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第25話

しかし、博美の体調不良は一向に治らなかった。 ケンジは弱りかけの博美の体に燃えるらしい。抵抗できないと分かっていて屈服させたいのか、暴力めいた性交を求めてくる。 何度嫌だと言っても聞き入れてもらえず、反応した体を嘲るように笑い、これが好きなんだろと体を貫かれた。 当然夜もよく眠れず、案の定風邪は少しずつ悪化していき、塾の授業のない コマは自習室でそっと休まなければやっていけなかった。 ここは少人数で勉強ができる教室であり、予約さえ取れば自由に使うことができる。 「はぁ……」 博美は深いため息をつく。こんな状態が一か月も続けば無理も出てくる。 季節も受験シーズンになったが、もはや慢性的に微熱が続くようになってしまい、博美の体力も限界にきていた。 しかし、周りにこんな情けない姿を見せたくはないし、教員室にいれば生徒に声をかけられるかもしれない。 現役大学生なので、自習室を使う言い訳があって助かったと思う。 また大学も、単位は学年必須科目だけで済んでいるのが良かった。 ケンジと付き合い始めは塾のアルバイトが終わればすぐに帰っていたが、最近はギリギリまで残ることにしている。 ホストの仕事が始まるのは夜だし、帰っても鉢合わせしないようにしていた。 だが、それがケンジは不満らしく、ここ一週間はメールや電話の着信が多くなってきている。 今も、やっぱり「今日は早く帰ってこい」というメールを見て、どうしようかと博美は考えた。 そこへ、不意にノックの音がする。 基本自習のための部屋なので、他人が入ってくることは、よっぽどのことがない限りない。 「は、はい」 博美は慌てて携帯電話をポケットに入れ、言い訳のための教科書を広げた。 どうぞ、と促せば、遠慮がちに開いたドアの向こうにいた人物を見て、博美はドキリとする。 「先生、聞きたいことがあるんですけど」 いつかと同じように、何もかも見透かすような瞳で入ってきたのは、藤本幸太だった。 彼はそっとドアを閉めて、勧めてもいないのに隣の椅子に腰かける。 「……勉強してたの?」 大きな体に合った、低く心地いい声。 博美の心臓が高鳴るのが分かった。 「そ、そうだよ。藤本くん、質問ってなに?」 体温が上がった気がするのは、風邪のせいだけじゃないとは、認めたくなかった。 動揺を悟られまいと、努めて冷静な声を出す。 「うん。ちょっと見せて」 そう言って手を伸ばした幸太は、博美の額にぴたりと手のひらを付けた。 途端に顔をしかめた幸太は、その手の甲で頬を撫でる。 「ふ、藤本くんっ?」 「このバカ」 もはや最初から年上に対しての丁寧語もなかった幸太だが、ついに博美をバカ呼ばわりだ。 やはり見透かされてたか、と視線が泳ぐ。 頬に触れている手から、微量な電流でも流れているのだろうか、ピリピリと神経が逆立って、敏感にその感触を感じ取ろうとする。 その感覚に、博美は内心慌てた。 この覚えのある感覚は、今はケンジに向けていなければならないものだ。 「日に日に顔色悪くなってくから、どうしたのかと思えば。何で無理してる?」 「……えっと。手、放してくれないかな?」 頬にあった幸太の甲が、今度は手のひらに変わった。 心地いい冷たさに、一瞬めまいがする。 「ほら。今日は特に、熱が高いだろ。何でこそこそこんな所で休んでるんだ」 まるで博美の心の中を読んだようなことを言われ、博美は言葉に詰まる。 やはり幸太には、人の心を読む力があるらしい。 「先生は上手く隠してるつもりみたいだけど。……周りも何でか騙されてるけど、俺には分かる。何かあったのか?」 「……」 言えるわけがない、と博美は黙った。 毎日同性の男に抱かれていて、しかも何度求められても断れない。 淫乱だと言われても、返しようがなかった。 体が反応していたのは事実だし、何より今、ケンジの家から追い出されたら困るからだ。 「……分かった。とりあえず、これ飲め」 そう言って出されたのは、自動販売機で買ったらしい水と、解熱剤だった。ご丁寧にゼリー飲料もある。 最近の体調不良と、ケンジのしつこさに、まともな食事をしていないので正直ゼリーで助かった。 