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 空が高かった。  どこまでも澄み渡った空は雲一つなく、濃い青を映していた。  その濃い青には、山の緑が良く映えた。日の光を受け、眩しいほどに輝く緑だ。  澄んだ空気の中、小鳥が(さえず)った。静かな山の中では、小さな音すら鮮明に聞こえる。  小鳥が羽ばたいた。羽ばたきが辺りによく響いた。  そんな光景の中、少年は空を舞った。  しかし羽根を持たない少年は、小鳥の様に羽ばたくことはできず。  自然の摂理に抗うことなく、引力に共鳴し。  地へと落ちていった。  (せみ)の声が響いていた。ジー、という音は、あり余る大自然の至る所から折り重なるように響き、まるで劇場の観客席と舞台が逆になったような錯覚を覚えさせた。 「暑い……」  (わず)かな風でも送り込もうと、声の主はシャツの首元に指をかけた。そこから白い首元と、細い鎖骨が覗く。九月の山中とはいえ、風が吹かなければじわっと熱が(まと)わりつく。一本の赤いレンガ道を一歩進むたびに、薄ら茶色がかる髪が柔らかく揺れた。 「久しぶりに歩くと、遠いな……」  額の汗を軽く拭い、また独り言を(つぶや)く。淡い桜色の唇から零れ落ちる声は、雪解けに(きら)めく日の光の様だ。彼の茶色がかった目には、ヨーロッパの宮殿の様な壮大な白い建築物が映っていた。  『宮殿』が近付くにつれ、次第に人の姿がちらほらと見えはじめた。それに伴い、景色も一本のレンガ道から、ヨーロッパの庭園調に変わっていく。同じ服装に身を包んだ人々は、彼の様に一人で黙々と歩を進める者もいれば、数人で談笑しながら歩いている者もいた。  彼らは一様に『宮殿』を目指していた。そんな人の波に溶け込み、彼も先を眺めながら歩を進めた。 「おーい!」  後ろから声がした。聞き覚えのある声だ。特に名前を呼ばれたわけではないが、自身が呼ばれていることをすぐに察知し、彼はそっと振り返った。  長い(まつげ)の先に、屈託なく笑う少年が手を振りながら走り寄ってくる光景があった。彼の前を歩いていた連中も振り返り、その中から「王子だ」と(ささや)く声が聞こえた。 「おはよ! 元気にしてたか?」  少年は彼の隣に並ぶと、明るい声で尋ねた。 「『元気』って、一週間離れてただけだろ」  彼は小さな笑みを漏らした。白い頬が柔らかく動き、形の良い唇が心地の良い音を奏でる。美少年どころか美少女でも通用しそうな彼の笑みが、彼より少し高い位置にある少年の目に映り、思わず少年の心が揺らいだ。 「ま、そうなんだけど」  指で肩かけバッグの紐を(もてあそ)び、少年は口を窄めた。そんな気配を何となく捉え、彼はまた小さな笑みを漏らした。 「奏一(そういち)は? ……聞かなくても元気にしてたみたいだけど」 「え、ああ! 元気元気!」  少年、改め奏一はますます明るい口調で答えた。 「妹たちをプールに連れて行ってやったんだ。おかけですっかり小麦色だよ」  そして彼の頬を少し指で(もてあそ)ぶ。 「(しょう)は相変わらずだな。ちょっとは日に当たらないと、クル病になるぞ」  すると彼、唱は(わず)かに眉を下げ苦笑した。 「分かってるけど、日焼けは苦手なんだ」  唱の花びらの様な白い肌は日光に弱い。うっかり何の日よけ対策もなしに焼いてしまうと、たちまち真っ赤になり、睡眠を妨げるほどにヒリヒリと痛むのだ。 「ところでさ、俺のクラス、明日早速リーダーの授業があるんだけど、……宿題見せてもらえないかなーって」  奏一が何かを誤魔化(ごまか)すように呟いた。今日は二学期初日、つまり宿題とは夏休みの宿題のことである。 「やってないのか⁉」  唱の目が丸くなり、声が強まった。少し語気が強まるだけで、彼の澄んだ声は周囲にピンと通った。周囲を歩く学生の何人かが軽く声の主へ眼を向けたが、唱は特に気に留めなかった。 