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第一話 悲痛の足音

 優しい風が心地よい、爽やかな晴天が広がる大空の下だ。肌をかすめる新鮮な空気を、ルトは胸いっぱいに吸いこんだ。 「ルト、ルトー、見て!」  色とりどりの花が開く庭園の前で息を整えてから、はしゃぐ声へ振り返った。今朝、ルトと一緒に、花の水やりをすると張り切っていた、小さな男の子に視線をやる。 「どうしたの? ジャン」  ジャンと呼ばれた幼い子が、一輪の花の前に座りこみルトを手招きした。ジャンの周りでは、同じく水やりをしていた村の子どもたちが、数人くるくると駆け回っている。  子どもたちの足元では、ルトが今朝早くに山の湧き水から汲んできた水が、土の上で小さな池を作っていた。  水やりをするルトを手伝うというのは建前で、水遊びをして喜んでいる子がほとんどだ。ルトはそののどかな光景に口元を緩めながら、ジャンの傍に足を向けた。 「ジャンー?」 「これ、このお花ね。昨日はまだ咲いてなかったの。でもね、今日はお花がこんにちはしているの。とってもきれい、ルトの、目と、おんなじだね」  ほぅと頬をうっすら赤らめ、ジャンは小さな息をはきだす。ルトは、ジャンの視線を追って背をかがませた。動きに合わせ、陽光を反射する艶やかな黒い短髪が揺れる。そして宝石にも劣らない、少し潤んだ紫水の瞳を細ませた。ジャンがきれいといった花は薄い紫だった。  このシーデリウム大陸において、人間だけが住むヌプンタ国ではルトのような透明感のある瞳をもつものは少ない。村の人たちとは違うこの瞳を、ルトは忌々しく思っていた。自分だけが異質な気がして。だがこうして純粋な気持ちをもらったら、苦笑せずにはいられなかった。 「俺の目は、こんなに綺麗だったかなぁ? ありがとね、ジャン」  子どもたちの世話係のルトは、十四という年齢より幾分か成熟した言動をする。しかしその背格好は、少年らしい体躯を色濃く残していた。子どもらしい丸みを帯びた輪郭に、大きな瞳。細い身で、背もそれほど高くない。どちらかというと発達が遅れ気味だ。  ルトは、柔らかな指先で、薄い紫の花びらを愛でた。ルトに触れられた花びらから水滴が一粒ながれ落ちて、花が静かに揺れていく。花がルトに応えたようだった。  しばし優しい空気が流れていれば、ジャンがぴたりと寄り添ってくる。子どもの高い体温を、近くで感じた。横目をやれば、口をつぐんだジャンの瞳が不安げに揺れている。気まぐれを起こしやすい幼い心は、先ほどの興奮をどこかへ置いてきたらしい。  ルトの繊細な指は、今度はジャンのこげ茶色の頭にのびた。 「どうかしたの、何か、あった?」  ルトに促されたジャンは、ぼそりと呟いた。 「ぼく……、この前、みたんだよ。オオカミみたいなおおきな耳と、しっぽと、とがった爪の……。そのこわい人が、村長さまのおやしきにはいっていったの」  ルトは息をのんだ。ジャンの髪に触れた指が一瞬止まる。狼のような耳と尻尾と鋭い爪。それらを有する種族は獣人族しかいない。  この世は、獣人の帝王を頂きに掲げるシーデリウム大陸だ。ここには三種族の国がある。もっとも大きな、シーデリウム帝国は獣人の国だ。次に、魔術師たちが住む国を共存国として、最後に力なき人間だけが住むヌプンタ国を、隷従国として成り立っていた。 「ぼく、こわいよ。どうしてオオカミの人が村長さまに会いに来たの? 村長さま、何ともない? 痛いことされてない?」 「ジャン……」  ルトのすぐ横で、ジャンが大きな瞳を不安と怯えに揺らしてくる。どう言ってあげたらいいのだろう。実際に見ていないからルトには実感が持てない。けれど、ある日突然、獣人と遭遇してしまったジャンは衝撃だったろう。てきとうに受け流して、大丈夫と無責任なことは言えなかった。  ヌプンタの片隅にある、ルトが暮らすシャド村は裕福ではない。けれども、木々や花が豊富で、あたたかい場所だ。村には笑い声が響きルトを育ててくれた村だ。ルトはこの綺麗な村が、それに優しい家族のような村人たちが好きだ。  ちっぽけなささやかな幸福を、この世の頂点に立つ獣人が搾取して、満足する物は何もないはず。そう思うが、だとしたら、こんな小さな村へ獣人が来る必要もないはずだ。  圧倒的な力を持つ獣人の恐ろしさは、親から子へ、さらに消えない歴史が物語る。  獣たちの横暴を受けたらルトたちにはなす術がない。隷従を強いられる人間は、獣人には逆らえない。