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そのアトリエには、絵の具の匂いが充満していた。換気の為にベランダの戸を開ければ、心地よい夜風が部屋に入り込み、絵の具の匂いを浚っていく。
「織人 はさ、槙 ちゃんの事どれだけ知ってる?」
咲良 は、アトリエの作業スペースで、床に座り込みながらキャンバスに向かい、絵の具に頬を汚す織人を見て尋ねた。
「…それって、死んだ奴の事について?」
「言い方」
「同じだろ、結局逃げて死んだんだ」
「…言い方」
咲良の言葉に珍しく怒気が含まれている気がして、織人は筆を動かしていた手を止めた。
「…なに、それがなんだよ」
それでも、織人は謝りはしない。ふて腐れた様子で聞き返す織人に、咲良は仕方なさそうに息を吐くと、織人の傍らに腰を下ろした。織人は説教でもされるのかと、こっそり咲良の様子を窺ったが、その表情は穏やかなものだった。
「…まぁ、先生が何を考えてたなんか分かんないよ。でもさ、逃げて死ぬような人じゃないんだ」
先生とは、槙の思い人である文人 の事だ。今まで聞くのを恐れていた話に、織人は戸惑って顔を上げた。
「俺の担任でもあったからな。まぁ、付き合ってるって聞いた時は、さすがにマジかって驚いたけど。カズなんかは冷静だったな」
のんびり話し始めた咲良に、織人は眉を顰めた。
「…付き合ってたって言っても、向こうは遊び半分なんだろ、どうせ」
「そうでもなかったんじゃないかな…じゃなきゃ、槙ちゃんがあんな風にはならないよ」
その言葉に、織人は反論しかけた口を言葉なく閉じた。
文人には家族がいたし、二人の関係が始まったのも、きっと文人の方から槙に言い寄ったのだろう。遊びで生徒をたぶらかした酷い奴、織人は文人の事をそう思ってきた。けれど、咲良の言葉に何も言い返せなくなってしまうのは、それが織人の都合の良い想像でしかない事が分かっているからだ。
織人だって、槙をずっと見てきた。だから、どうしたって分かってしまう。槙が本当に文人を思っていた事、一方的ではない思いがそこにはきっとあった事。今だって、槙は文人を一番に思っている、彼のせいでどんなに傷つけられたとしても、槙は文人を責めたりはしない。いい加減に愛情を弄ぶだけの男に、槙がそこまで思いを寄せるとは思えない、そう思えば、槙を通して文人という人物が見えてくるようで、織人はどうしても苛立ちが抑えられなくなる。
綺麗な思い出ばかりを残した文人が憎くて、死んでからも文人を守る槙にだって腹が立つ。
自分では、どうしたってその隙間にすら入る事すら出来ないと思い知らされるようで悔しくなる。
織人は俯いたまま、ぎゅっと拳を握った。咲良はその拳を見て、僅か視線を揺らしたが、それでも顔を上げて言葉を続けた。
「…きっと、大事にしてたんだと思う、先生もさ。不登校してた槙ちゃんを変えたのも、先生だったしさ」
「そんなの…」
織人は言いかけて、また言葉に詰まり顔を俯けた。
ずっと側に居ても、当時の織人は幼く、過去の槙の事については、覚えていない事も分からない事も多い。それでも、槙と文人の事について、誰かに聞こうとはしなかった。何も知ろうとしなかったのは、自分じゃ役不足だと気づいてしまいそうで、それが怖かった。
織人の様子に、咲良は後ろ手についていた体を起こすと、少し気まずそうに眉を下げた。
「知らないよな、こういう話」
「…教えてくれないから」
悔し紛れに返答すれば、咲良はそんな織人はの気持ちに気づいているのか、困ったように頬を緩めた。
「槙ちゃんは話したくないだろうな…俺達も、槙ちゃんが話さないならって思って、織人には話さなかったから」
簡単に話せる話ではないだろう。織人はどうしたって子供だったし、槙と文人の関係は、男同士で教師と生徒、そればかりか、文人には家族がいる。
それに、槙のせいで文人は死を選んだと噂されていた。槙がヤクザの血縁だからと、何がどうこじれて伝わったのかは分からないが、そのヤクザに脅され、文人は川に身を投げたんだと。
