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浴室のドア

浴室の前で気付かれないようにそっと中を窺う、日課のようになってしまったそれは、特定の人物が入ってる時にしか行わない。こんな覗きみたいなことを、するようになった切っ掛けは俺がまだ小学生の頃にあった。学校から帰ってきたら、いるはずの兄の姿がなく、不思議に思い家内を探していると、不意にシャワーの音がして、歩みを止めた。こんな時間に入浴なんて珍しい、そんなふうに思って脱衣所を覗けば、兄の服が無造作に置かれていた。家にいるのだとわかって安心し、自室に戻ろうとした時だった。聞いたこともないような高い声が後ろから聴こえて、思わず足を止めた。まるで女の様なそれに誰かと入っているのかと勘繰ったが、かごに入ってる衣類は兄のものだけで、一人で入っていることは間違いない、けれど声色が普段のものとあまりに違いすぎていて、その声の主が兄だと、信じることが出来ないでいた。妙にざわめく胸を押さえつけ、バレないようにそっと近づき、兄がなぜそんな声を上げたのか、その理由を探ろうとした。シャワーの合間に聞こえるそれは、どうしてか胸を高鳴せた。どんな表情で今みたいな声を出したのか、今すぐドアを開けてみたい衝動に駆られた。けれどそれをしてしまったら、何かが崩れてしまうような気がして、伸ばしかけた手を引っ込めた。しばらくして、引き攣ったような声がすると、途端に兄の声が聞こえなくなった。ぴたりと沈黙したっきり、それが続いて、気絶したのではないかと心配になり、ドアを開くべきか悩み始める。けれど、それから少しして、騒がしい音がし始めたので、どうやらそうではないとわかり、胸を撫で下ろした。ほっとしたのもつかの間、それが浴室から出るためのものだとわかって、慌てて自室に戻ったのだった。異常に脈打つ心臓を落ち着け、何事もなかったようにリビングに顔を出す。それに気づいた兄が、お帰り、と言ってくれた。うん、と適当に相槌を打つと、白々しく、風呂に入っていたのか、と聞いた。兄の動きがほんの一瞬だけ止まる、それからすぐにそれを隠すように取り繕って、ああ、とだけ言った。瞳が揺れ動いた刹那を、俺は見逃さなかった。浴室から出てきた兄は、普段と違う雰囲気をまとっていて、思わず眼を背けてしまいたくなるような、けれどずっと見ていたいと思ってしまうよな、そんな表情をしていた。それが色気だとはじめて理解したのは、随分と後のこと。兄が浴室で何をしていたのか、それが分かる頃には、兄に対して思うような感情とは程遠い、劣情を抱くようになっていた。どこでそれを抱くようになったのか、それはひどく曖昧で、気がつけばそうなっていた、というのが一番近い答えのように思う。兄は女好きのする顔立ちをしている、義母によく似ていて、けれど義母のような柔らかさはない、むしろ軽薄そうな、冷たい雰囲気を纏っている。クールとでも言おうか、そんな他とは少し違う兄に、好意を持つ者は多く、よく告白をされていたが、兄はそれら全てを遮断していた。思えば女という生き物を、兄は昔から苦手だった。決して嫌いなわけではない、泣けば慰めようとしていたし、恋愛が絡まないなら普通に会話もする、けれど相手に少しでも好意が見えれば、遠ざける。女にしてみればそれは、残酷なのだろうけれど、冷たくしているというよりは、怖がっているように見えた。もし、不用意に、深く傷つけてしまったら、そんな臆病さが、垣間見えた気がした。兄は性に対して潔癖なところが昔からあって、周囲が異性に興味をもつ年頃に、そういう雑誌やDVDの貸し借りが流行り出した時、兄はそれを異様に拒絶していた。そうなった原因が彼の父親にあることを、俺は何となく感じ取っていて、兄の母親である義母が離婚した理由も、きっとそこにあるのだと確信があった。その事については二人とも口を閉ざしていたし、わざわざ聞くほど野暮でもなかったから、知らないふりをしてしたけれど、やはり頭の隅にはその事柄が張りついていた。 「ン、…ふ、ぁ、アッ」 途切れ途切れに聞こえる喘ぎ、きっと扱いている間は、何もかも忘れ去っているのだろう。あのポーカーフェイスがどんなふうに歪んでいるのか、想像するだけで身体が熱くなる。