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先輩はやっぱり後輩に甘い。

香山圭は朝から溜息をついた。 手には求人誌を持ち、一番安いコーヒーを飲みながら窓際の席で通行人を眺めている。このど平日に、パーカーにデニム姿。焦げ茶色の髪は地毛だった。見るからに学生の風貌だが、もうアラサーだ。何がどうして平日の昼間に求人誌を見ているのかは理由があった。 圭の勤めていた印刷会社は、紙印刷の需要が減ったことにより倒産してしまった。会社都合だったため、失業手当等の数ヶ月先までのお金は手元に来ると分かってはいたが、その先はあてにならない。一日でも早く、就職先を見つけなければと、焦りが募る。 更に困ったことに、圭は会社の社宅に住んでいた。流石にすぐに追い出すことはされなかったが、そこも社宅では無くなるため、退去しなければならない。幸い、住居に関してはまだ二ヶ月は猶予がある。しかし、職が無ければ部屋も借りることは出来ない世の中だ。何とかして、まず再就職先を決めなければならない。あと一か月頑張っても無理だったら、一度実家に帰省することも視野に入れないといけない。しかし、今更田舎で就職先は見つからないだろう。何としても都内で見つけたい。できるなら、同じぐらいの給料で…。 とは言ったものの、大学を卒業して約八年転職もすることなく働いたのだ。久しぶりに目にした履歴書は筆が進まない上に、初めて見る職務履歴書なんかは特に書き方が分からない。手書きを指定してくる会社もあれば、データを指定してくる会社もある。企業によってやり方が違うのは分かるが、どっちかにしてくれとそろそろ匙を投げたくなっていた。 そんな時だった。 窓の外を眺めていると、向こう側でこちら側に手を振る人が見えた。目立っていて恥ずかしいやつ、と冷めた目を向ける。自分では無いと思い、手元の求人誌をめくった。 「やっぱり!圭さんっ」 急に大きな声が耳元で響いた。驚いて振り向くと、大学の後輩、馬場隼人が立っていた。コートの下にグレーのスーツにネクタイをピシッと締めているのが見える。 「隼人、お前なんでここに」 「いや、営業周りで。普段は外あんまり出ないんですけどね。そしたら圭さん見えてさ。手振ったの見えなかった?」 圭はさっきの手を振る人を思い出した。 「あれ、お前かよ…」 「見えてたのに無視とかひどくないですか?」 「他人だと思ったんだよ。恥ずかしい」 「えー」 唇を尖らせながら、隼人は圭の横の席に脱いだコートを置き、鞄から財布を取り出してカウンターへ向かう。 「圭さん、コーヒーおかわりします?」 「いい。まだ残ってる」 「はーい」 行きがけに声をかけてくれる気遣いは相変わらずだった。 隼人は一つ年下で、サークル内でもアホ兄弟と言われるほどくっついていて、どちらかの部屋に寝泊まりすることが多かった。当時、圭は寮生活をしていて、同じようなサークル仲間もたくさんいたが、いつも一緒にいるのはだいたい隼人。おかげで一人暮らしをしているはずの隼人の洗濯物は圭の部屋に積み上げられていた。 就職してからは互いに忙しく、在学中当時より頻繁に会うことはなかったが、それでも月に一度は一緒に飲みに行っており、交流は誰よりも続いていた。 「お待たせ。あ、これ俺の奢りね」 トレーを持って戻ってきた隼人は、チョコバナナのパウンドケーキを圭の前に置いた。 「なんでまた」 「就職前祝い」 「張り倒すぞ」 「圭さん俺より小さいから負ける気しないもんね」 体格差ではたしかに勝てない。隼人に苛立ったが、パウンドケーキに罪はないため、有り難く貰うことにした。 「今何社目?」 「七社。今のところ全滅」 口にすると、より気分が重くなった。昨日も面接だったが、あまり手答えがない。二桁に行く前にはケリをつけたいところだ。 「いっそ、永久就職とか」 「どこにだよ」 「男手が欲しいって農家や酪農家はあるでしょ。あー、でもなぁ。圭さん、腕細いし重いもの持てなさそう。体力も全然なさそうだしなぁ」 わざわざ手を伸ばし、圭の腕を掴む。触らなくてもわかることだったが、昔から肉付きが悪く、お世辞にも頼もしいと言えない。 「お前俺に恨みか何かあるのかよ…」 「あはは。