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第4話

先ほどと同じように笹井のセリフが始まる。流れも同じだ。しかし、そこには小井出にしか出せない雰囲気があり、先ほどの鶴見役の演技とはまるで別物だ。英は圧倒されてしまった。さすが、演技力には定評がある小井出。可愛いだけが売りではなく、実力は本物だということだ。 (くそ……) 英はこぶしを握る。相手は台本を見ながらでさえ、飲まれそうな空間を作り出すことができるのだ。正直、かなり悔しい。 (……いや、そんな暇があったら、その差を埋める技術を盗め) そう思い直し、英は小井出の一挙一動を見逃すまいと見つめた。小井出が主役にされてしまったら、英の役はない。端役としても、出演は予定されていないのだ。せっかく掴んだチャンス、何がなんでもしがみつきたい。 その後、いくつかのシーンに動きを付け、それぞれを英と小井出で通し、今日の練習は終わった。 「これから一週間、動きを付けながら小井出と蒲公両方で見ていく。各自予定表を配るから、シーンごとに集まって稽古だ。以上、解散」 「ありがとうございました!」 月成の終了の合図とともに、キャストたちはそれぞれクールダウンしてから帰っていく。 英は笹井を自主練に誘ったが、バイトだと言われて断られてしまった。Aカンパニーに入れたとしても、収入は安定しないため、新人のうちはバイトをしている者も多い。 英は今日のバイトは休みだったので、一人で自主練することにする。 稽古場には英一人になり、それなら、とオーディオに一枚のCDを入れる。 5th seasonにいたころから毎日の習慣でやっている、柔軟体操を兼ねたダンスナンバーだ。これをやらないと、一日が終わった気がしなくて気持ちが悪い。 ゆっくりとしたテンポで流れ出した音楽に、最初は深呼吸から始まる。激しい動きはないが、体勢を持続させる筋力と呼吸が難しい振り付けで、最初は稽古の最後にやるのが相当しんどかった。 しかし、今は呼吸と同じで流れるように動くことができる。 時々鏡でチェックしながら、バレエの動き、ジャズの動きとダンスのジャンルによっても振り付けがなされていて、最後にまた深呼吸で終わる。 「初日から居残り練習かい? あんまり頑張ると、体力もたないよ?」 入口から声がして振り返ると、木村がいた。いつの間に来ていたのだろう、椅子に座っているところを見ると、少し前からいたようだ。 「お疲れ様です。すみません、気が付かなくて」 「いや、こちらこそ、邪魔して悪かったね」 木村の遠慮がちな態度に恐縮しつつ、もう終わりましたから、と告げると、彼は苦笑した。 「今日は遥が何かやらかしたみたいだね。新しい台本持ってきたよ、どうぞ」 「え? ……すみません! わざわざありがとうございます」 どこからか小井出のことを聞いたのだろう、英は差し出された台本を受け取る。 セリフは覚えたとはいえ、今後読み直して解釈を深めるのには必要だ。英は心からお礼を言った。 「光洋がいろいろ言ったみたいだけど、気にしちゃダメだよ。何千人と役者を見てきた私が英くんを推薦してるんだから、間違いはない」 「はぁ……」 月成のことも聞いたらしい。しかし、社長が自分を推薦しているなんてにわかには信じられなくて、あいまいな返事になってしまう。 木村が月成を呼び捨てで呼ぶのは、元雇い主であり、今も提携しているとはいえ、立場的に上だからだ。だが、それ以前に二人は友人だ、歳も同じらしい。 「英くんは、月成作品が嫌いになった?」 「いえ! とんでもない!」 木村の突然の質問に、英は弾かれたように答える。力が入った返答に、木村はくすくすと笑った。 今日は月成と小井出には嫌な思いをさせられたが、作品自体は大好きだ。せっかくのチャンスを諦めるわけにはいかない。 「ごめんごめん。やっぱり君は十年前から変わらないと思って」 柔らかな笑みを残した木村は、懐かしむように英を見つめる。 十年前。英が初めて演劇を見たのは、月成が主人公を演じる『美女や野獣』だった。客席でいつまでも出て行かない小学生がいると聞いて、撤収ができないとスタッフに泣きつかれたそうだ。 それから、養成所で「あの時の小学生か」とたまに声を掛けられるようになり、気にかけてもらっている。 ありがたいことだと思いながら、ふと、木村が何故ここに来たのか、疑問に思った。 「ところで、わざわざ台本を持ってきていただいた他に、何かオレに用事でも?」 木村は役者やスタッフを大事にしていることで有名だ。暇さえあれば自分から現場に赴き、仕事がやりやすい環境を作ってくれる。 だから、ここの事務所は家族みたいに仲が良い。それは、みんなで一つのものを作るという目的のなかで、最も大切なことだと木村は言うし、英もそれに共感していた。だからAカンパニーに入ったのだ。 「そうそう、今日はスタッフもみんな帰らせたから、ここを閉めたいんだけど。まだ練習するなら私もここで見学させてもらってもいいかな?」 「わっ、社長、そういうことなら早く言ってくださいっ」 気付いたら時計は二十二時を指していた。さすがに帰らないと、明日もつらくなる。 「ああ、そんなに慌てないで。私としては、君とゆっくりできて嬉しいんだけど」 急いで帰る支度を始める英に、木村は冗談ともとれる口調でそんなことを言う。「できれば、それは女性に使った方が有効的ですよ」と、英はアドバイスをした。

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