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第1話

 ――手前を殺すのは俺だっつっただろ。 「何勝手におっ死のうとしてやがる、――|首領《太宰》」  忌々しくも予想は的中した。非常階段の扉から飛び出せば、頭上から降下する太宰の姿。此れも手前の計算の内か――柵に脚を掛け両腕を太宰に向かって伸ばす。  野郎の躰を受け止め、背後から非常階段へ倒れ込む。黒い外套と襟巻は地面へと落ちて行き、まるで其の儘太宰が落下して行っている様だった。  太宰の躰は想像よりずっと軽く、中身が入って居ないのでは無いかと不安に為る。若しかして此奴の中身はあの外套と共に逝って仕舞っていて、此の腕の中に在るのは太宰の抜け殻なのでは無いかと疑う程に。 「……オイ、糞太宰」  ポートマフィア首領である太宰治は此の時点で死んだ。今腕の中に居るのは数年間黒社会の黒幕を演じて来た一人の弱い男。出逢った頃から小賢しく小生意気で、時には相棒で、ずっと一人で戦って来た――唯一の、  カチャリと音がして意識を向ければ、太宰が何処に隠し持っていたかも判らない拳銃を自らの|蟀谷《こめかみ》に当て流れる所作で撃鉄を起こしていた。ハッとして胸元に手を入れれば拳銃嚢に入れていた俺の拳銃が無くなっていた。  パンッ  乾いた音が霧散する。弾は上階の踏み板を貫通した。寸での処で太宰の腕を摑んで軌道を逸したからだった。  其の瞬間の太宰の眸を俺は直視して仕舞った。海の底依り昏く淀んだ色、其の眸に俺の姿なんて全く映っては居ない。昔何処かでそんな眼をした太宰を見た事が有った。あれは何時の事だったろうか。  俺より少し早く準幹部から幹部に昇進した太宰が当時の首領に呼び出された。其の日の晩だ。放っておけば飯すら食べない太宰を引き摺り出す為に奴の部屋に向かうと、夜だというのに照明も付けず部屋は真っ暗だった。  そう、あの晩は矢鱈と月が赤くて大きかった。暗い部屋の中太宰は窓辺に立って月を見上げて居た。  ――オイ、糞太宰。  声を掛ければ少し間を置いて振り返る。思わず息を呑んだ。左眼から流れる一筋の泪。月明かりに照らされ神秘的な輝きを放って居たが、太宰の眸其の物は一切の光りを宿して居なかった。――あの時と、同じ眼の色をしている。  ――月が奇麗だね。  そう云って太宰は口許だけを動かして笑った。其の僅か数日後、太宰はポートマフィアの首領に為ったのだ。  あの時も手前は死にたかったのか。今みたいに。 「何故死なせて呉れなかったんだい……」  蚊が鳴く様な小さな声で太宰が呟いた。頭部に巻かれた包帯が緩み、隠されて居た左眼が露呈する。何て事は無い、唯の眼だ。其の眸一杯に泪を溜め、溜まり過ぎた泪が頬を伝い流れ落ちる。  ――手前を殺すのは俺だから。  流れ落ちる泪が勿体無く思えて頬から上へと舐め上げた時に判った、舌先で感じる太宰の頬の冷たさ。両手で太宰の顔を掴んで唇を重ねる。  非常階段に響く荒々しい吐息と水音。 「……は、ぁっ」  色めいた吐息が太宰から聞こえると唇を離して奴の眸を正面から見据える。太宰は未だ何処か惚けて居るかの様な表情で、視点がいまいち定まって居ない。 「死なせて……」 「噫、殺して遣るよ」  背中と両膝の裏に手を回して抱き上げれば、律儀にも両腕を首に回して来る。此奴に触れて居ると異能力が使えないのは厄介だが、今はそんな事を気にしている暇は無い。  もう直ぐにでもポートマフィアは大混乱に陥る。組織の首領が投身自殺を図った上姿を消して仕舞ったのだから。  首領だったもう太宰は此の世の何処にも居ない。俺の腕の中に居るのは一人で頑張り続けた唯の自殺志願者だ。  太宰を抱えた儘正面門を出る俺に広津は何かを云いたそうだったが、結局は引き留める事もしない儘俺を送り出した。  