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ディープ・クリムゾン・サフラワー⑤

 帰るために立ち上がりかけて、ふと思い出したことがあった。 「そういや、毛皮って珍しいのか?」  情報一つでも多いほうがいいし、後で何かの役に立つかもしれない。単にそう思ってした質問だったが、女性からは少し違う反応が返ってきた。  沈黙という反応ではあったが。 「あ、なんか悪いこと訊いたかな、ごめん。もう俺、」  帰るよ、という言葉にかぶせるように返事が返ってくる。 「ありし程に流行りはしたが、今はもう着る者もいるまい」 「へえ、そうなのか。もふもふしてて気持ちいいし、暖かいのにな。俺の着てる毛皮は、何の毛皮なんだろう」    毛皮と言っても、種類はかなりあるはずだ。触ってわかるほど俺に知識があるわけじゃない。  また少し沈黙が流れる。 「近くへ」 「へ?」 「近くへ来るがよい」  真ん中の御簾の陰から顔を出して部屋の中をのぞく。相変わらず彼女は扇子で顔を隠していた。 「これへ」  彼女は自分の横を左手で指し示す。俺は言われるまま、部屋の中に入り隣に座った。 「向こうを向くがよい」 「はいはい」  俺が背を向けるとすぐに、何かが背中に触れる。  手で触って確かめているのだろう。細く頼りなげな指が、俺の背中を撫でていった。 「これは黒貂(ふるき)なるぞ」 「ふるき、って何?」 「蝦夷にすむイタチぞ」 「テンのことかな。へえ、結構いいもんなんだ」  ルースはこんなもの、どこで手に入れたのだろう。  俺は自分の着ている毛皮をペタペタと触って手触りを確かめながら、ルースが百貨店で買い物をしているシーンを想像した。  違和感しかない。 「そういや、君も毛皮を着ているよな」  そう言って後ろを振り向くと、彼女が慌てて扇子を顔に当てた。 「急にこちらを向くでない」  扇子の上から目だけを出し、こちらを覗いている。  ふと彼女の顔に違和感を感じた。何がと言われるとよく分からないが――眼の色と髪の色が合っていないような気がするのだ。  月の光のせいだろうか、瞳は青く煌めいている。しかし、俺と目が合った瞬間、彼女は目まで扇子で隠してしまった。 「我のも、黒貂なるに」 「へえ、一緒だ。毛皮、好きなの?」 「お父上の形見ゆえ」  また地雷を踏んでしまったかと思ったが、さっきまでの突き放すような物言いではなく、懐かしむような口調だ。 「そっか。毛皮を着ている女性は気品があっていいと思うよ」  リッチでゴージャスだと言って伝わるか、試してみればよかったと後悔する。  ふと扇子が動き、彼女の眼が扇子の上に再び顔を出した。少し垂れ気味の、ぱっちりとした目の中にある瞳は、やはりどこか青みがかっている。 「おなごに見えるか」  囁くような、消え入るような声。彼女が発した言葉の意味がよく分からない。  と、その時、別の方向から、ぱたぱたという足音が聞こえてきた。 「宮様! 御簾が開いております」  明るく元気な声とともに、若い男の子が部屋の中を覗く。  見開いた目はクリっと丸く、髪は左右で結っている。長方形の生地に首を通したような白い上着は、両脇が大きくあいていて、その腕をほとんど隠してしまうほど大きな袖が付いている――水干、と言っただろうか。下には、両ひざ下あたりで大きく膨らんだ紫色の袴をはいている。  彼は、俺の姿を見るとこれまた軽い悲鳴を上げた。 「ひっ、と、殿方が、殿方がおわします!」  彼の反応は「曲者! 出合え、出合え!」的なものだったが、このまるで罰ゲームのような時間から解放されたと思うと、俺にはこの子が救いの神様仏様、いや糸を垂らしてくれた蜘蛛のように見えた。 「藤、騒ぐでない。はしたなき振る舞いぞ」 「も、申し訳ございません」  藤と呼ばれた男の子は、手をついて宮様と呼んだ女性に謝っている。 「これは近衛の少将におはすぞ。無礼の無きよう」  ほえ? なぜか知らない間に、俺は少将になっていた。中将からは格下げられた様だが……いやいや、俺は庶民だ。 「よ、よろしく」 「そうでございましたか。失礼を致しました」  藤は、俺にも手をついて謝る。この子はもしかしたら彼女の世話係なのかもしれない。 「ああ、気にしないで。驚かせてごめん。もう帰るから」  目の前にいるのは少将なんかじゃない、単なるパンピーなんだよ……  そう、藤と呼ばれた子に心の中で謝りながら、俺は立ち上がろうとした。 「か、帰るのか?」  鼻にかかったハスキーな声の、思わず出たと言わんばかりの言葉が聞こえた。  その声の主の方を振り向く。扇子の上から出ている視線と俺の視線が合うと、彼女はぷいっと顔を背け、こうつぶやいた。 「こ、今宵は『こうしん』ゆえ、寝はせぬ。それゆえ、まだここにおってもよいぞ。べ、別に我がそう望んでいるわけではないが、どうしてもというのであらば、そなたの望みを叶えるがよい」

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