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帰り道の途中でスーパーに寄って、傘を一本購入した。織人は不満そうにしていたが、お互い濡れるよりは良いと押し切った。帰り道、二人に距離は出来てしまったが、それでも昨日までの事を思えば、これくらい距離が出来た内に入らないだろうとも思う。
いつもは冷たい空気に満ちた槙の部屋も、織人がいるだけで温かく感じられる。
「思ったより綺麗だな」
織人は槙の部屋を見渡し、安堵した様子だ。槙は気を抜くと、つい部屋をごみ溜めにしがちなのだが、最近は忙しくしていたせいか、ゴミを増やす間もない状態だった。部屋にはほとんど寝に帰るだけで、溜まっているのは洗濯物くらいだ。
織人は慣れた様子で、槙が風呂に入ってる間に洗濯機を回し、それに加えて料理も作ってくれる。出来た男だと、槙は感心しか出てこない。
更には、「ちゃんと乾かしなよ」と、料理に目を輝かせる槙の髪をタオルで拭く始末。本当に、これではどちらが年上か分からない。
長い指先が丁寧に頭を拭いていく。もっと雑で良いのにと槙は思うが、そんな所にまで愛情を感じてしまう、その憎さ。
「ありがとう」と言えば、「俺がしたかったから」と、素っ気ない返事は相変わらずだ。だが、久しぶりにここに織人がいる、そう思えば、なんだか朝までぐっすりと眠れてしまいそうな気がした。
「……」
「何?」
はっとした様子の槙に気づいてか、織人が髪を拭く手を止め、不思議そうに顔を覗き込んだ。織人の瞳は曇りなく、真っ直ぐと槙を見つめるので、槙は思わずたじろいで、誤魔化すように笑って視線を逸らした。
「腹減ったな!ほら、食べよう、冷めちゃうよ」
「…あぁ」
頷く織人は、どこか腑に落ちない表情を浮かべていたが、「ほら、座って」と、織人を対面に座らせると、槙は織人の手料理を頬張った。
織人の瞳に、自分はどんな風に映っただろう。
引き寄せられる瞳に、心の奥底まで見透かされそうで怖かった。
だってもう、気づいてしまった、自分の気持ちに嘘がつけない事に。いくら否定しても、考え直しても、どうしても心にから織人への思いが追い払えない、見ない振りが出来ないでいる。
幼馴染みで、弟のようで、生徒で、そのどれでもない気持ちがここにある。認めてはいけない気持ちが、手から決して溢れてしまわないように、槙はそれだけはしてはいけないと自分を律し、食事に意識を集中させたが、美味しい筈の織人の料理も、今日ばかりはその味を味わう事が出来なかった。
食事を終えて片付けを済ませると、槙は自室に戻り、家に持ち帰った仕事に集中した。織人は風呂を済ませて寝支度を整えたのか、開けていた襖から遠慮がちに顔を覗かせた。
「まだ仕事?」
「うん、でもすぐ終わるよ。織人はもう休みな」
きっと、無理なくにこやかに言えたのではないだろうか。織人は少しこちらの様子を窺うように見つめていたが、やがて「おやすみ」と、小さく言って、隣の部屋へと入って行った。隣の部屋の襖の閉まる音を聞き、槙は織人に気づかれないよう、そっと息を吐いた。
それから、仕事を終わらせると、槙も寝支度をしてベッドに潜り込んだ。静かな部屋の中、隣の部屋から衣擦れの音がして、槙はぼんやりと、隣の部屋へと繋がる壁を見つめた。
それぞれの部屋で、それぞれの布団に入っても、この壁の向こうに織人がいると思えば、安心してしまう。
織人を心の拠り所にしてしまってる、もう言い訳すら出来ないのだと改めて思えば、それがまた槙の胸を苦しめて、それなのに、やはりこの思いを手放せそうもない。
先生、と心の中で呟いたが、縋る指は一体何を求めているんだろう。
安堵と恐怖が同時に押し寄せて、槙はただその体を掻き抱いて、きつく瞼を閉じるしかなかった。
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