後部座席にでかい男を転がして、|駆動機《エンジン》を入れて建物から、横濱から離れた。  此の後に及んで俺を、太宰を追う奴なんて居る筈が無かった。其れでも出来るだけ遠く、誰も手が届かない土地へと車を飛ばす。  一昼夜走り続けて辿り着いたのは横濱からずっと北、未だ少し寒さの残る本州の末端だった。  誰も使って無さそうなぼろぼろの古民家の一つを勝手に拝借して、愚図る二十二歳児を無理矢理車から降ろして引き摺り込む。布団が黴臭い等と文句を垂れて居たが、雨と風さえ凌げれば今は其れで佳い。  其れから俺は太宰から様々な話を訊いた。此の世界が無数に在る可能性の一つで有るという事、一冊の『本』に拠って創り出された世界で有る事。初めは荒唐無稽な話かと思ったが、太宰が云うのならば間違いは無いと思った。 「織田作が生きて小説を書き続ける世界を私は壊したく無いんだ……」  誰だ、オダサクとやらは。  太宰の言葉を借りれば三人以上の人間が此の事実を知ると世界が不安定化し『本』を使う必要も無く此の世界が崩壊する可能性が有るという事らしい。知っているのは太宰と丁稚の敦、探偵社の芥川という男、そして此の俺で四人に成った。  オダサクというのは探偵社の人間で、『本当』の世界では太宰の友人だったらしい。其の男が生きている此の世界を護りたいが為に此奴は死を選んだ。  ――其の探偵社の男は長年の相棒だった俺より大切な男だってのか?  云われてみれば、あの日から陽射しを見ていない。空は分厚く薄暗い雲に覆われ続け、夏も近いというのに気温は二桁に至る事が無かった。  此の世界は本当に崩壊すると云うのか。 「太宰」  硝子も嵌められていない木枠の窓の外を不安気に見詰める太宰に声を掛ける。食糧ですらそう満足に在る訳では無い。数日に一度山に入って獲って来た肉や川で採れた魚を簡単な調理だけで食べる生活を続けて何日が過ぎたのだろうか。 「……もう直ぐ、世界が終わる」 「終わらねぇよ」 「終わるよ」 「俺が終わらせねぇ」  驚いた様な表情で太宰が俺を見る。 「っはは、君という男はとんだ|利己主義者《エゴイスト》だね」  久方振りに、太宰が笑った顔を見た。其れこそ何年振りに為るのだろうか。此奴が首領に為った其の日から、一度足りとも俺は太宰が笑った処なんて見た事が無かった。 「手前にだきゃ云われたく無ぇよ」  たった一人の人間の為だけに自分の命を犠牲にしようとした手前が一番の利己主義者だろうよ。 「手前の推測じゃあ世界が崩壊する”可能性が有る”ってだけだ。あれから何日経った? 未だ世界は崩壊しちゃいねぇ」 「――そんなの、悪魔の証明だ。明日滅びるかも知れない」 「あっそ。んじゃあ――」  今にも崩れ落ちそうな木枠の寝台に膝から乗るとみしりと厭な音がする。片手で折れそうな首を掴み掌から太宰の脈を感じる。太宰は僅かに微笑んだ。漸く死ねると考えたのだろう、全く忌々しい。 「敦も芥川も俺が殺して遣るよ」  此れで真実を知る者は此の世で自分と太宰の二人だけに為る。  太宰の瞳孔がきゅっと縮まるのを間近で見た。其の眸の中には俺の姿が映って居る。太宰が惚けて居た時間はどれ位だったか、其の悪魔の様な驚異的な頭脳の中で何通りもの演算を繰り返し、奴にとっての最適解を弾き出すのに要した時間はそう長くは無かった。 「君を地獄への道連れにしてやる」  其れは悪魔の笑みだった。右目から泪を流す此の悪魔は喉を掴む手をやんわりと絡め取り、俺の掌に口吻た。 「何処迄も、抗ってみようじゃあないか。此の世界を作り出した『神』に」  窓の外では真っ蒼な月が靜かに俺達を照らして居た。

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