「やるつもりだったんだよ! でも一家(いっか)団欒(だんらん)を満喫するうちに時間が経って、最後の章ができなかったんだ」  だから最後の章だけでいいんだ。頼む! そう言って奏一は顔の前で手を合わせた。 「見せないよ」  唱はツンと顔を背けると、さっさと歩を進めた。 「頼むよ! 最後の章っていっても、たった四ページじゃんか!」 「最後の章だけじゃないだろ⁉ 全十二章ある問題集のうち、英語は苦手だとか何とか言って、結果八章までほとんど俺のを写したじゃないか!」  最初は一緒に勉強しようと誘われただけだった。奏一が英語を苦手としているのは知っていたので、彼の力になれればとその誘いを受けた。だがいざ一緒に勉強してみれば、ここが分からない、ここも分からないと、分からない所だらけだったのだ。結果、唱の解説付きとはいえ、奏一は八章までほぼ唱の問題集を写したのだった。時間の関係もあってのことだが、さすがにこれはまずいと思った唱は、残りを自力で解くよう奏一に約束させたのだが――。 「残りは自分でするって約束しただろ⁉」 「だから、九章から十一章まではやったんだよ。だから、ごめん、唱! 頼む!」 「知らない!」  顔の前で手を合わせたまま、奏一はどんどん先へ進む唱を追いかけた。 「お願いします! 唱! いえ、唱様!」  唱は無言で足早に歩を進める。 「お願いです! 唱様!」  繰り返される奏一の声を振り切るかのように、唱はどんどん歩を進める。堪りかねた奏一の口から、天にも(とどろ)かんばかりの声が(はっ)された。 「おーねーがーいっ、しーまーすっ! アリア様ァ――――!」  唱の体がくるっと反転した。同時に、奏一の声に劣らないボリュームの怒声が轟いた。 「本名で呼ぶなぁ――――ッ‼」  佐伯唱(さえきアリア)、十六歳。澤村音楽学院高等学校二年声楽クラス所属。普段は唱(しょう)で通しているが、本名は唱(アリア)である。  澤村音楽学院は、クラシックに重点を置いた中高一貫の全寮制音楽学校である。声楽クラス、ピアノクラス、弦楽器クラス、管楽器クラスの四クラスで構成されており、特殊な点を挙げるとするならば、男子校である、というところだろうか。(但し、姉妹校として女学院が存在する。)高度な音楽技術が学べるため、プロの音楽家を志す才能豊かな少年たちが日本中から集まり、彼らは学院で専門教育をみっちりと叩き込まれるのだ。あまりの厳しさから己の才能に限界を感じ、学院を去る生徒も年間数人ほどいた。しかし、数人といった程度で済んでいるのは、日本中から集まった才能集団だからこそといえよう。そして学院で鍛え抜かれた生徒たちの大半は国内だけでなく、世界中へ飛び出すのである。 「ええっと、下線部Bを言い換えた文章を探し、最初の三語を答えよ……」  空いているレッスン室の机で、奏一は問題集と唱のノート、そして自身のノートの順番に視線を流し、答えを書いた。唱は机一つ挟んだ対面で、その慌ただしい様子をじとっとした目で見ていた。  音楽学校、といっても普通科の授業がないわけではない。卒業すれば高校卒業資格が得られるため、普通科の授業は普通高校と同等にあり、それに加え専門教育があるので、普通高校よりカリキュラムはシビアである。特に海外での活動を視野に入れているため英語教育には力を入れており、英語の授業だけを挙げれば進学校レベルである。他教科は普通より少し上、くらいになるだろうか。故に、音楽自体の才能に行き詰まった生徒の他に、普通教育との両立が困難になり学院を去っていく生徒もいた。  今日は二学期初日のため、始業式がある。始業式が始まるのは、今から三十分後だ。始業式が通常の始業時刻より遅い時間から始まるのではない。先で述べたように、学院のカリキュラムは非常にシビアである。特別講習なども開かれたりするため、生徒たちが一時間から二時間ほど早く登校してくることは珍しくないのである。