たが、その噂が本当だったとしても、結局は文人は槙を置いて自分勝手に逃げただけなんじゃないか、織人はそうとしか思えず、再びぎゅっと拳を握った。
そう思えば槙が不憫でしかならず、文人への苛立ちが込み上げてくる。
「でも、織人にもやっぱり知っていて欲しいっていうか、話しても良いんじゃないかって思ってさ、槙ちゃんの為にも」
「…俺なんか、知ったところで何の役にも立たないんじゃねぇの」
織人はもう、悔しさと苛立ちが、腹の底から胸へと這い出して息が詰まりそうだった。そんな感情を咲良の前で吐き出す事も悔しくて、織人はせめてもの抵抗で、ふいっと顔を背けて言えば、咲良は目を丸くして、それから、ふはっと吹き出して笑った。
「な、なんだよ!」
「はは、ううん。槙ちゃんは、そんな風に思ってないと思うよ。織人はちゃんと支えになってたよ」
人を笑ったかと思えば、今度は当然の事のように言う。織人は思わず聞き返したくなったが、穏やかに表情を緩める咲良を見たら、なんだかそれも恥ずかしくて、代わりに話を促す事にした。
「…どんな奴だったの」
今なら、聞けそうな気がした。悔しいけど、咲良は槙が信頼を寄せている人物で、織人からしたら、槙の支えになっていた人。その咲良が自分を肯定してくれた、そう思えば、体中に渦巻くネガティブな感情が、不思議と体の底に落ち着いて、まるで背中を押されたような気がして。
悔しいのだけれど、自分が、無意味な存在ではないと思わされてしまった。
もし、そうなら。咲良が言うように、自分が槙の支えになれていたのなら、今度は逃げずに知りたいと思えた。
槙がずっと心を寄せている男の話、槙の過去の話。聞くのは怖いけど、もし知れたら、何も知らない今よりも、少しは槙の役に立てるだろうか。
願いを込めて織人が顔を上げれば、咲良はそっと柔らかに目を細め、ふと揺れるカーテンに目を向けた。
「ちょっと抜けた奴だったなー、」
そう昔を懐かしんで咲良が口を開いた時だ、ガチャッと玄関のドアが開く音が聞こえた。直後、「おいおい、鍵くらいかけときなよー」と、呆れた声が聞こえる。黙って声のする方に視線を向けていれば、ひょっこり顔を出したのは、|恋矢《れんや》だった。
「お疲れー…」
と、恋矢は掛けた声を止め、パチパチと目を瞬いた。
「あら、なんかいつもと雰囲気違くない?あなた達、仲良くなったの?」
「仲良くねぇよ」
「仲良くしたいけどね、俺は」
「懐くには長い道のりよ、これは。なんたって噛みつくからね」
よしよしと、恋矢に頭をわしゃわしゃと撫でられ、織人は噛みつく勢いでその手を払った。
「仮にも教師が、生徒を動物扱いすんなよ!」
「ただの比喩でしょ、先生扱いされて光栄」
「仮にだろ」
「お前は本当にツンツンして…そんなんだから、槙ちゃんにいつまでも子供扱いされんのよ」
恋矢の言葉に、織人はムッとして唇を尖らせた。やっぱり、さっきの咲良の言葉はまやかしだったのではと、織人はこっそり落ち込んだ。
「ほら、拗ねない。カズもいじめてやんなよ」
「うっせ!」
フォローになっているようでなっていない咲良の言葉に、結局噛みつく織人。咲良は何故だとばかりに織人を見て、恋矢はそんな二人の様子に、ケラケラと笑っている。
「はい、差し入れ持ってきた。で、何の話してたの?」
「先生の話」
咲良が言うと、恋矢は僅かに目を瞪り、そういう事かと納得したようだ。咲良を毛嫌いする織人が咲良と向かい合っているなんて、槙が関わる事でなければ、そうそう有り得ない。
「そっか、織人は先生の事知らないもんな…
あの頃の槙ちゃんは、見れたもんじゃなかったからね」
恋矢はキッチンに回ると、差し入れの入ったコンビニ袋を脇に置いて、「ちょっと休憩しようか」と、二人に呼び掛けた。
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