年々変わる兄の声が喘ぐ様を、ずっと傍らで聞いてきた。変声期がまだの時の声、変わろうとしている最中の掠れた声、変わった後の声も全て。年月を重ねる度に変化してゆく兄への欲望は、成長と共に形をはっきりとさせていく、ただ胸に秘めているだけだったそれを、ぶつけてしまいたいと…兄を、抱きたいと思うようになっていった。性を拒絶し欲にあらがっても、本能には逆らえない、そんな矛盾を抱える、兄の様は酷く滑稽で、愛しく感じた。 (俺がアンタのコレを、知ってるって言ったら、どんな顔をするんだろう) 全てを赤裸々にして突きつけてやりたい、真っ赤になって本能に屈従した自分を、恥じいる様を見てみたい、ぞくり、ぞくりと背筋を這う快感の影、それをはらうこともせずただひたすら浴室のドアを見つめた。薄いそれを突き破りたいと燻る衝動と、対峙している理性は年々もろくなって、少しのことで壊れてしまいそうなところまで、追い込まれている。過ごしてゆく日々の中、自分の立ち位置がわかってゆく過程で、だんだんと兄の隣に異性が現れることを、恐怖するようになっていった。もし、それが現実になったなら、俺はきっと正気を失ってしまう、兄が何処かへ行ってしまうなら、いっそこの手で。そんなふうに思う心が、理性を蝕んでいる原因だった。自身が崩壊を恐れているのか、それとも待ち望んでいるのか、当人にも分からない。けれど一線を越えてしまいそうな時、いつもよぎるのは初めて逢った時の兄の表情、不器用にでも優しく、手を引いてくれた兄を、兄と認めた時の感覚、それがいつも踏み止まらせる要因になっていた。 (血が繋がっていたなら、アンタを好きになんてならなかっただろうか) いっそのこと、本当の兄弟であれば良かった。そうだったなら、きっと、こんな気持ちになることはなかっただろう。血縁がないという事実が、望みのように心に居座っている。有り得ることのない、もしかの可能性に縋っている自分が、愚かしく厭わしかった。精通を迎えたあの日、兄が入った後の浴室で、はじめて兄と同じことを、したその時点できっと、戻る手立てはなくなっていた。浴室に充満する濃いソープの匂いは、兄がやましさを隠すためにした行動の結果、それを掻き消すように夢中で自慰に浸って、頭を占める兄をむちゃくちゃに犯した。冷めた熱の後に押し寄せる後悔、せめぐように少しずつ戻ってくる熱情、それが高ぶって抑えられなくなるたび、この行為に耽る。そんなことをもう数えきれないほど、今日に至るまで繰り返してきた。いつかこの矛先が、兄に向いてしまったなら、俺は開き直って、組み敷くのだろうか。押し入って割り開いて、兄が見られたくないと隠し続けた欲を、あばいて見せ付けるだろうか。耳元で聴こえる声を、身体を眼に焼きつけて、気を失うまで貪り尽くす様が、現実味を帯びて脳内に投影される。そうなったらきっともう、元には戻れない。家族とは別のものになってしまう、そんな恐怖さえ、越えてしまいそうなこの情動を、どうすることも出来ない自分が憎かった。がたり、兄がドアにもたれかかった音で、引き戻される意識、次いで聞こえた引き攣る声が、達してしまったことを知らせる。余韻に震えるその声が、聞こえなくなる前に、そっと浴室を後にする。後からしてくるだろう、兄の泣き声を聞かないために。矛盾に苦しむ兄を、抱き締めてしまわないように。 (…ねぇ、もしも) (もしもこの先、アンタに、そのトラウマを凌駕するような女が出来て) (身体を繋げてしまうっていうならさ) (その時は、二度と消えないようなトラウマを) (この心の内を、ブチまけてやるから) 壊したい、壊したくない。暴きたい、暴きたくない。相反する感情、奥の奥にある真意は分からないまま、色情だけが止まることなく暴走してゆく。兄の苦悩を知った時、最初に抱いた気持ちは、何だっただろう?こんなにどろついたものじゃなかった。もっと、単純で率直な、幼い心に思ったそれを、もう、思い出すことが出来なかった。刻々と進んでゆく時間に、急かされる日々。いつか訪れる終末が、二人を変えてしまうその時までは、どうかアンタの弟でいたいと切に願って、憂いを感じながら、遠き日の兄が、薄れゆくのを、感じていた。 end

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