そのうえ、寮と校舎は同じ敷地内にあり、距離は五分から十分ほどのため、生徒たちも早めの登校をさほど苦には感じていない。学院側も二時間前には必ず全教室を開放させているので、早めに登校した生徒たちは自身の不足した能力を補うべく各々のプランで行動するが、時々奏一の様なだらしのない生徒も存在する。 「えーっと、次が……」  問題が進むにつれ、奏一の表情にも余裕が生まれた。その様子を、唱はひたすら冷たい眼で眺めていた。いや、正確には奏一の顔を、と表した方が良いか。黒い短髪、休暇中に日焼けをしたらしいが、顔はそれほど焼けてはいなかった。涼やかながらもほどよくはっきりとした目元に鼻筋の通った顔立ちは、確実に『美形』と呼ばれるものに値する、と唱は認識している。それは自身が奏一に抱く特別な感情を除けてもそうだろうと認識していた。唱より若干大きな体は、既に少年から男性らしさを表しはじめていた。 「唱、もう怒るなよ」  問題を読みつつ、――答えを写しつつ、奏一が口を開いた。 「怒りたくもなるだろ」  頬杖をつき、唱は低く言い放った。会った時に(のぞ)かせた春の妖精の様な可愛らしい笑みはどこにもない。あるのは氷の女王を思わせる冷たい視線だ。 「約束したのに」  唸るような声に奏一は顔を上げた。その動きと同時に唱の視線が横に流れた。その瞳が含んだ艶を奏一は見逃さなかった。 「泣くなよ」 「泣いてない。どうして泣かなきゃいけないんだ!」  唱の言うことは本当だ。単に目に力が入るあまり、潤んだだけである。ただそう言われたら、何となく悲しくなってきてしまったのも事実だったが。 「約束破ったからか?」 「そう思うんだったら、破るなよ!」  キッと(にら)む視線を、奏一は両の目で受け止めた。唱の人形の様な美とはまた違う、端正な顔立ちに浮かぶ二つの目は、黒曜石の様に深い色をしていた。  奏一は(なだ)めるような表情を唱に向けた。 「ごめん、これが最後にするから。次からは本当にちゃんとやる」 「……休暇前も、そう言っただろ」 「ホントだって! ほら、約束」  またそっぽを向いてしまった唱の頬に、奏一の長い指が触れた。『こっちを向け』ということらしい。その感触にさっと唱の頬が染まった。 「な、唱。約束するから」 「おまえは、ずるいんだよ」  こんな時だけそれらしい声で(なだ)めやがって。最大の譲歩だと言わんばかりに目を逸らしたまま顔を奏一の方へ向けると、唱の小さな輪郭を奏一の大きな手が包み込んだ。唱はその成り行きに委ね、目を閉じた。思わずぐっと噛みしめたくなる自身の唇に、柔らかいものが当たる。軽く湿った音が聞こえた瞬間、唱は心臓が口から零れ落ちるような錯覚に陥った。柔らかな熱が離れていく。そっと目を開けると、奏一が照れ臭そうに笑っていた。 「久しぶりだと緊張するなぁー」 「うるさい……」  心臓がスーパーボールの様にガチガチの体の中を跳ね回るので、唱はそう答えるのがやっとだった。  二年ピアノクラス、五十嵐(いがらし)奏一(そういち)と、二年声楽クラス、佐伯(さえき)(しょう)。お付き合いが始まり一年半が経過。未だにキス以上の進展はない。  問題集を終わらせた(写し終えた)奏一は、ふっと安堵の笑みを漏らし小さく息を吐いた。 「はぁー、間に合った。良かった」 「誰のおかげだと思ってるんだ?」 「それは、アリア様のおか――」 「だから! 本名で呼ぶなって!」  唱はまた奏一に言い聞かせた。奏一はククッと笑みを漏らす。 「でも、唱の親もすごいよな。息子に『アリア』なんて」 「まったくだ。娘ならともかく、息子に『アリア』だなんて……」  娘ですらキラキラネームである点は外せないのに。 「でも前に比べて文句言わなくなったよな。もう俺にからかわれるのに慣れたとか?」 「慣れてはいない。ただ、もうついてしまったものにいつまでも文句を言うのもな、と思って」  ――というのは噓だ。では、なぜ唱が自身の名前に文句を言わなくなったのか。