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*** とはいえ、(まき)の生活が劇的に変わる訳ではない。 織人(おりと)は、いつか自分の店を持つ為に修行を頑張っている最中だし、咲良(さくら)も暫くは日本に拠点を置くようで、アトリエを他の町に移し、変わらず絵を描いている。恋矢(れんや)龍貴(たつき)も早速新しいアトリエにやって来て、好き勝手に過ごしている。彼らとの関係は、これからも変わる事はないだろう。 槙も、咲良のマネージャーを続けている。変わった事といえば、織人と暮らす事になった事や、いつでも織人のサポートが出来るよう、一から料理の練習を始めた事くらい。元々、レストランや料理の情報は集めていたので、そちらの方も引き続き熱心に取り組んでいた。 槙と織人は、新たな生活の為、新しく部屋を借りる事にした。場所は、アトリエと織人の店とも通いやすい場所に決めた。変わらず安いアパートだったが、織人との二人暮らしに、困る事はない。 数年前の自分は思いもしないだろう、織人と身を寄せ合って、将来どんな店を作ろうかと夢を膨らませているなんて。 そんな自分を許す事が出来たのは、織人のおかげだ。 ローテーブルを囲んでの夕飯は、槙が作ったハンバーグだ。気合いを入れて作ったは良いが、残念ながら裏側は丸焦げである。 「…ごめんな、」 「…まぁ、あれだけ何も出来なかったのに、ここまで出来たら上出来じゃない?」 仕方なさそうに笑う織人に、槙の胸が高鳴って、「なんだよ織人のくせに」と、照れくささから思わず憎まれ口を叩いたが、隠しきれない頬の緩みは、織人にも気づかれているだろう。 「咲良も苦労したんだな…」 「ん?」 「なんも。そういや、クローバーの店長が、帰って来てるなら顔見せろって」 「そういや全然行ってないもんな…咲良君にも声掛けとく。店長は元気そう?」 「あぁ、娘婿が跡継いでくれるらしくて、元気にしごいてた」 「はは、クローバーの名物復活だな」 店長と織人の言い合う様は、クローバーの常連には最早名物だった。それを思い出して槙は笑ったが、織人は苦い顔を浮かべている。 「あんたらは良いけど、俺は気の毒だよ」 「何、一丁前な事言っちゃって!」 槙が笑えば、織人は不満顔で唇を尖らせたが、槙はそれには構わず、焦げたハンバーグに箸を入れた。 「でも嬉しいよな、何年も行ってないのに覚えてくれてるの。俺達もさ、作るなら、そういう店にしたいよな」 固いハンバーグに苦戦しつつも、槙は上機嫌に言う。今は、槙の未来に当たり前に織人がいる。織人の夢は、槙の夢になった。織人はそれを実感したのか、今度は機嫌良く頷いた。 「あ、もし店が持てたら、初日は、身内集めてパーティーしようよ」 槙は目を輝かせて提案したが、ようやく切れたハンバーグを口に含み、顔を顰めた。 「苦っ…」 「身内?」 「そう。お互い親は母親一人だろ?あと、龍貴と」 「カズと咲良?」 「だね。あと…出来れば先生のご家族とか」 それには、織人は目を瞪った。先生とは、文人の事だ。 「連絡取ってんの?」 「うん、ひなちゃんとは。これも贅沢な縁だよな…こんなの、良いのかなって思うけど」 槙が苦笑えば、織人は視線を皿に移して、それからぶっきらぼうに呟いた。 「…“先生”が、会わせてくれたんじゃない?」 ハンバーグと格闘しながら、織人は素知らぬ顔を決め込むようだ。槙は、織人のぶっきらぼうな優しさに胸が温かくなって、はにかむように笑った。 「…織人は優しいよな」 「あんた限定ね」 「はは、照れますなー」 「調子に乗ってんな」 目が合えばお互い擽ったくて、笑い声が零れてしまう。 「織人は?誰呼ぶ?」 「俺は、母親とクローバーの店長や今の店の人達とか…演劇部と手芸部の奴ら」 「え?」 槙がきょとんとすれば、織人は少し困った顔をして頬を緩めた。 