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第39話 運命の一日

「もう、ネクタイ歪んでる。ほら、ちょっと屈んで。」 「へいへい。」 寝室のクローゼットの前。一張羅らしいブランド物のネクタイを締め直してやってから、僕は半歩後ろに離れ、上から下まで目の前の先生に視線を巡らせる。 「よし。」 モサモサだったくせっ毛はワックスで整えられていて、無精髭も見当たらない。いつもはだらしなく開いてるシャツのボタンはキッチリ閉められ、式典の時くらいしか日の目を見ないスーツのジャケットも今日はしっかりと着てもらった。 うん。見た目はほぼ完璧だ。 「どこからどう見ても教師に見えるよ。」 「そりゃーよかった。」 よくよく考えれば身長高いんだし、いつもこうして身綺麗にしていれば周りの反応も違うだろうに。普段のこの人は自分を飾る気も、仕事に対するやる気も、とことんないんだろう。 そんなこの人が、今日はしっかりと身支度してくれた。 「……そろそろ行くか。」 「うん。」 僕はクローゼットに付いていた鏡で自らの制服姿を確認してネクタイをキュッと締めた。 いよいよだと思うと指が震える。 先生はそんな僕の背中をぽん、と軽く叩いた。 「いいか、耐えられないと思ったら逃げていい。声上げていい。……無理はすんなよ?」 「……うん。ありがと。」 大丈夫。この間みたいな事にはきっとならない。 しっかりとあの人と話して、伝えなきゃ。 僕は先生に気づかれないように、ぎゅっと震える拳を握りしめた。 彩華高校の最奥にある職員棟。一階の事務室を抜け二階へ上がれば、職員室と進路指導室、進路資料室が並んでいる。 教室棟は個人ロッカー等々あるので基本的には部外者立ち入り禁止。春休み中で生徒の出入りも少ないので、今日の面談はここ、進路指導室で行うことにしたらしい。 僕の連絡先をあの人に知らせたくなかったし、そもそも僕も向こうの連絡先を知らなかったから、先生が全ての段取りをつけてくれた。口には出さないけど、何かあった時に誰かしらが居る職員室が隣にあるというのもここを選んだ理由なんだろう。 また僕が平静を保っていられないかもしれないと、もしもの事を考えて約束よりも少し早めに教室前に着いたのだけれど、そこにはすでに色と飛鳥の姿があった。 「おはよ。」 「……大丈夫か?」 普通にしているつもりだけど、多分顔色はあまり良くないんだろう。不安げな色と飛鳥に、僕は大丈夫と頷く。 「とりあえず隣の資料室で待機しとく。何かあったら大声出せよ?」 「すぐ助けに行くからね。」 「うん。ありがと。」 なんとか口角を上げれば色達は一応納得したのか、絶対呼べよと念押ししてから資料室へと入っていく。 その背を見送ってから、僕はふぅ、と震える吐息を吐き出した。 心臓がありえない速さで脈打っているのがわかる。気持ちを落ち着けようと、意識してゆっくりと呼吸を繰り返した。 大丈夫。大丈夫。 言い聞かせても、湧いてくる恐怖はなかなか払拭できない。それでも、逃げるわけにはいかないんだ。 ぎゅっと拳をにぎりしめて震える肩に、大きな手がそっと触れてきた。 「大丈夫だ。」 僕の肩を抱き寄せ、ぽん、ぽん、とゆっくりリズムを刻む無骨な手。 隣を見上げれば、優しく僕を見下ろす瞳があった。 うん、大丈夫。 色がいる。飛鳥がいる。先生が隣にいてくれる。 この人達を信じていれば大丈夫だ。 遠くから階段を昇ってくる足音と気配が近づいてきていたけど、僕の身体はもう震えてはいなかった。 階段をのぼりきり姿を現したその人を、僕は冷静に見つめる。 上品なツィードのセットアップ。明るめのロングヘアはサイドを編み込んで後でまとめられていて、スッキリとしたシルエット。 その姿にふと小学校の授業参観を思い出した。 普段あの人の手が及ばない自由なはずの場所にまで踏み込んでこられた恐怖。僕の居場所はどこにもなくて、味方なんて誰もいないんだって、穏やかな笑みを背後に感じながら恐怖と絶望しかなかったっけ。 でも、今日は違うから。 僕の姿を見つけ足早に駆け寄ってきたその人を前にしても、僕は息を乱すことはなかった。 「……久しぶり。」 「ええ、本当に久しぶり。会いたかったわ。」 感極まって声を震わせるその人の視線を、僕は逃げることなく真っ直ぐに受け止めた。

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