ないですよ、好意しか!」 「嘘くさい」 圭は軽く舌打ちをして、パウンドケーキを一口食べた。チョコバナナという最強のタッグにも負けないしっとりした生地は病みつきになりそうだ。 「ていうかお前、いいの?仕事」 「八時間労働には一時間休憩必須ですよ」 「なら昼休みらしく俺に貢いでないでなんか食えよ」 隼人のトレーにはホットコーヒーのカップしか無い。これが営業マンの昼休みというのはなんとも侘しい。 「実は次の営業先でお昼頂けるんですよ。だから今食べると何も入らないから」 「ふぅん。会社の金で飯食えるのとか最高かよ」 不貞腐れた顔でいちいち突っかかる圭。こんな先輩、面倒だろうと思うのだが、隼人はそうではないらしい。 「じゃあ、営業職希望?」 「向いてないよ。俺、八年も殆ど内勤だったもん。たまに出た外回りは散々だった」 「ん〜、内勤かぁ」 今時の中途採用で内勤は殆ど資格保有者や経験者を欲している。経験があっても、資格が無いと…というところはザラだ。その篩にかけられ、圭は七社に縁がないと言われてしまった。 「なんか良いとこないかねぇ…」 腕を机に伸ばし、そのまま伏せる。 どんなに仲のいいやつでも隼人にとっては他人ごとだ。 「もういっそ、アルバイトでも良い気がしてきた」 アルバイトでもきちんと収入見込みさえあれば安いアパートは借りられる。まだ失業手当もあるし、すぐに困るというわけでもない。 「アルバイト?」 「そ。もう決まらないならとりあえずは…って思って」 「もったいない」 「時間の方がもったいないって。正社員が無理ならとりあえずのアルバイトしかないだろ…。誰かが養ってくれる訳でしもないんだから」 「養ってくれる人ねぇ……あ」 「ん?」 隼人は急に圭の手首を掴んだ。 「ちょ、なんだよ」 離そうとしたが、握る力に力が入りなかなか振りほどけない。店の中で騒ぎたい訳でもない圭は、小声でふざけるなと隼人を窘めるが、彼は全く離そうとせず、むしろ嬉しそうな顔を近づけてくる。 「隼人、なんだっつーの」 顔を背け、距離を取った。近くの席に座っている人たちに少し不審がられている気がしてしょうがない。 「圭さん、俺…ちょー名案浮かんだんですけどっ」 「はぁ?」 「とりあえず、今夜うちに来てください。仕事は絶対定時で上がります!」 さっきよりもきつく手首を握る。 痛みで、圭の顔が歪んだことに気がついた隼人は慌てて手を離した。 「ご、ごめんなさいっ」 「この馬鹿力っ。なんでまた急に」 「名案なんですよ、俺も圭さんも両方に得ですっ」 営業で培ったのか、ものすごい勢いで推してくる。隼人の名案はなんか嫌な予感がしてあまり乗り気になれないが、圭は話ぐらい聞いてやろうと思った。どうせ帰っても暇だ、時間潰しにはなるだろう。 「わかった、わかったから。行くよ。お前が仕事終わったって連絡したら家出るから」 「了解っ!」 隼人は冷めたコーヒーをぐっと一気に飲み干し、勢いよく立ち上がった。 「少し早いですけど、午後行ってきますね」 「あ、おう。またな」 「はいっ」 あいつは台風か。 思わず小さな溜息が漏れる。隼人のせいでチラチラと他の客からの視線も気になってきた圭は、パウンドケーキを食べ終わると、荷物をまとめ、店を出て行った。 隼人は定時の十八時きっちりに連絡を寄越した。圭は連絡を貰ってから準備をし、部屋を出た。圭の住んでいる部屋から隼人の部屋は電車を乗って三十分程度で着く。学生の時は毎日通った時期もあったため、慣れ親しんだ場所でもあった。 最寄り駅に着く頃、隼人から再び連絡が入った。 『改札出たとこいます!』 メッセージを見て、圭はまず隼人の定時から退社までの時間が気になった。もしかしたら営業マン特有の直帰かもしれない。そんなに早く自分に会って何があるのだろう。だいたい、明日は土曜日だ。会社の付き合いとか、合コンとかはないのだろうか。 もう着く寸前だったし、返信はせずに既読だけつけた。ホームに降りて、改札の向こう側を見るとにこにことこちらに手を振る男性が見えた。 「お疲れ。つーかその手振るのやめろ。未来の彼女にやってやれ」 「えー。圭さんは特別なのに。あ、今日夕飯どうします?」 「そうだなぁ…」 駅の周りを見渡した。