「あんたが学校に来れなくなってから、先生どうしてるって、ずっと心配してた。今もたまに連絡来る、あんたに会いたいんだってさ」 「…そうだったんだ」 謝罪も挨拶も出来ずに別れたのに、生徒達がまだそんな風に思ってくれてるとは思いもしなかった。 「クラスの奴らとかもそうだよ、卒業する前からだけど、卒業しても会う度にあんたの事よく話してる。あんた、良い先生だったんだな」 優しい顔で教えてくれる織人に、鼻の奥がつんとして、槙は涙の気配と共に苦いハンバーグを飲み込んだ。 「はは、さすが俺だなー」 そんな軽口、織人には通用しないだろう。「はいはい」と返す声が優しくて、槙は差し出されたティッシュを素直に受け取った。 「…ちゃんと、先生やれてたかな俺。良いのかな、皆に会っても」 「じゃなきゃ、会いたいなんて思わないだろ」 さも当然だとでも言うような織人に、槙は勇気を貰って、笑って頷いた。 「へへ、そっか」 「そしたら、同窓会になるな」 「幹事はカズだね」 「うわ…とんでもない人数来そうだな」 辟易する織人に笑い、槙は涙を拭った。 どうしようもない、教師としても中途半端な自分なのに。 生徒達のお陰で、今、ようやく教師になれた気がする。 文人が見れなかった夢の先を紡ぐ為に教師になった、ずっと文人の影を追いかけていた。それでも、教師として過ごした日々は間違いじゃなかったと、生徒達が教えてくれるようで、槙は胸がいっぱいだった。 「皆、元気かな…」 「…早く祝って貰えるように、頑張るからさ」 「一緒にでしょ。俺を忘れんな」 槙は笑って、涙を拭いたティッシュを織人に投げた。それを受け取ってしまうと、織人は暫し手の中で弄んだ。 「…それに、俺達の事もな」 「ん?」 「俺はもう一度、あんたにプロポーズするから」 「…え?」 再びきょとんとする槙に、織人は真っ直ぐと告げる。 「だから、そん時までに覚悟しとけ。あんた、どうせ一年くらいは余裕で悩むだろ」 「…い、一年じゃきかないかも」 「その間も俺と居てくれんなら、それも良しとするよ」 そう男前に笑って、織人は槙の頬に伝った涙の跡を指で擦った。触れられた部分から熱を持つようで、槙は困って視線を泳がせてしまう。 「…本当、織人って物好きだよな。もっと考えた方が良いと思う」 「悪いな、一途なんだよ」 躊躇なく、織人はいつだって真っ直ぐに思いを伝えてくれる。それは、疑う余地もないくらい真っ直ぐで。 どうあったって、槙は織人の隣に居る以外の選択肢なんてないのに。 「…ありがとう」 「うん。そしたら、“先生”に報告だな」 「うん」 清々しく頷いた槙に、織人は意外そうに眉を上げた。 「随分素直だな」 「先生にはもうお前が宣言してたし、」 自分で言いながら、その光景を思い出してしまい、槙は赤くなった。織人はそれに気づいて面白そうに表情を緩めたので、槙はムッとしながらも、憎らしさなんてこれっぽっちも沸いてこない自分に気づき、力なく眉を下げた。 「それに、悩むよ。多分ずっと、これでいいのかって。でもその度…」 そこで言葉を切った槙を、織人はきょとんと見つめている。槙はそっと頬を緩めると、織人の手に視線を向け、その手を握った。槙の涙を吸い込んだ指先は、今日も優しい。 「俺は、織人が好きだよ」 「え?」 「…ちゃんと言ってなかったろ?」 照れくさくて、織人の手を弄びながら言えば、織人に体ごと引き寄せられ、その瞳に吸い込まれるように唇が重なった。 これからもきっと、悩んで迷って、自分を見失う事もあるかもしれない。でも、その度に織人を思う。 それだけで、ちゃんと生きていける。 壁に飾られたネモフィラの絵の隣には、夜空のペンダントが揺れている。 小さな夜空に、一番星が二人を見守るように煌めいていた。 了

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