言葉に甘えてそれらを飲み、代金を支払おうと思ったら拒否された。 その代わり話せと言われ、博美はまた黙ってしまう。 「……先生、とりあえず、自分が美人だって、自覚持ってね」 「え、……は?」 深々とため息をついた幸太は、机に頬杖を付いて博美を見る。 いきなり話が変わってついていけずにいると、幸太はクスリと笑った。 「教えるのも、子供も好きなのは分かるけどさ、ちゃんと線引きして。あまりに理想的過ぎて、俺、心配なんだよ」 幸太が言うには、授業後にやたらと質問してくる生徒の中には、本気で博美に入れ込んでいる子がいるらしい。 愛嬌を振りまくのはほどほどにしろ、ということだろうか。 確かに、冗談めいてご飯やカラオケに行こう、なんて誘われるときもあるが、それは先生として見られていない、友達みたいに見られているということではないのか。 「先生の性格だから、放っておいたらまたさらに無茶するだろ? 理想の先生を演じようと頑張っちゃうだろ?」 「……」 また博美は黙った。幸太の言うことは当たっている。 しかし、その根本は彼の過去から形成された、人に必要とされたいという強い思いがそうさせているのだ。だからこそ、こうなった原因は話せない。 話せば幸太は離れて行くと分かっているから。 「……話せない」 「……そっか」 この時、なぜもっと良い言い訳を言わなかったのかと後悔した。何かあると白状したのも同然で、なのに差しのべられた手を振りほどいてしまったことに、どうしようもなく不安になる。 すると、ふわりと空気が動いた。 「ふ、藤本くん?」 幸太の長い腕が、博美の背中に回されたのだ。 しっかりした腕の感触にまた動揺しながら、博美の心が何故かほぐれていくのが分かった。 恋人同士がするそれとは少しニュアンスの違う、しかし、信頼しているもの同士がするような軽いハグで、博美は目頭が熱くなる。 「あ……あーあ、何だよ、そんなに思いつめてたのか?」 幸太は明るく言うが、その声は優しさに満ちていた。こういう人が恋人なら理想なのに。 そう思って博美はハッとした。 そして気付いてしまった。このままでは幸太に対していち生徒として見られなくなってしまう。何とか考えを逸らさないと。 しかし、もはやケンジには、初めから恋愛感情などなかったことに気付いてしまった。 では何故付き合っていたのか。 博美はただ、さみしさを紛らわしたかっただけだったのだ。 「ご、ごめん。熱で涙腺が弱ってるだけ」 一度意識してしまうとだめだ。ただでさえ初めから近づかないようにしていたのに――幸太は顔だけでも博美の好みだったから。 慌ててその腕から抜け出そうとすると、そのしっかりした幸太の手が博美の肩を掴んだ。 「……俺も大概おせっかいだって自覚してるけど」 逃げようとするのを止めるように、幸太の腕に力が入る。 「だからって、目の前で溜め込んでる人を放っておくほど、薄情じゃないんだよ」 なだめるように背中をたたかれ、その優しさに目が眩んだ。 幸太に下心なんてないのは分かっている。しかし、このまま甘えてしまっては、自分がどうなるのか分からないから怖い。 「あ、俺に話したら誰かが迷惑するような事か? なら、俺が脅して無理やり言わせた、そういうことにすればいい」 おまけにそんなことまで言われてしまっては、最後の砦が簡単に崩れてしまう音を、博美は大人しく聞くしかない。 「……藤本くんは、長男?」 「は? そうだけど、何で?」 いきなり関係ないことを聞かれてきょとんとする藤本だったが、博美はそれで心を固めた。 話を聞いてもらうだけにして、絶対にこの人に恋をしてはいけない、と。 家長制度が薄れてきたとはいえ、やはり長男だとなにかと付き合いづらい。 思った通りの返答が来て、博美は笑ってしまう。 「普段の君を見てても、面倒見いいから」 「……俺のことは今いいよ」 照れたのか、少しぶっきらぼうになる口調は、まだ歳相応なんだな、と思う。 意を決して、博美は口を開いた。 「……少し、無茶をさせられてね。二ヶ月くらい前から付き合っている人がいるんだけど、こう、……頭にくると物に当たったり、性的支配でそれを発散させたりするみたい」 ハッとした幸太は、博美の体を見渡した。 体に傷がないか、確かめたのだろう。 