飲み屋は数軒見えるが、無駄遣いは避けたい。就活の交通費だけでも今は気になってしまうのだ。 「時間も早いし、スーパー行きません?俺、久しぶりに圭さんの手料理食べたい」 「…最初からそれ目的だったろ」 「あはは。バレた?」 「まぁ、良いけど。簡単なものな」 「あ、じゃあオムライスか青椒肉絲」 「ならオムライス」 大した調味料も買ってなさそうなくせに、青椒肉絲とはよく言ったものだ。 圭と隼人は飲み屋が立ち並ぶ通りを抜け、駅近くのスーパーに入って行った。 「な、なんだよこれっ」 圭は隼人の部屋に入るなり、大きな声を出した。それもそのはず、隼人の部屋は足の踏み場が殆ど無いと言って良いほどの散らかり放題だった。いつ脱いだのかわからないシャツ、靴下、下着。コンビニ弁当のから容器、ビニール袋。読みかけの本や雑誌、新聞。全てが色々なところに散らばっている。 「お前な、これが人を呼ぶ部屋かよ」 溜息など消えてしまうほどだった。呆れを通り越して、圭は驚いていた。こんな状態で人を呼ぶ神経がわからない。 「ごめんなさい…でも、急に決まったことだったし」 「お前が言い出したけどな。ったく、先片付けるぞ」 買ってきたものを殆ど空っぽの冷蔵庫へ突っ込むと、圭は腕まくりをした。 「ぼさっとしてんな、さっさとやる!」 「あ、はいっ」 ぽかんとしている隼人は文字通り圭にケツを叩かれ、やっと動き出した。 ざっと片付けをし、ゴミをまとめて洗濯機を回した。足場が見えた所で、圭はオムライス作りに取り掛かる。その間、隼人には風呂とトイレ掃除を命じた。 自分が住むだけならとここまで気にしないで生きていける神経が分からない。確かに学生の頃から隼人が家事全般、きちんと出来ているところを見たことはない。料理は下手、洗濯物は溜めるだけ、掃除は面倒。進んでやりたくないのはわかる、誰だって楽をしたい。だが、ここまで何もしないことは無いだろう…。 「圭さんっ!両方終わった!綺麗になりましたっ」 「なら洗濯物、干しとけ」 「はーいっ」 返事だけははっきりと気持ち良い。学生の時よりも責任感はあるように見えたのはやはり見てくれだけだった。スーツが人をそう見せただけなのかと思うと、やはり溜息が出てしまった。 隼人が洗濯物を干し終わる頃にオムライスが出来上がった。掃除をしたため、遅めの夕飯になってしまったが、あの部屋の惨状を目の当たりにしたらそうせざるは得ない。それに、あのまま駅近くの店に立ち寄っていたらもっと遅くに掃除を開始する羽目になったと思うと、圭は苦笑いしかできなかった。 「いっただっきまーす!」 隼人が大きなスプーンで大きな口にオムライスを運ぶ。久しぶりにこの顔を見た。 「うまーっ!やっぱ圭さんのオムライス良いわ。とろふわなたまごが最高っ」 隼人の美味しそうに食べるその姿は、圭が溜め込んだ就活のストレスをスッキリさせるほど見ていて気持ちが良かった。 「で、俺のオムライスが食べたかっただけが理由か?」 「あぁ、そうだった。圭さんさ、無理して正社員にならないって選択肢も取ろうとしてるでしょ」 「まぁ、本来なら正社員で仕事に就いた方が良いけどな」 「なら俺と住みません?住むところとか探さなくてもいいし。俺、ここより広いとこに来月末引越しするんで」 「は?」 「ちょい給料上がったし、もうここも良いかなって。寝室とリビング分けたいんですよ」 さっきの惨状を見てからだと、分けたところで無駄ではないかと言葉が出かかったが、圭は黙って飲み込んだ。 「俺が来たら広くした部屋が狭くなるだろ」 「大丈夫っすよ。三部屋もあるから余裕です。それに、アルバイトでシフト制なら昼間家のことも多少は出来るかなって…。家賃は俺が持つし、光熱費だって」 「待て待て。普通そこで男の俺を誘うか?ここは彼女とかそういう」 「俺は圭さんとしか住みたくないですっ」 隼人は眉を寄せ、大きな声ではっきりとそう言いながらもスプーンを口に運ぶのはやめない。 「まぁ……願っても無い話だけど。でもそれ、俺がヒモみたいじゃねぇ?」 「ヒモは料理しませんよ」 「するやつも居るだろ」 「料理してくれて、掃除も、洗濯もしてくれるんだからヒモじゃないです。むしろお嫁さんです」 「アホかお前」 今度は不貞腐れ、唇を尖らせた。