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第1話
「貴方、ボスと寝ましたね?」
ぴりついた空気が空間を支配する。ドストエフスキーが静かに怒ってい乍らも其の実、腹の中が灼熱で煮え繰り返って居る事実に気付け無い程愚鈍では無かった。
追求を躱す事も此の場から逃げ果す事もゴーゴリには容易だった。
「私は自由が好きだからね」
誰か一人に縛られる心算は毛頭無い――そう云って繊月の様に目と口を細くして笑った。道化師の笑顔には裏が有る。然し其の心の内は明かされる事は無い。隠匿するからこそ彼は道化師なのである。
久方振りの誘いに乗り赴いてみれば嫉妬という詰まらない感情。興が削がれゴーゴリは寝転がっていた長椅子から身を起こす。
「ゴーゴリ、今日は貴方に贈呈品 があるんです」
ドストエフスキーはそう云って奥の古呆けた扉を指差す。
「ワオ! ドス君からの贈呈品なんて珍しいね!」
白々しい声を上げて態と驚いた振りをする。其の扉から感じるのは陰鬱な気配。贈呈品とは云っても碌でも無い物で有る事は一目瞭然だった。
貼り付けた笑顔、瞳の奥が笑って居ない。其の表情の儘ドストエフスキーは自らの手で其の扉を開いてみろとゴーゴリを促す。
「少し遅く為りましたが、ぼくから貴方への誕生日贈呈品ですよ」
其の言葉を訊き鉄製の取手を掴んで扉を開ける。途端に鼻に付く腐敗臭。濁った目と視線が交差した。
「……あ、」
ゴーゴリは部屋に置かれた其の男に見覚えが有った。知って居るとはいえ一度切りの縁だった。たった一度だけ抱かれただけの男。特別な感情の一つも抱いては居なかった。
ぞくり、と背後に迫る悪寒。気付けば背中に寄り添うドストエフスキーの姿が在った。取手を掴むゴーゴリの手に自らの手を重ね、其の手を口許へと運ぶと指先に歯を立て、そして口吻た。
「貴方が先日抱かれた行き擦りの男です」
魔法の様に体の自由を奪われ、ドストエフスキーに手を引かれるが儘寝台へと連れて行かれ寝かされる。正面から見据えられる紫眼は宝石の様に冷たく暗く、光を宿して居なかった。
逃げようと思えば何時でも逃げられるのに、思考が其れを拒否する。
蛇の様に冷たい指先がゴーゴリの頬から首筋をなぞり、鎖骨に深い爪痕を刻む。
「……僕は誰にも縛られたく無い」
見上げたドストエフスキーの顔は先程までのゴーゴリと同様に、目も口も繊月が如く細い弧を描いて居た。
「……ゴーゴリ、好い加減に機嫌を直して下さい」
黒い嫉妬の焔に焼かれた情事の後、背を向けて眠るゴーゴリの襟足に触れ乍らドストエフスキーは掠れた声で囁く。普段ならば如何様な辱めを受けようが平気で惰眠を貪るゴーゴリだったが、今日に限っては頑として顔を向けようとしなかった。意地でも声を出すまいと噛み付いた指に残る歯型が今も生々しく残って痛々しい。
「ゴー「僕は偶にドス君が怖いよ」
ドストエフスキーの言葉を遮ってゴーゴリが云う。意外な言葉に目を丸くし、顔の前に手を付いてゴーゴリの顔を覗き込む。すると漸くゴーゴリはドストエフスキーへちらりと視線を向ける。其の言葉が意味する処は目線を交わすだけでドストエフスキーには理解が出来た。
「あの男だけでは足りませんか。何人でも殺して見せますよゴーゴリ」
細い顎を掴み指を食い込ませ乍ら柔らかな唇を舌先で嬲る。ドストエフスキーがゴーゴリの情人に手を掛けたのは此れが初めてでは無い。初めは近しい人間達から、ボスに忠告を受けてからは其の日限りの後腐れの無い相手を適当に見繕った。今でも未だ生きている相手と云えばボス位なものだろう。
口腔内を優しく蹂躙すれば軈て色を帯びた甘い吐息が漏れる。制止するゴーゴリの手をやんわりと躱して再び片手を下腹部へと偲ばせる。
「ドス、く、」
先程迄とは異なる優しい愛撫。壊れ物の様に優しく扱い幾つもの緋い花片を其の白い肌に散らす。
「ぼくが居なければ呼吸すら出来なくなれば善いのに、と思います」
愛した事がドストエフスキーの罪ならば
「ドス君一人の物になんて為れないんだよ」
ゴーゴリは誰にも縛られる事無く其の腕から抜け出す。
――いっそ、自由に飛び回りたいと願う其の翼を切り落として仕舞えばどんなに楽だろうと、考えないドストエフスキーでは無かった。
「……ニコライ、貴方をぼく一人の物にしたい」
叶わぬ夢と解って居ても、口に出して願わずには居られなかった。道化師の服の奥に隠された素肌、青い血管が在々と浮かぶ祖国の雪の様に白い手首、指先からでも少しずつ自分の物に為って仕舞えば佳いのにと歯を立てて噛み付く。
執着、独占欲――どんなに醜い感情でも構わない。何か一つでも自分の許に縛り付ける大義名分が有るのならば。
「……フェージャ、」
たった一つの願いすら叶わない、永遠に続く罰にドストエフスキーは苦しめられて居た。
「貴方を喪ったらぼくは気が狂うかも知れない……」
そして其の日は直ぐ其処迄迫って来て居た。真の自由意志の存在を証明する為に、其の作戦の為にゴーゴリは自らの命を犠牲にする。
最後迄自分だけの物に為らず再び……今度は永遠に手の届かない処へと行って仕舞う。
最後の口吻けを交わした。
最後に一言だけ、偽りでも構わない。ドストエフスキーはゴーゴリから欲しい言葉が有った。其れが何か解って居るからこそ、ゴーゴリは其の言葉を決して口にはしない。
――愛シテイル、と。
口にして仕舞えば其の感情を肯定する事に為る。認めて仕舞えば屹度ドストエフスキーは作戦の変更をボスに提言するだろう。
繊月の様に目を細めて道化師の笑顔を作る。
「其の時は僕の手で君を殺してあげる」
――たった一人の親友よ。
待って居て、必ず殺しに行くから。
君を私から解放してあげる。
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