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*** もうすぐ夏休みが終わる、ひぐらしが鳴き声を上げ始めたが、残暑の厳しい東京の空、夏はまだ終わりそうもない。 (まき)は、次の職探しについても頭を悩ませていた。また過去について噂されるのでは、という恐怖が勝り、どうしても二の足を踏んでしまう。だが、実家暮らしとなっても家にはお金を入れなくてはならないし、いつまでもふらふらしていられない。 今までは、何かしていないと文人(ふみと)の事を考えてしまうから、常に忙しく仕事をしていた。 いくら許されたとしても、背中を押されたとしても、簡単に気持ちを切り替えるなんて出来ないし、それは自分が許せない。 そんな気持ちが、槙を更に踏み止どまらせていた。 「アトリエ、好きに使っていいよ。たまに換気に来てくれたら助かる」 槙は落ち込むと、つい咲良(さくら)のアトリエに足を向けてしまう。 槙が咲良のアトリエを訪ねると、咲良は旅支度をしている所だった。少し大きめなリュックに、使い古された革のトランク。広げられたトランクには画材が入っていて、絵の具がトランクの内側を色とりどりに染めていた。 今はひと息ついて、キッチンのカウンターで珈琲をいただいている。 「また海外?」 「うんにゃ、国内。急遽依頼が入ってさ、でっかいの描いてくるよ、ひと月くらいで戻るから」 「分かった」 素直に頷く槙に、咲良は少し眉を下げた。 「もし何かあったらいつでも連絡してよ、日本ならすぐに飛んでこれるからさ」 「はは、日本っていっても広いでしょ」 「いやいや俺にかかれば…、あ、でも槙ちゃんには頼れるナイトがいるか」 茶化すように言う咲良に、槙は緩めた頬を僅か強張らせ、ぎこちなく視線を逸らし笑った。 「…そういうんじゃないから」 織人(おりと)とは、クローバーで話し合いをした日以降、会っていない、会わないようにしていた。自分が教師を辞めてすぐに織人に会ってるなんて、そんな所を見られたら、また要らぬ憶測を呼ぶかもしれない、そう思ったからだ。 それに、ちょっと怖かった。織人の前に立つ事が。 そんな槙の様子を察してか、咲良は明るく声を掛けた。 「ま、一人でぼんやりしたい時でもいいし、住んでもいいし、今まで通り好きに使って。俺もふらっと帰ってくるかもだし」 「うん…咲良君は凄いよな、一人でちゃんと、自分の事決めて」 「何だよ急に」と笑う咲良に、槙はカップを軽く揺らした。珈琲の水面が緩やかに揺れる。 「若い時から、やりたい事決まってたじゃん」 「んー、俺はたまたま若い内に好きなもんに出会えたからなー。でも大半は、社会に出てからじゃないの?自分の好きな仕事するとかはさ。歳取ってから本当にやりたい事を見つけたって人だっているし、それに比べたら、うちらまだ三十代よ、若い若い」 「…はは、そっかな」 「あ、特にやりたい仕事もないなら、俺の助手でもする?」 「え?」 思わぬ提案に、槙はきょとんと顔を上げた。咲良は自分で言い出してから、「あ、それだ、それ良いじゃん!」と、自分の出した提案に瞳を輝かせた。 「助手って言ったって、絵を描けって訳じゃないし、連絡とか宿の手配とか、俺の話し相手とか」 「…それ、本気で言ってる?」 槙が半信半疑で眉を寄せると、咲良はカラッと笑った。 「疑うなよ、二人で旅行するのも悪く…あ、織人が嫉妬するか」 それには、槙は何とも答えられず苦笑いを浮かべたが、咲良は気にした様子もなく話を続けた。 「まぁ、仕事だと言えばあいつも黙るだろ。俺だって、給料出せる位は稼いでるからさ。だから、ちょっと本気で考えてみてよ、そういう気楽な仕事もたまには良いだろ?途中で何かやりたい事見つけたら、そん時はやめて良いからさ」 「そんな中途半端な…」 槙が呆れ顔で言うと、咲良は「そうかな」と首を傾げた。 「自分の心に従った方が良いだろ、だって自分の人生なんだから」 咲良は何でもない事のよう言い、ぽんと槙の頭を撫でた。 「ちょっと休んだって良いと思うし、何かしないとって思うなら、俺が雇うし。誰かに甘えて寄りかかったっていいよ、俺は友達としてそう思ってる」 「…うん、ありがとう」 槙はそう笑ったが、咲良に取り繕った顔は通じないようだった。咲良は眉を寄せ、どこか不安そうに槙を見つめた。 「…教師になったのだって、先生を思ってだろ?」 既に知られている事でも、槙は頷く事が出来ず、曖昧に笑って視線を落とした。珈琲の水面に、文人の影が見えた気がした。 「カズともよく話してた。いつだって槙ちゃんは、自分を罰して人生選んでんだろうなって。先生は戻らないし、最後は家族の元に戻ろうとしてたってさ、槙ちゃんと先生の間にあったものが良いものだったとは言い切れないだろうし…。でも、ペンダントが原因だとしてもさ、それ、先生は槙ちゃんに返そうと思ったから川に入ったわけだろ。先生は槙ちゃんの思いも、ちゃんと切り離すつもりだったんじゃん。ここまで思い詰めてほしいなんて、きっと思ってないよ」 そんな事、分かってる。 でも、そんな簡単な事じゃないんだ。 槙は心の中で呟き、カップを握る手に力を込めた。 「もう、過去に頼るなよ」 そっと置かれた咲良の言葉に、槙は一瞬固まり、次いでどっと心臓が震えた感覚を覚えた。まるで、心の内を読まれたかのようだった、槙も気づかなかった心の奥底に沈めた気持ち、いや、もしかしたら心を覆い尽くすように貼りついて見えなくなっていたのかもしれない。そんな、自分でも把握していない気持ちが言い当てられた気がして、槙は呆然と顔を上げた。 咲良は、怒っているような、泣いているような顔をしていて、槙は戸惑い瞳を揺らした。

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