圭は黙って自分のオムライスを食べ進める。願っても無い話、本当にそうだ。でも、そのおいしい話に簡単に飛びついて良いのだろうか。しかも相手は後輩である隼人だ。 「良いじゃないですか。どうせ引越し先もまだ探してないんでしょ」 「そうだけど…。お前、女の子だって連れ込めないぞ」 「学生の時だって連れ込んでませんよ。っていうか、そういうの良いから俺のこと来いって言ってるの」 「だから、そういうことは大事な女の子に」 「あーっ、もう。そうじゃなくて!俺の大事な人は圭さんなの!」 大きな声が部屋に響く。幸い、隣の部屋は空き家で、ここは角部屋だった。圭は隼人の勢いに負け、後ろに手をついて彼を見上げている。一方で前のめりになり、大きく肩を揺らして息を整えながら、隼人は圭を真っ直ぐ見つめていた。 「ま、待て待て。落ち着け」 「落ち着いてますよ」 「どこがだよっ」 態勢を整え、二人で座り直す。気まずい空気が流れる。 「お前、そっち?」 「そっちって言うか、圭さん限定」 「…いつからだよ」 「大学三年の時から」 言われなくても察しはつく。隼人が頻繁に圭の部屋を出入り始めたのは二年の頃だ。その時はまだ色々遠慮がちな部分もあったが、次第にその遠慮は消え、隼人は自分の部屋にも圭を招き入れるようになっていった。 「圭さんは、俺のこと嫌い?」 「え、いや嫌いとかじゃないけど」 「なら一緒に住もうよ。俺、圭さんなら養いたい」 「バカ。何言って」 「お願いしますっ。俺が生活能力向上するまででも良いし、圭さんの職が安定するまででいいからっ」 隼人は手をついて頭を下げた。急なことを言われ続け、圭の頭は混乱している。 「ちょ、頭上げろって」 「いやだ、圭さんが良いって言うまで上げないっ」 「ふざけんなっ。そしたら良いって言うしかないじゃんかっ」 すると急に頭を上げた隼人が圭の手を強く握りしめた。 「圭さんっ」 「な、隼人っ。お前な、離せっ」 手を強く握られたまま、強く見つめられる。改めて気持ちをぶつけられ、困惑をしているところに付け入るあたりタチが悪いと思ったが、その強い視線に心臓がバクバクと大きく反応をしている自分がいた。 認めたくないが、認めるしかないのか。しかし、隼人には悪いが好条件過ぎて手離すのも惜しい。 「うーーっ」 唸りながら、下を向いて圭は頭の中を一気に整理し始める。 「圭さん、あの」 自分に好意のある男と一つ屋根の下。でも、相手は隼人だ。今まで何もなかったんだから、きっと…。 「わかった、分かったよ…良いよ、住む。住ませてもらう」 「えっ!ほ、本当っ」 握られたままの手に、更に力が加わる。思わず顔をしかめた圭を見て、慌てて隼人が手を離した。尽かさず謝ったが、手は赤い。解かれた手を圭は揺らながら溜息をついた。 「でも、俺が世話になるのは自分の職が安定するまで…だからな」 「はいっ!」 安心したのか、隼人は食べている途中だったオムライスにまた手をつけ始めた。その姿をみて圭は脱力した。 久々に真剣に告白をされた。それもまさかのしょっちゅう連む男の後輩に。告白をされたの初めてでは無かったが、男相手は初めてだった。変に気を張ってしまい、はっきりとした答えも言わないまま、呆気なく同居を承諾してしまった自分は彼に対してどんな気持ちを示したらいいのか。というかあれはそもそも告白と呼んで良いものなのか…。 考えれば考えるほど頭が痛くて、その日は終始ご機嫌な隼人にただ合わせるだけで疲れてしまった。 圭と隼人の同居生活は月末から始まった。 もともと社宅だということを考慮していた圭は殆ど荷物がなく、引っ越した先にベッドを持ち込んでも部屋の広さは余るほどだった。 二人一部屋、リビングと他は共有。自分のスペースまで確保させてもらえるとは思っておらず、圭は隼人に心の底から感謝した。 「こっち、あらかた片付け終えたぞ」 自分の部屋の物を片付け終えた圭は、隼人の部屋を覗いた。 「あ、俺も終わります」 リビングもソファーとローテーブル、テレビ台にテレビを設置するぐらいで殆ど終わった。 「圭さん、俺ローテーブルだと足痛いからちゃんとテーブル買おう。明日、見に行こう」 「嫌味かお前。その足、ちょん切ったらいい」 「え、それより圭さんが背伸ばして俺の気持ち分かってみせてよ」 隼人はケタケタと笑って返してきた。