大事な人を助けたい、力になりたいと、どんなに踏ん張っても誠意をみせても、この花のように無力だ。  誰かが手を差し伸べなければ生きていけず、慈しまれれば開花する。当然、目障りだと思われたら踏みにじられて散らされる。  ルトは止まっていた指を動かして、ジャンの頭を撫でた。小さな子どもたちを守る役目の自分が不安をみせてはいけない。胸騒ぎに、かすかに震えた指はごまかせただろうか、恐れに身を寄せてくる小さな子に、気づかれていなければいいが。 「びっくりしたね、ジャン。でもその怖い人は、ジャンに何もしなかっただろ? 村長さまだって元気だ。今だってみんな元気に遊べている。怖い人が来ても、今までとなんにも変わってないし、これからも痛いことは何もないよ」 「ほんとう? じゃあこわい人はいじわるしない?」 「うん、きっともう帰ったよ」  ジャンの頭を撫でる自分の手のひらに集中する。ルトの手の内から、目に見えない穏やかな力が流れ出した。ルトには癒しの力があった。ジャンの不安が和らぐように、ルトは生まれ持った力を発揮したのだ。  癒しといっても傷を治したり、病気を治癒したりする本格的な能力ではない。単に、不安や苦痛を取り除く、あるいは負の感情を和らげるといった簡単なものだ。  さまざまな魔術を扱う魔術師たちに比べると、力が不十分で、力なき人間と大差ない。もしかしたらルトは、魔術師と人間のあいの子かもしれないと、村長に言われていた。  ルトの手に癒されたのだろう。緊張していたジャンの身体が心地よさそうに弛緩する。癒しは成功したらしい。ルトがほっと力を抜けば、やけに慌てた足音が、離れた場所から近づいてきた。 「ルト! ルトっ! 今すぐ来てちょうだいっ、お父さんが、あなたを呼んでいるわ」 「アデラ」  慌てた声にルトは身体を起こし声のほうへ振り返った。いつもは茶色の長い髪を綺麗に結わうアデラは、今日はよほど急いでいるのか無造作に下ろしている。  ルトより五つ上の彼女は、村長の愛娘だ。村長が呼びつけるとは何事だろう。ルトはアデラに子どもたちの身守りを任せると、急いで村長の屋敷に走った。 ***  村でいちばん大きい屋敷に通される。書斎らしき一室で、厳しい顔をした村長が、ルトに一枚の手紙を渡してきた。手紙を差し出されたルトは困惑する。  こうして、ルトに書き留が届くことなど一度たりともなかった。そしておそらくこれからもない。手紙もそこそこに、ルトは目の前の村長を見た。 「村長さま……?」 「よく来てくれた、ルト。すまないが、この老いぼれの頼みを、聞いてくれるか」  いつもの穏やかな声が硬い。そこでようやくルトは、差し出された手紙をしっかり見た。手紙の端には獅子王のプリントがくっきり浮かんでいる。帝国シーデリウムからの、手紙の証だった。 「これ……」 「バーラ狩りだ」  村長の小さな言葉にルトの息が止まった。バーラとは、シーデリウムの言葉で人間を意味する。つまり、人間狩りのことだった。  ルトの足の先から冷たいものが駆け上がる。こくん、と唾をのみこめば、氷水を口から飲まされている気がした。ルトの細い指先が震えた。 「バーラ、狩り……」 「すまない、すまない、ルト……」  机に肘をついた村長の声が明らかに震えた。そして彼は肘をついたまま、手のなかに顔を埋める。両腕に隠された老いた顔には、苦渋が浮かんでいるかもしれない。ルトには親がいない。みなしごだった。  ルトは赤子のときにシャド村に捨てられていた。それを、村長をはじめ、村人たちが乳をわけてくれて暖かい布団を用意してくれ、育ててくれた。  いつか村人たちの役に立ちたい。その思いは十四歳になった今でも変わらない。少しでも役に立とうと、いろんなことを学び努力を惜しまない。知識が豊富なルトは、今では誰よりも花や食物を育てるのがうまいし、小さな子をあやすのも上手だ。だから村では、花や食物、動物や、小さい子の世話役をしていた。  獣人が何の意図で、バーラ狩りをするのかは知られていない。しかし確実に知られているのは、一度狩りだされた人間は、二度と故郷へ戻らなかったということだ。すなわち死。 「すまない、ルト、許してくれ」 「村長、さま……」  嫌だ、と。その言葉をどうにか胸の奥にしまいこんだ。かわりにルトの細い指が、差し出された手紙をぐしゃりと握りつぶす。  始まりは、人間と獣人が対立したことにあるという。

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