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第50話
「死んだって聞いたわよ、坊や」
女はそう言うと心の唇にその赤い唇を付けた。軽く唇を吸うように口付けると、小さな音を立てて離れ女は微笑んだ。
他人のキスシーンをこんな間近で見ることなんて、映画スクリーンとか以外ではなかなかないなと思わず凝視してしまった千虎は、女の視線を感じて慌てて顔を背けた。
「残念、まだ死んでへんわ」
「そうみたいね?で、この可愛い坊やは?」
「あ?千虎」
女に微笑まれ鼓動が跳ね上がった。緊張とかそういう類のものではなく、これは恐怖だ。
射抜かれるとはこういう感覚かと千虎は思わず息を止めた。ぶわっと身体の毛穴が開く感じだ。じんわりと汗が出たのが分かる。
「あの、ゆ、ゆ、ゆ…千虎です」
フルネームを名乗るのを躊躇い、名前だけ言って頭を下げた。そして心の後ろに隠れるように下がった。
失礼とも取れるその行動に、女が眉を上げて笑った。
「おやおや、坊やとはタイプが違うんだねぇ?くれるのかい?」
「ええ!?なんで!?」
思いもよらない発言に思わず声を上げた。それにヤバイとハッとして、顔を顰めた。
「そんなに怖がるんじゃないよ。取って食いやしないよ。あたしはメーデイア。よろしくね、千虎」
メーデイアはそう名乗ると、白い手を差し出して来た。千虎はおずおずと心の後ろから出てくるとそれを手に取り、多分、合ってるよな?と口づけをしてみた。
「あら、本当にタイプが違うねぇ。おくれよ、この子。気に入ったわ」
「こいつはあかん。今、俺に捕まっとるだけで、本来は何も関係あらへん堅気の男や」
「そうなのか?残念だねぇ」
メーデイアはふふっと笑うと、モニターの前のソファに向かった。ひらっとドレスが揺れ、スリットから覗く艶めかしい白い足に目のやり場に困った。
「坊や、試合に出ていけばいいんだよ。最近はつまらないねぇ」
メーデイアがソファに腰掛けると、少年がすっとその隣に立った。まるでボディガードのようだ。
いや、華奢すぎてボディーガードと呼ぶには相応しくない。だとすると何だろう。首輪をしているし、それこそ犬か…。それも小型犬。
「今、試合に出たらすぐに殺されてまうわ。一応、怪我人やからな。今日は情報を貰いにきた」
「ふふふ、死ぬときは私の側で死んでおくれよ。お前の血を見れるなんて、最高じゃないか。それに…彪鷹も死にかけているらしいねぇ」
目を細めて心を見ると、心はそれを鼻で笑った。
「よぉ知っとるな。確かにそう…くたばりかけやな」
「風間もやられたそうだねぇ。表の世界は面白いことになってるじゃないの。でも、まさかあんたがやられるとはね。何かに現を抜かしてるんじゃないかい?」
「Thanatosの居場所を教えろ」
長話が好きではない心は、メーデイアの質問に答えることなくそう言い放った。メーデイアはせっかちだねぇと笑った。
「Thanatos…。日本に来てるらしいね」
「とぼけんな。知らへんとは言わせへんからな」
「それ、Thanatosにやられたのかい?」
メーデイアが長い指を心に向ける。心の胸元の包帯を指差しているのだ。
「あの一瞬で頸動脈を狙って一刀出来る奴なんか、まぁおらん。迷いも躊躇いも一切ない。周りの目も気にせずに俺を殺しに来た。あれが李王暁 、別名Thanatosやろ」
「何だいそれ、確証があるのかないのか…。で、逢って、どうしようって言うんだい?」
「やっぱり知ってんのか」
「さぁ、どうだろうねぇ」
メーデイアは意味有り気な笑みを浮かべると、隣に、それこそ人形のように立つ少年に手を差し出した。すると少年はすっとメーデイアの隣に腰掛けると、その膝に頭を置いた。
艶やかな髪が、音もなく流れるように落ちる。その髪を撫でながら、メーデイアは少年の頬にキスを落とした。
「Thanatosを殺すのかい?なら、ここで殺しておくれよ。そうすれば面白いショーになるだろ?」
「教える気はないってことか?」
「坊や、何かを乞うときは対価が必要だろ?それとも、あんたのペニスをくれてもいいんだよ?あたしの中にね」
妖艶な色香を醸し出し、飲み込まれそうな魅惑的な瞳を心に向ける様はまさに魔女だ。さすがメーデイアと名乗るだけあるなと千虎は息を飲んだ。
心は少し考えるような顔を見せたが、ふっと何かを思いついたように笑った。
「少しの時間なら、鷹千穗に逢わせてやってもええ」