ムスッと膨れた圭は、どっかりソファーに座って不貞腐れる。 隼人が提示した条件は圭にとって好条件ではある。むしろそのまましてもらいっぱなしは良くないと考え、引越し業社手配は圭が行った。そのせいで貯金はもうあと少し。手当金がはいるのも、最近始めたアルバイトの給料も来月に初めて入る。切り詰められるところは切り詰めていきたい。それを分かってて提案する隼人は全部自分が払う、とまた言い出すだろう。それが気に入らなかった。 「あ、怒った?」 「怒ってない。けどムカついてる」 「それを世間じゃ怒ったって言うんだけどなぁ。俺が欲しいだけだし、お金は心配しないでよ」 「だから、嫌味かって言ってんの」 「えー。でもこれからたくさん俺の方が世話になると思うんだけど」 「数字化したら俺のが何もしてないように見えるだろ」 圭は営業マンなら分かれ、と付け加えまたそっぽを向いた。 「じゃあ、何したら気が収まるの?あ、お金は一旦忘れてさ」 そう言われ、考えてみるがパッと浮かばない。使うお金もない。食事はこれからほぼ毎日作る。洗濯も掃除もそうだ…。でもこれは、ここに住まわせてもらえるための条件だ。他に何が…。 あまりにも難しい顔付きで悩んでいるため、隼人はくすくすと笑い始めた。 「じゃあさ、俺が提案して良い?」 「なんかして欲しいことあったのか?」 「うん。すっごいして欲しいやつ見つけた」 隼人はソファーに腰掛け、圭に近付き、耳元で囁いた。 「キスして」 「んなっ!」 勢いよく立ち上がる。真っ赤に染め上がった顔に、見開く目。そして焦りと驚きで息が苦しい。 「別に初めてじゃないでしょ」 「そ、そうだけどっ!」 「減るもんじゃないし」 「いやいやいやいや!魂抜ける」 「俺死神じゃないんだけどっ」 「ていうか、そんな急に軽々しく言うなっ」 すると、手首を掴まれ圭は隼人に抱き寄せられた。 「なっ」 「軽々しく言ってない。俺だって緊張してる」 ばくんばくんという音が確かに聞こえる。しかし、自分の心臓も煩くて隼人の音かどうかはっきりとわからない。 「一回、したら……慣れたりします?」 「はぁ?なに言っ」 隼人は圭が文句を言おうと顔を上げたすきに唇を塞いだ。重ねるだけでは足らず、小さな隙間を見つけてするりと舌を忍ばせる。 「んんっ」 くぐもった声と鼻から抜け出る息が熱い。侵入してくる隼人の肉厚の舌は、小さく震えて縮こまっていた圭の舌を搦めとる。唾液が絡み合い、脳の方まで熱が上がっていく。上顎を舌先で撫でられると、背中がゾクゾクした。 息苦しくて、離そうにもなかなか隼人は引き剥がれず、どんどん深く深く角度を変えて迫ってくる。口腔を蹂躙され、圭の中にもだんだんと快感がこみ上げた。 辿々しく、答えるように舌が隼人に合わせて動く。頭がぼうっとして、ただ気持ち良い気分に浸った。 「ふっ、んぁっ……」 ゆっくりと重ねた唇を離すと、銀色の線が間を伝い、ぷつんと切れた。隼人が視線を落とすと、とろんとした目で彼を見つめる圭が顔を赤くし、息苦しさを補うように空気を吸っては吐いている。 「圭さん、めっちゃ可愛い顔してる…」 圭の頬を撫で、隼人が言った。 「っとに…。慣れるわけ…ないだろっ」 全身の力が入らない圭は、言い返すのもやっとだった。口元を片腕で隠し、もう一方の手のひらで額を覆う。 「毎日したら、慣れませんか?」 「し、しねぇよっ!バカっ」 力の入らない腕で圭は隼人の胸を叩く。 気を失いかけるほど気持ちよかった、なんて口が裂けても言えない。こんなのが続いたら身がもたない。もっと別のことを求めてはくれないだろうか。 心臓が正常音に戻らない。キスは初めてではなかったが、こんなに深いのは今まで知ることもなかった。 「圭さん、とりあえず休んでてください。俺、ちょっと出てきますから」 圭は引き寄せていた身体を離され、ソファーに寝かせられた。そばにあった温もりが消え、少し切ない。 「どこ、行くんだ。買い物なら俺も…」 「ダメ。その顔で外出せないし。それに、俺も我慢できそうにないから」 苦しそうに眉を寄せ、苦笑いを浮かべる。自分から仕掛けておいて情けない。そう言う文句は喉のところまで出掛かっていたのに、圭は思わず隼人に手を伸ばしてしまいそうになる。