殴られてはいないよ、と言うと、ホッとしたように背もたれに背中を預ける。 「別れようとは思わないのか?」 「……もう、好きなのかも分からなくなっちゃった。ナンパで付き合い始めた関係だし、元々セフレとしてしか、付き合ったことなかったから」 「せ……っ」 さすがに中学生にセフレはきつかったか、と博美は内心自嘲した。高校を卒業してからこの町に出てきて、体の関係を持つ代わりに寝泊まりする場所をもらっていた。 ケンジも、前の彼氏に振られて途方にくれていたときに、声をかけてくれたのだ。 泊るところがないならうちへおいで、と。 人の心に入るのが上手かったケンジは、ゲイであっても普通の恋愛ができるのかもしれない、と博美に思わせた。 しかし、それも結局体だけが目的で、客ともそういう関係を築いているケンジを、見て見ぬふりをしていただけだ。 「今まで付き合った人も似たようなタイプで……捨てられては拾われてきたけど、やっぱりうまくいかなくて」 「先生……案外すごい恋愛履歴持ってんだね」 それでも今まで過ごせてきたのは、付き合う恋人が途切れたことがないからだ。 でも、別れを切り出されるタイミングは、いつも同じだ。 「どうやら俺が本気になると、相手は面倒くさくなるみたい。…………やっぱり女の子が良いって」 後半は極端に声が小さくなる。結局、今まで付き合ってきた相手は、博美の体に興味は持つが、心まではいらない、と突き返してきた。 そのことに博美自身疲れ始めてしまっている。 「女の子って……」 さりげなくカミングアウトして、幸太は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに険しい顔になった。 嫌悪するならしてみろ、と自暴自棄に心の中で嗤う。 しかし、続いた幸太の言葉は博美の期待を裏切った。 「ごめん、先生。恋人のこと、勝手に想像してたけど、その……熱以外で体は大丈夫なのか?」 険しい表情で博美を見つめる幸太は、話を聞く前のものと変わらない。 むしろより繊細な話として、真剣に聞こうとしてくれている。 (普通に、受け入れた?) 少なくとも、博美の周りには見たこともない反応だった。 大抵気持ち悪がって遠ざけるか、何をバカなことを、と笑われるかのどちらかだった。 しかも幸太は、多少はその知識もあるようだ。 「うん、それは平気。風邪が悪化してるだけだから」 「だけって……それが怖いんだろが」 (……どうしよう) まさか普通に聞いてくれるなんて思ってもみなかったので、かなり動揺していた。 どう対応すれば良いのか、分からなくなってしまったのだ。 握りこぶしを作ると、その手が震えていることに気付く。 このままではいけない、博美の高鳴る鼓動と同時に、脳内で警告音が鳴り響く。 「ちょっと、先生震えてる? 寒いのか? ……これはもう、帰ったほうが良いかも」 「……」 「とりあえず、お互い恋愛感情がないって分かっているなら、このままの関係を続ける訳にはいなかいだろ。先生自身に手を挙げるのも時間の問題のような気もするし、とりあえず、送っていくから帰ろう」 幸太はてきぱきと博美の荷物まで片づけて、立ち上がる。引き留める気力もなく、言われるまま支えられながら塾を出る。 しかし、外に出た瞬間、博美は幸太の支える腕を振りほどいてしまった。 「先生?」 「博美、お前、返事くらいよこせよ」 いぶかしがる幸太の声を遮って、ハスキーな声が博美の心臓を止める。 ガードレールにもたれるようにして立っていたのは、ケンジだったからだ。 「今日はもっと早く終わってたはずだろ?」 最悪なところを見られた、と博美は頭痛がひどくなり、目を閉じる。 「ごめん……調子悪くて、休んでた」 「はぁ? 休んでたなら、メールくらいできるだろ」 「いた……っ」 「おいっ」 つかつかと寄ってきたケンジは、博美の腕を掴むと強引に引き寄せた。 たばこと酒と女のにおいがするスーツに、一瞬吐き気を覚える。 止めに入ろうとした幸太は、脊髄反射でやめて、と言った博美の言葉にぴたりと止まる。 そして、ほんの一瞬だが傷ついたような顔をした。 「おら、行くぞ」 そして強引に腕を引っ張られ、一言も発せられないまま、ケンジと歩いていく。 (ごめん、藤本くん) 反射的に止めたのはケンジではなく幸太で、自分はどうしようもなくケンジにその恐怖を刷り込まれているのだな、と感じた。 一瞬傷ついた表情を見せた幸太が気になって、そっと振り返ってみるけど、すぐに気付いたケンジが髪の毛を引っ張った。 「痛いから! やめてっ」 「どうせお前のことだから、今からあのガキとやろうってところだったんじゃないのか?」 「そんなんじゃ……っ」 力の入らない体で抵抗しながらも、博美はケンジに違和感を覚えた。 いつもイライラと物を蹴ったり投げたりすることはあっても、実際に手を挙げられたのは初めてだった。 しかも、冬だというのに大量の汗をかいている。 「ケンジ、その汗……」 「黙れ!」 がんっ、と鈍い音がした。同時に脳みそが揺さぶられ、右肩を強く地面に打ち付ける。 そのまま一本入った裏道に引きずられ、揺れた視界が戻る前にもう一度頬を殴られた。 口の中に鉄の味が広がる。 「ケン……っ」 裏道とはいえ路上のど真ん中で、ケンジは博美の上に馬乗りになり、数センチの距離に顔を近づける。 キスをされそうな近さだったが、博美に感じたのは恐怖しかなかった。 目の前の男から逃れようと、両腕で押し退けようとするが、熱のせいか力が入らない。 「っはは! お前、調子悪くなるとホント、色っぽくなるよなぁ」 もともと線が細い体格のため、背は高くても中性的な印象のある博美は、大人しい性格も相まって昔から綺麗だと形容されることが多かった。 ここのところ熱のせいでずっと赤みが差している頬、潤んだ瞳は、ケンジの嗜虐心に火をつけたらしい。 しかし、今日は様子がおかしい。 息が白くなるほど寒いのに、ケンジの額は汗の粒ができている。掴まれた腕からは小刻みな振動が伝わり、血走った眼には光がなかった。 「ケンジっ、痛いから放して。ウチ帰って話しよ?」 掴まれた手首には指が食い込んでいて、その先が白くなり始めている。ケンジのおかしな様子にまさかとは思ったが、信じられなかった。 「お前は嫌とか言いながら、本当は喜んでるんだろ? さっきのガキにもやらせたのかよ、お前の変態プレイ」 「……っ」 藤本くんは違う、そう叫ぼうとしたが、諦めた。 どうせケンジと別れても、住む家を失うだけだ。だったらもう、何もかも諦めて自分さえ耐えていればいい、と博美は体から力を抜く。 「あ? 何だよいきなりおとなしくなって。抵抗してくれなきゃ、燃えねぇだろ?」 「う……っ」 ケンジの両手が博美の首にかかった。反射的に彼の腕を掴むが、その力は容赦ない。 いくら抵抗しないからって、殺されるのは嫌だ。 「ほら、抵抗しないと死んじゃうぜ?」 そう笑いながらも、ケンジの力は手加減なんてしてないことがわかる。 わざと本気で抵抗しなければならない状況を選んだと見え、苦しさに視界の端が黒くなり始めていた。 「おい! 何をやっている!」 必死で抵抗していたその時、運よく第三者の声が聞こえた。 空耳かもしれない、と目だけでその声を追うと、複数の影がケンジを羽交い絞めにして博美から剥がす。 「先生!」 急に入ってきた空気に噎せていると、体を抱き起こし、背中をさする幸太の姿が目に入った。 「……っ、藤……」 うまく喋れずまた咳き込むと、「無理しなくていいから」とまた背中をさすってくれる。 何があったのか状況を把握しようとケンジを見ると、数人の警察官に取り押さえられていた。 意味不明のことを言って喚き、口から泡を飛ばしている。 「……っ」 本当に今さらになって、こんな男と付き合っていたことに寒気がした。 そばにはケンジのスーツのポケットから落ちたらしい、注射器が落ちている。 「あいつ、様子がおかしかったし、先生の髪の毛引っ張ってったからまずいと思って連絡した。……あぁ、やっぱり殴られてたんだね」 幸太は博美の口角をそっと拭った。それによって何かがふつりと切れ、一気に目頭が熱くなる。 今日の涙腺はやはり壊れているらしい、二度目の涙を見せたのが恥ずかしくて、両手で顔を覆う。 「……ありがとう」 幸太やケンジに対する想いでぐちゃぐちゃで、それ以上の言葉は出てこなかった。

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