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翌朝、まだ寝ぼけ眼な目を擦りカーテンを引けば、朝日の眩しさに槙 は咄嗟に目を閉じた。
聞こえるのは、鳥の囀ずる声と、下の階に住む赤ん坊の声だ。今日は朝からご機嫌なようで、きゃっきゃっと可愛らしい声が聞こえてくる。つられるように表情を緩め、襖を開けて自室を出ると、シンと静かな部屋の様子に、織人 がもう家を出たのだと知った。先程まで感じていた穏やかな気持ちが、急に萎んでいくようで。隣近所の賑やかな声が、一人の朝を少しだけ寂しくさせた。
織人が朝早く自宅に帰るのは、母親と会う為だ。織人の母親は日中も夜中まで働いているので、休日以外は、朝くらいしか顔を合わせる機会が無いという。
織人もバイト漬けの日々なので、少しは金銭面の余裕は出来そうだが、それでも何かとお金はかかるものだ。予期せぬ出費もあるだろうし、幼なじみで兄弟のように接していたって、織人の家の事情まで踏み込んで聞けない。
織人は、自分がまだ学生だから、母に負担をかけていると思っているようで、せめて自分に出来る事をと、家の管理や節約を怠る事はなかったし、唯一、母親と顔を合わせられる朝は、必ず家に帰っていた。
それは強制ではなく、織人自身が決めた事だ。
槙は、のんびり身支度を進めながら、テーブルの上にあるメモに目を止めた。そこには、“朝ご飯 冷蔵庫”とだけ書かれており、槙が冷蔵庫を覗くと、ラップがかけられたお皿があった。朝起きて作っていたのか、それとも昨夜の内に準備していたのか。
自分だって、疲れてるだろうに。
織人の愛情に触れた気がして、槙は冷蔵庫のドアを閉めると、その場にしゃがみ込んだ。
いつだったか、町で偶然、織人の母親に会って言われた事がある。
織人の母親には、槙も昔から世話になっている。一時は、悲しみに暮れる槙の面倒を見てくれたし、文人 の死によりマスコミから逃れる為、織人達には親子揃って面倒を掛けた。槙には見えないところで苦労を負わせたかもしれない、それでも織人の母親は、いつだって朗らかに槙に笑いかけてくれる。
そして、織人が槙に熱心だったのも、彼女は見抜いていたようだ。
「ごめんね、槙君には迷惑かもしれないけど、もし良かったら、また織人を遊びに行かせてあげて」
織人がよく槙の家に来ている事は、織人の母親も知っている。それに対して、槙は申し訳ない気持ちになった。織人は槙の家に来る度に家事をやっていて、最早それが目的のようになっている。大事な若者の時間をこんな事に使わせているなんて、教師として、大人としてどうなのか。良い事ではないのは明白で、槙はそれを
許している自分が情けなく、小さくなるばかりだ。
「俺、昔から助けられてばかりで…、今だって、織人に迷惑かけちゃってるし、織人も仕方なく世話を焼いてくれてるっていうか…すみません、こんな事させてる場合じゃないのに」
自分を構うくらいなら、もっと有意義に時間を使うべきだ。今の織人の状態を許しているのは、織人の母親の優しさだろうと槙は思っていたが、そればかりではないようだった。
「そんな事ないよ。織人ね、槙君の側に居ることが、一番気持ちが安らぐみたい。あ、でも、邪魔なら追い出して良いからね!そこら辺は、厳しく言っちゃってちょうだい!あの子、下手すれば、槙君にべったりなんだから」
そう言って、彼女は茶目っ気たっぷりに肩を竦めた。その明るい姿に、槙は何度励まされたかしれない。
織人の母はおおらかで、人を上辺だけで判断しない人だと槙は思っている。だから、ヤクザの家に生まれた槙達親子も信じて、受け入れてくれた。
槙が、男性教師に恋をして、さらに彼を死なせてしまったという話を聞いても、蔑む事なく、全て知った上で助けてくれた。
「織人は母親に似たんだろうな…」
思い出から現実に戻り、冷蔵庫の前にしゃがみこんだまま、槙はポツリと呟く。優しい人達だ、いくらでも幸せになって良い人達だ。そう思えば、この胸に灯る思いの行く先に、やはり織人をこの場所に留めておいてはいけないと、突き放さなくてはいけないと。それが辛くても、織人の為なんだと。
織人達の優しさに、自分がこれ以上、甘えて良い筈がない。
気づいてはいけなかった。織人がいくら思ってくれても、受け入れてはいけない、それが、自分が罰を背負うという事だと、槙は分かっていながらも、暫くその場から動く事が出来なかった。
その後は慌てて家を出る準備をして、憂鬱な気分を引き摺りながら、槙は学校に向かった。駐輪場に自転車を停めていると、恋矢 が血相を変えて駆けてきた。
「槙ちゃん、大丈夫だった!?」
「え、何?なんで?」
挨拶もなく、開口一番「大丈夫か」とは、一体何事だろう。槙が恋矢の様子に戸惑っていると、恋矢は頭を抱えつつも、槙の手を引いた。
「いいからこっち来て!」
「は?ちょっと!」
恋矢は焦った様子で、そのまま早足で歩き出した。まるで生徒達の目から避けるように、校舎裏にやって来ると、槙にスマホの画面を突き付けた。
「見てこれ、ヤバい事になってるぞ!」
その画面を見て、いつも飄々としている恋矢が何故そんなに焦っているのか、槙はようやく理解した。
ひゅ、と息を呑み込む。心臓が途端に嫌な音を叩いて揺れた。
「…な、なんで、」
スマホの画面には、槙と文人の騒動と、槙の亡き祖父がヤクザをしていた事についての書き込み、そして、少し遠目からの写真だが、槙と織人が寄り添うように歩いてる写真が添付されていた。
呆然とする槙に、恋矢はスマホの画面を伏せ、やるせなく溜め息を吐いた。
「うちの学校の裏サイトだよ。夜の内に書き込まれてたみたいで、生徒達の間でもう拡散されてるらしい」
「そ、そんなの俺知らない!なんで、だって昨日まで何も無かったのに、」
槙は困惑しきって、自分でも何を言っているのか分からなかった。何か否定しなきゃ、違うと言わなきゃ、でも、何を、どうやって。
「落ち着け、槙!」
ぐっと肩を掴まれ、はっとして顔を上げる。普段は冷静な恋矢も、この時ばかりは困惑しているのが分かる、恋矢の感情が鏡合わせのように伝わってきて、槙は必死に自分を落ち着かせた。
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