流されて、そのまだ先まで期待している自分が恥ずかしい。 圭は顔を背けて小さな声で「わかった」と言った。 「必要なもの、連絡くれれば買ってきますね」 ゆっくりとソファーから立ち上がって、隼人は自室に向かう。上着を手に持った隼人が玄関から出て行く音を確認すると、圭は昂ぶった自身に手を当てていた。 もともと隼人はスキンシップが多かったが、あのキス以来、圭は隼人に対しての警戒心が増していった。気にしない、そう自分自身に言い聞かせてはみたが、気にするだけ意識してしまい、隼人と話すことすらまともに出来なかった。 あれから数週間が過ぎ、アルバイトをしながら家事をこなし、隼人と一緒に食卓を囲む。当たり前なのだが、あのキスをしてからというもの、顔を見るのも恥ずかしくて仕方ない。 最初のうちはいつも通り振る舞ってくれる隼人に頑張って合わせていたが、顔を見るたびにどうしても赤面してしまう。 今までの生活で隼人が支障になることは一切なかったのに、あの日からやはりおかしい。動悸が激しく、家にいると常に目で追ってしまう。なのに、目が合うと慌てて逸らす。初恋を拗らせた中学生みたいで余計に情けない。 今朝は昼食用の弁当を隼人に渡すだけなのに、顔を逸らして渡した。 「圭さん、いつもありがと」 「…ま、まぁ…約束だしな」 「うん。今日はバイト?」 「いや、休みだよ。溜めた分の家事やるつもり。午後は職安行こと思ってるけど…あ、遅くなるなら連絡しろよ」 「はいはい」 ふと、圭が隼人の顔を見上げると、にやにやと嬉しそうに笑って鞄に弁当を入れていた。 「なんだよその締まりのない顔。気持ち悪い…」 「ひどっ!だって、なんか圭さんが俺のお嫁さんみたいでさぁ。良いなぁーって。あ、行ってきますのチューぐらいしても」 「さっさと行け!」 「あ、ちょっと、圭さんっ」 靴もまだきちんと履けていない背中を思いっきり押して、圭は隼人を外へ追い出した。 バタン、と大きな音を立て閉めたドアに早々と鍵をかける。外から大きな声で「行ってきまーす」と聞こえたが、答えることはしない。そんなものに付き合っていたらまた付け上がってしまう。 圭は赤く染まった両頬を抓りながら、自分の朝食を食べにリビングへ向かった。 午前中に溜めていた洗濯と掃除を終え、家で昼食を簡単に済ませると、職安へと向かった。 「えーっと…。カレーが続いたから、今日は何にしよう」 スーパーに寄るのは帰りなのだが、圭の最近の独り言は完全に主夫感が増していた。何を作っても美味しいと食べてくれるため、作り甲斐はある。だからこそいつもと違うものをなるべく作ってあげたいとも思ってしまい、夕飯の献立に関してブツブツと独り言が増えてしまった。 圭と隼人が住むマンションから電車で三十分程行った駅近くに職安はあった。 就活なんてここ最近していないに等しい。今はとりあえずアルバイトをしてお金を作り、時々職安に向かう。条件が良さそうなところは見学や面接を進んで行くが、なかなか決まらなかった。 今日も担当の職員とあれやこれやと面談をし、新しくまとめてもらった求人リストの説明を受けていた。給料はだいぶ落ちる覚悟で見てはいるものの、かなりの減額に肩を落とす。それに前職のノウハウなんて全く役に立たなさそうな工場勤務まで出てきてしまった。 やはり、自分で転職サイトを駆使して探した方が良いのだろうか…。こんなチビで大した役職もなかった童顔のアラサー欲しがる職があったらだけど。 溜息をついてしまい、目の前の職員にはものすごい勢いで励ましの言葉を貰った。 その帰り道だった。 職安から出て、駅へ向かう途中、圭が横断歩道の信号待ちをしている時だった。 向かい側の通りを女性と歩く見慣れたスーツ姿の男性が見えたのだ。その姿を見てこの近辺は隼人の営業範囲内なのを思い出した。 しかし、楽しそうに歩く二人。女性の距離は明らかに近すぎると感じる。長い綺麗な髪を耳にかける仕草、コートの下から見える白いニット、少し高めのヒール。近くにいないのに甘い香水の香りさえ想像もできた。自分とは全く違う。そりゃそうだ、相手は全然違う女の子なのだ。姿形はあっちの方が全然可愛いらしくみえる。自分はもう三十のおっさんだ。 