「え…来てるのかい?どこだい?まさか、外にいるのかい?」
無意識にだろう崩れた表情に、初めてメーデイアの素を見たような気がした。心はそれにほくそ笑むと、首を振った。
「ここにはおらん。Thanatosの居場所が交換条件。死神に逢いたければ対価を払え、witch。時間はあらへんぞ。彪鷹が動き出したら、お前に鷹千穗を逢わせるはずがないからな」
「けち臭い男だよ。あんな宝石のような子を独り占めするなんてねぇ」
忌々しいと言わんばかりに顔を歪めて、また少年の髪を撫でる。見目麗しい子を愛でたいタイプの人間かと、それなら自分に弊害はないなと千虎は妙な安堵感を覚えた。
「どないする?」
「私がそんな好条件、飲まない訳がないだろ?いいさ、教えてやるよ」
メーデイアがそう言うと、今まで大人しく膝の上で髪を撫でられていた少年が急に起き上がった。そして心と千虎に頭を下げて、メーデイアが出て来た扉の中へと消えてしまった。
「坊や、Thanatosは神話通り非情の神だよ。油断すれば次は魂を持ってかれるよ」
メーデイアは赤い唇の両端を釣り上げて、淫靡に笑った。
不思議な空間だったなと、ポルシェのハンドルを握る千虎は少し前の時間を思い出していた。地下に蔓延る総合格闘技場。
メーデイアが言うには金を賭けてリング場で戦うらしく、生死に関しては一切の責任を負わない、ようは違法賭博場だ。
「あんな映画みたいなとこ、あるなんて。よく通る場所なのに…」
「メーデイアは地下のあちこちに巣穴がある奴やからな。あそこだけやのうて、あちこちにある」
「そうなの!?マジで映画じゃん。しかもすごい人だったよ。あれだけの人集めてって…」
「そりゃ、一攫千金も夢やないからな。俺はああいう趣味の悪いのは嫌いやけど、腕に覚えがある奴は手っ取り早く稼げるから人気ではあるわな」
益々、映画の世界じゃないかと千虎は思わず息を飲んだ。治安国家だと散々言われてきた国の地下で、まさかあんな違法賭博場が、それも命を賭けるようなものが存在するとは。
「でもさ、ああいうの、ほら、うちのシマで勝手に稼ぐなーみたいなのあるじゃん」
「メーデイアは魔女やぞ、手ぇ出せばこっちが潰れる。こっちの情報すら筒抜けやねんからな」
「そ、っか…。でもああいうのって、どうやって募集?するんだろうね。あれかSNSで隠語使ってとか!?」
「隠語?そんなんやあらへん。ダークウェブに載せてるサイトでしか開催場所は分からへんし、参加も出来ひん」
「え?」
「は?」
ダークウェブとは所謂、闇ウェブだ。専用の閲覧ソフトでしか中に入ることは出来ず、匿名性も高い。
特殊なサーバーを経由しているため発信元を特定することが難しく、そのため犯罪の温床でもある。違法薬物の売買はもちろんのこと、報復依頼サイトなるものまで存在する。
支払いは仮想通貨で行われることが多く、それがより匿名性を高くするのだ。
「え、ダークウェブって、あの映画のアンフレンデッドみたいなの?」
「続編の方か?観てへんし」
「え、でもさ、ダークウェブでしょ。闇ウェブってマジで存在するの?」
「覗いてみたいか?」
ニヤリと笑われ、ゾッとした。ダークウェブの基本。アクセスしない、買わない、書き込まないだ。
追跡不可能なサイトがある日突然、降って湧いて出てきたのではない。誰かの手によって作られたもので、そこに入り込めば中の人間に目をつけられることとなる。
興味はあるがそこまでの覚悟はない。
「いえ、遠慮します」
そもそもそんなサイトに参加者を募るような会場の主があれだ。帰りにチラッと覗いたフェンスで囲まれたリングでは、見るに耐えないような、顔の原型の留まっていない男達が一心不乱に殴り合っていた。
手っ取り早く稼げるかもしれないが、あれでは命がいくらあっても足りないだろう。
「でも、良かったんですか?」
「なにが」
「だって、鷹千穗くんに逢わすとか約束しちゃって…」
鷹千穗を気に入っている千虎からすると、メーデイアに逢わすのは正直反対だ。というか、怖い。
メーデイアが見せた一瞬の隙。鷹千穗にそれだけ入れあげているということだ。そんな執着のある人間に逢わすのは危険ではないだろうか。
「問題あらへん。あいつがやりたいことは、ただ鷹千穗を穴が開くほど見るだけ」
「見るだけ!?」
何それ、視姦!?それはそれで嫌だと勝手に思ってしまう。いや、恐らく鷹千穗はああなので、ずっと見られることくらい気にもしないだろう。
