安堵する。昼間のあれは、やはり事故だと思おうと、槙は後を追いかけた。

ともだちにシェアしよう!