なんだあれ。あいつ、やっぱり女の子の方が良いんじゃんか…。 胸の奥が、チリ、と痛んだ。 思わず舌打ちをしたが、どうにもモヤモヤと胸の奥のざわつきが収まらない。 頭に熱が登った圭は、スマホを取り出して隼人へメッセージを送っていた。 『今、なにしてる?』 『今ですか?仕事してますよ』 この大嘘つきがっ! 圭は更に大きな舌打ちをした。 返信のタイミングと向かい側の男の動きは完全に一致している。女性がスマホを覗き込んでいるのも見え、圭の苛立ちは増すばかりだった。 きっと、男相手にからかってる、とか何とか言って二人の話のネタにされているに違いない。そう思うと、更に怒りが増す。隼人のために夕飯のメニューがなんだと考えていたことが馬鹿馬鹿しく思えた。 なのに、どうしたって横目ではチラりとまたあの二人の様子を伺ってしまう。どうやら喫茶店に入るらしい。 仕事と嘘までついてデートとは。大層な身分だと、圭は眉間に深く皺を寄せ、その場から立ち去った。 「ただいまーっ」 元気な声が玄関に響いた。いつもならこの声に対して「もっと静かに入れないのか」と叱りつける声がするが、今日はそれがない。 「あれ。圭さーん?」 リビングは電気が付けっ放しで、最近買った新品のテーブルには今日のおかずがラップに包まれ置かれていた。 隼人は腕時計を確認する。圭が自室にこもるにはまだ早い時刻だ。 先程連絡を入れた際は、普通に返事が来ていた。具合でも悪いのだろうか。 隼人は自室にコートとスーツのジャケットを置いてから隣の部屋のドアをノックした。 「圭さん?具合悪い?」 返事はない。ドアノブを掴むと、鍵は開いているようだった。ゆっくりドアを引く。しかし、中は暗くて誰もいない。 「えっ…圭さん?」 もしかして。 嫌な予感がした。隼人の額にはじんわりと汗が滲む。自分が好き好き言いすぎた挙句の果てに嫌がられたのか。 「嘘、嘘嘘っ!え、まじ、えっ、どうしようっ!えっ」 バタン!玄関のドアが閉まる音が響いた。 「うるせぇぞ、隼人。なんの騒ぎだ」 急いで部屋から顔を出すと、玄関には圭が立っており、眉を眉間に寄せていた。 「あっ!なに人の部屋勝手に入ってんだよ」 圭が慌てて靴を脱ごうと屈む。すると、後ろから隼人に抱きしめられた。 「は、隼人、なん」 「よ、良かったっ…で、出ていかれたかと思って」 「……ゴミ捨てだっつーの。ほら、どけ」 引き離そうと力を入れて腕を掴むが、びくともしない。 「色々あったから……焦って」 隼人はさらに力を込める。圭も負けじと力を込めるが、案の定だった。 「色々って……なんだよ」 「えっ。あ、ほら、この間の」 「あーわかった。認めるんだな。お前やっぱりやましい事あるんじゃねぇかよ」 「え?」 力が緩んだ隙に、圭は隼人の腕から擦り抜けた。隼人は困惑した顔をしている。無理もないだろう、圭は一切昼間のことについて触れていない。 「嘘までついて、女の子とデートって。仕事、楽しそうで良いな」 「はぁ?なに言ってんの、圭さん。ちょっと落ち着いて」 「うるさい嘘つきが!」 「ちょ、嘘なんて俺、いつついた?ていうかなんのこと?」 限界だった。圭はさっきよりも一層眉間の皺を深く寄せ、隼人を睨む。痛い程の視線に、隼人も何かを感じ取ったのか、言い返すのをやめて黙りこくった。 「昼間…お前、女の子と歩いてただろ」 「昼間……。あ、あれか」 「そうだよっ!なのにお前、仕事だとか言って。随分楽しそうな仕事じゃねえか」 「やだなぁ、圭さん。あれは妹で」 「そんなベタな展開認めねぇっ」 「え、圭さん怒ってるの?」 「知らんっ」 圭はキッチンの方へすたすたと歩く。その後ろを口元を片手で抑えながら付いて回る隼人。冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、強めに閉めた。 「なにがおかしい」 嬉しそうに圭をじっと見る隼人。頬は少し赤くなっている。 「にやにやすんなよ気持ち悪いっ」 「え、だってしないわけ無いでしょ。こんな嬉しいのに」 「はあ?」 圭は取り出したペットボトルに口をつけ、一口水を飲んだ。 「いやぁ、圭さんが嫉妬するなんてさ。俺思ってなくて」 「は?嫉妬。