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それから食事を終え、織人 が風呂から上がると、先程まで居間に居た筈の槙 の姿がなかった。
「…槙?」
タオルで髪を拭きながら、槙の部屋に目を向ける。ぴったりと閉まった襖の奥の静けさに、もう寝てしまったのかとも思ったが、織人と一緒に居て、槙が先に眠る事は今までなかった。その理由を、教師として監督する責任があるからと、槙は言っていたが、結局はまた子供扱いかと織人は腹を立てた記憶がある。
そしてその記憶は、直接繋がりのない記憶までも呼び起こした。
頭に過ったのは、いつかの泣き崩れた背中。それに今日は、いつもとは違う特別な日だ。そう思ってしまえば、織人の胸には不安が過り、織人は弾かれるように顔を上げると、急いで槙の部屋の襖を開けた。電気の消えた部屋の中、ベッドの上には、適当に丸められた布団だけがある。ふと風が通り、ベランダの戸が開いているのか、カーテンが揺れていた。
不意に、嫌な汗が流れた。
いつか触れた、槙の震える背中の感触が手に蘇るようで、織人はそれを掻き消すようにカーテンを引き、ベランダへと駆け込んだ。
「槙!」
「へ!?」
すっとんきょうな声が聞こえ、織人は固まった。ベランダには、ビール缶を片手に、手摺に寄りかかる槙がいた。
「あ、やべっ、えっとだな、」
ぱっちりと開いた目が、織人に見つかった事で更に見開き、戸惑い狼狽えている。
なんだよその、盗み酒がばれてどうしようって、絵に描いたような狼狽えっぷりは。
そう言ってやりたかったが、織人はその先を言葉にする力もなく、脱力してその場にしゃがみ込んでしまった。
髪を掻き上げ俯く織人をどう思ったのか、槙は焦った様子で織人の前にしゃがみ、その顔を覗き込んだ。
「いや、飲まないつもりだったんだよ?その、つい、」
そういう事じゃない。全くの見当違いの発言に、織人は言ってやりたい事が山ほどあったが、やはりそれは言葉にはならず、槙が言い終わらない内にその腕を引き寄せ抱きしめていた。
「は!?お、織人!」
「…心配させんなよ」
ぎゅっと抱きしめ、振り絞るように言えば、抵抗を見せた槙の腕が宙に浮いて止まった。
二階から飛び降りたくらいで、命を落とす事はないのかもしれない。打ち所が悪ければ分からないが、まだまだ動けるし、体力がある筈の三十路の男、きっと、ちょっと体を痛めるくらいで済むのではないだろうか。
そうは分かっていても、槙が|文人《ふみと》の元へいってしまうんじゃないかと、怯える自分がいる。
織人の脳裏にはりついて離れないのは、むせび泣く丸まった背中。あんなに頼もしく見上げていた背中が小さく丸まって、今にも消えてしまいそうで、織人はそれが怖くて仕方なかった。
あの時の言い様のない不安や恐怖は、いつだって織人の心にまとわりついている。
春は、だから嫌いだ。桜は、もっと嫌いだ。
騒ぐ心を落ち着けたくて、ぎゅっと槙の体を強く抱きしめれば、シャンプーの匂いに混じって槙の香りがした。槙がここにいるのだと実感する、それだけで、こんなにも安堵する。
その織人の思いは、槙にも伝わっているのかもしれない。槙は缶ビール片手にホールドアップした状態だったが、やがて手を下ろすと、風呂上がりの為か、まだ少し湿っている織人の背中にそっと触れ、その体を優しく抱きしめた。
「…俺は、いなくならないよ」
ぽんぽん、と、あやすように背中を叩かれ、織人はゆっくり体を離すと、槙の目をじっと見つめた。本当だろうか、織人がその気持ちを探ろうとしている事に気づいたのだろう、不躾な視線に、槙から苦笑いが零れた。
「本当だって。…桜がさ、綺麗だなって思って」
アパートの側にある桜の木は、もうすぐ全ての花を散らすだろう。織人はそれに目を向け、顔を顰めた。
「桜なんか早く散ればいいのに」
「そんな事言うなよ…あの人に会えたみたいで、嬉しいんだ」
槙は笑って言う、穏やかに、少しだけ泣き出しそうに。それが悔しくて、織人は立ち上がって槙の手を引くと、桜から隠すように部屋の中へ戻り、ベランダの戸を閉め、カーテンもきっちりと閉めた。
それから、槙を振り返った。
「なんかつまみ作る」
「え、いいよ」
それでも戸惑っている槙の肩を掴むと、居間に移動して、ローテーブルの前に座らせた。槙の定位置だ。
「良いから座って飲みな。風呂上がりで夜風に当たってたら風邪引くぞ」
「…はは、織人の方が先生みたいだな」
「じゃあ、お言葉に甘えちゃおっかな」と、軽やかに言うと、槙はいつもそうするようにテレビをつけた。すぐさまテレビの中には芸人が現れて、体を張ったギャグを披露している。それを見て、槙は可笑しそうに笑っていた。
その姿を見て、織人はようやくほっと息を吐くと、キッチンへ向かった。
田所文人の死から十二年、槙と織人の関係は変わらない。織人はその事が悔しくて仕方なかった。
こっちは生きて槙の隣にいるというのに、槙の心を独占する故人が、近くにいてもその心にすら入れない自分が、ただ悔しかった。
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