だが、あのメーデイアが穴があくほど鷹千穗を見る光景は、かなりシュールだ。
「えー、見るだけなの?本当?」
「無理に接触して嫌われたら死ぬほど辛いんやて。あほくせ」
「いや、ガチじゃん」
すごい惚れてるんじゃん。わかるけど、確かに鷹千穗は特別だけど…。
「あ、ってか鬼塚さんって英語話せるんだね。まさか帰国子女?」
「俺が?そんなわけあるか。話せるやろ、普通」
「は?」
「あ?」
極道で組長で年下で英語もぺらぺらで得手勝手で傲岸不遜な男って…。何それ。
千虎は何だか解せないと、家に着くまでの帰りの車内で終始、不貞腐れた顔をして心に鬱陶しがられた。
翌日、仕事に出た千虎と入れ違うようにして、インターフォンが鳴った。心はロフトからするっと降りると、玄関をじっと見た。
すると、ドアを一度だけ小さくノックするのが聞こえた。心はそれを聞いて不敵に笑った。
そして躊躇うことなく玄関に向かいドアを開けると、そこにはメーデイアの隣に人形のように立っていた少年が居た。
「太陽の似合わへん奴」
心の言葉に反応も見せずに、少年は封筒を差し出した。心がそれを受取ろうとすると、少年がぐっと力を入れた。
「あ?ああ、鷹千穗か。約束は守るって言っとけ」
少年は澱みのない大きな瞳で心を見つめると、ようやく手を離した。帰っていく少年の背を見つめながら、心は楽しそうに笑みを浮かべドアを閉めた。
寂れたホテルの一室。窓際に置かれた古びた一人掛け用のソファに腰かけ、缶ビールを口にするのは自称、佐野心を名乗るあの男だ。
この町はまるで宝石箱をひっくり返したように煌びやかで、そして人で溢れている。だが、目にする人は誰もが虚ろな目をしていて、疲れているように見えた。
都市は国土が狭いせいなのか高層ビルが犇めき合い、息苦しさも感じる。そのビルのせいで空も低く、汚れた空気は街を暗くしているように感じた。
「你在做什么?」
「…別に、外を眺めてるだけだよ」
何をしているのか中国語で問われたが、日本語で返した。顔に龍の入れ墨のある男ーThanatosこと王暁は、バスローブを羽織って男に近づくと窓から外を見下ろした。
「人が多いね。虫の行列に見える」
今度は日本語で、王暁が話した。
「……」
「怒ってるの?俺が一人で襲撃したこと」
顔を覗き込まれ、男は王暁の顔を押し返した。その掌をベロっと舐められ、男はギロっと王暁を睨んだ。
「来生から何かコンタクトがあれば言えって言ったろ?」
「うーん、だって…。殺る気、ないでしょ?オニヅカ」
「そういう決めつけはやめろ」
男は苛立ったように言うと缶ビールを一気に飲み、缶を潰して近くのゴミ箱に投げた。だがそのゴミ箱に嫌われた缶は、そのまま絨毯の上に音もなく転がった。
「お前…屋敷で男たちに逢ったろ?」
「逢ったよ。みーんな弱かった。日本人は所詮、あの程度なのかな。平和ボケしすぎじゃない?」
「見て、何か感じる奴は居なかったか?」
王暁は男の顔をじっと見て、ゆっくりと首を傾げた。
「什么意思?」
「どういう意味って…。お前の…お前に似た奴が居なかったか?」
男の言う意味が理解出来ないのか、王暁は眉間に皺を寄せて今度は反対側に首を傾げた。
「日本に来てナーバスになってない?日本での仕事は初めてだけど、ちょっと変だよ」
「いいからっ!似てる奴は居なかったか?」
王暁は肩を竦めると、とりあえず考えるように曖昧な記憶を思い出すように目を閉じた。
「えー、いなかったかなー」
「本当か?顔だぞ、顔。似てる、何て言うんだ、相似 」
「え、そっくりなの?何それ。うーん、どうだろう?居たかもしれないけど、あまり興味ないもん」
王暁は男が何を言いたいのか分からず、やっぱり変だよと言って部屋のベッドに転がると、そこに放り投げていた携帯ゲーム機を手にしてプレイを始めた。
男はそれを見て嘆息すると、また窓の外に目をやった。
するとテーブルに投げていたスマホが振動をした。すぐに止まったのを見るとメールだ。男はスマホを気怠げに手にすると、ロックを解除しメールを起動した。
ぼんやりとした目で見ていた男の顔がみるみる変わり、跳ね上がるように立ち上がった。
「どうしたの?また来生?それとも神童?」
王暁がゲーム機から目を離さずに聞いたが、男は返事をせずにスマホを弄り始めた。
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