誰が」 「誰って…圭さん以外にいないでしょ」 「俺は別に…」 圭は顔を背けたが、隼人は尽かさず追いかけて顔を覗き込む。 「あれは妹。嘘じゃ無いっスよ。去年大学卒業して就職こっちでしてて、先週行った営業先のビルが妹の会社近くだったんです。だから今日行く前に連絡してそれで…あ、もちろんお弁当はちゃんと食べてきましたよ!」 疑わしそうな顔を向けながらも、頬を赤らめている圭を見て、隼人はくすくす笑う。 「だから、圭さんが心配するような間じゃ無いです」 「俺は心配なんてこれっぽっちもしてないっ」 「またまた。そうやって意地張ると俺、我慢できなくなりますよ」 今度は逃さないように脇の下から腕を通す。手首を軽く掴まれ、手の甲にキスをされ、圭の赤くなった顔はみるみるうちに真っ赤に変わる。 「そろそろ観念したらいいじゃないですか。俺がいないと生きていけないって」 「それ、どっちの意味で言ってるんだよっ。お前…本当、タチ悪い」 「それは、俺のこと好きだって肯定したと取りますけど」 「……勝手にしろよもうっ」 ふふふ、と笑った隼人は圭の耳に優しくキスを落とした。肩を上げ、擽ったそうに身動ぐが、今度は逃げようとしない。 「隼人、お前夕飯は」 「後で」 顎を持ち上げられ、隼人の唇が圭の唇を塞ぐ。触れているだけなのに、熱が伝わり、身体中が熱くなる。 「ふっ…ぁ」 少し離れて、また重なってを繰り返され、もっと深いものが欲しくなってただ切なくなる。圭が喉を鳴らし、隼人の腕を軽く掴むと、隼人はそれを合図として、口内に舌を滑り入れた。じわりと歯列をなぞりあげる。 「んぁっ」 圭の舌先を口内へと引き込み、噛んだり啜り上げる。時々漏らす圭のくぐもった声が隼人を興奮させ、執拗に同じところを攻められた。 「っ、ぐ」 圭が上手く息継ぎが出来ず、苦しげに声を漏らした。隼人が慌てて唇を離すと、圭は口元を唾液で濡らしながら肩で息をしていた。 「……ねぇ、やっぱ我慢出来そうに無いって言ったら……どうする?」 隼人はネクタイを緩め、シャツのボタンを開けながら言った。 「っとに……今更…男で萎えたなんて言わせねぇからなっ」 圭は隼人の襟を掴み、自ら彼の首を引き寄せて噛み付くように首元に跡をつけた。 煽られた隼人はそのまま圭を横抱きにし、自室へと連れ込む。荒々しくベッドに投げ入れ、組み敷くと、さっきよりも深く口付けた。 「腰痛い……このクソ絶倫……っ」 圭は頭に敷いていた枕を思いっきり横に寝転がっていた隼人に投げつけた。 「痛っ。顔面…」 「煩い。一瞬の痛みと持続性のある痛み、どっちが辛いと思う」 「とか言っておきながら、気持ち良さそうに」 「煩い煩い煩い煩いっ」 顔を赤くしながら圭は隼人の肩をポコスカと軽く殴った。 「あははっ照れない照れない」 「照れてないっ!」 大きな声を出しながら勢いよく身体を起こしたせいで、圭の腰に激痛が走り、声にならない悲鳴をあげた。 「圭さん、落ち着いて。嬉しいからってそんなに興奮したらまた痛めるよ」 「おめでたい頭だなっ」 毛布を被り、圭は隼人に背を向けた。 「怒った?」 「怒った」 「圭さんは怒っても可愛いよ」 「俺がそんな言葉で機嫌なおると思うか?」 ゆっくり身体の向きを変え、圭がジト目で唇を尖らせると隼人は嬉しそうに笑った。 「なおるよ。圭さんは俺に甘いもん」 「…五分後に改める」 「え、直さないでよっ」 隼人はぎゅっと抱きしめ、自分の方に圭を引き寄せた。 「ずっと甘やかしていいよ。俺も圭さん甘やかして生きていくって決めたから。生活だって今のままが続いたって良い」 すると、圭は力のない拳で隼人の頭を小突くと鼻で笑った。 「甘やかされっ放しはごめんだよ」 被っていた毛布から抜け出し、圭は近くに脱ぎ捨てた服を被る。 「どこ行くの。腰痛いんでしょ」 「風呂溜めてくる。あと、飯…お前食ってないだろ」 「うーわ。俺甘やかされてる」 「されっ放しはごめんだっつったろ」 くすくすと照れながら笑い、圭は部屋を出て行く。 急にデレた彼の表情を目の当たりにした隼人は困惑して、赤面したまま固まって動けなくなった。 「さっさと来いよ」 「うっす!」

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