それは数ヶ月前の正月休みにまで(さかのぼ)る。  珍しく、家族揃って楽しく朝食を取っている時だった。どんな経緯だったかは忘れたが、家族の名前が話題になったのだ。やはり唱はいつものように文句を言った。なぜ男である自分に女性の様な名前(ましてやキラキラネーム)をつけたのか。何度も非難していた。  『唱(アリア)』という名前は、作曲家の父がつけてくれた名前だ。父のことは大好きだが、その点についてだけは一生非難するであろうと思っていた。  その時、母がころころと心地の良い笑い声を立てた。 『ほら、あなた。だから私は『メロディ』がいいって言ったのよ』  唱の思考が中断した。一瞬、何の話をしていたのかすら思い出せなくなった。その後、父と母、姉が楽しげな声を上げながら話していたが、何も頭に入ってこなかった。ただ両親から明かされた真実だけはしっかりと頭に焼きつけられた。  『唱(アリア)でなければ、『旋律』と書いてメロディだったのだ』と。  その真実にゾッとし、唱は今後一切、自身の名前について親に抗議をしない、と心に決めたのだった。  半年前を思い出し、唱はまたもや身を震わせた。 「ま、外見が劣らずで良かったな」  青ざめる脳に奏一の声が届いた。 「それはどういう意味だ?」  意味が分からず、眉間に(しわ)を寄せ聞き返すと、奏一は良い笑顔を見せた。 「美人ってことだよ」  一瞬の間があいた後、唱の顔がほんのり桜色に染まった。 「男に美人とか、そういうのないだろ」  そう口を(とが)らせる唱の姿に、奏一はまた笑みを漏らす。 「爺さんが北欧の人だったっけ?」  そう言って唱の柔らかく波うつ前髪を(もてあそ)ぶ。その髪は窓から差し込む日の光を受け、亜麻色に近い色にまで染まっていた。顔の造作自体はさほど西洋的ではないのだが、髪色と目の色のせいか日本人離れして見えた。 「いや、母方の祖父だから、曾爺さんだよ」 「曾爺さんか。結構な先祖返りだな」 「俺もそう思う。母さんだって黒髪、黒目なのに」 「美人だよな」  奏一が唱の言葉に付け加えた。  奏一は唱の母に会ったことがない。が、一度音楽雑誌で見たことがあったのだ。『美貌のソプラノ歌手であり、芸術大学講師』のインタビュー記事を目にした時、名前を目にしていたからというのもあったが、すぐに唱の母親だと気が付いた。西洋人風の条件こそ揃えていなかったが、その顔は唱にそっくりだったのである。それだけでなく、彼女の持つ華やかな雰囲気すら、唱との血の繋がりを(あら)わにしていた。つまり、そんな彼女を茶髪のセミロングヘアにブラウンの瞳へ交換すれば唱が出来上がる、というわけである。その話を聞いたことがあったため、唱はそれ以上、奏一の話を広げることはしなかった。  チャイムが鳴り響いた。 「もうこんな時間か」  奏一がスマートフォンを覗いた。 「そろそろ行こうか」 「そうだな」  二人は始業式に出るべく、コンサートホールへ向かうことにした。  澤村音楽学院の敷地には、音楽学校らしくコンサートホールがある。小規模ではあるが、音響をはじめとし、なかなかの設備だ。そこは主に、プロの音楽家を呼んで公演をしたり学生たちが発表したりする場として使われるが、行事の式場としても使用される。  レッスン室のドアを奏一が開け、その後ろに唱が続いた。その後、二人は並んで廊下を歩くだろう。校舎の外れにあるホールまでは、少し距離がある。しかし既に何度も足を運んだことのある場所だ。辺りには二人と同じく、ホールへ向かう生徒の姿がある。談笑したり、ふざけあったり、難しい顔をして譜面や単語帳を見ながら歩く群れの中に、二人も自然と溶け込んでいく。特に珍しい光景ではない。……はずだった。  ホールへ向かう道は妙な様子に包まれていた。いつもどおり、ホールまでの道のりを進む生徒たちがいて、その中に溶け込んで歩く二人がいる。そんな光景にはなんの違和感もないはずだったのに、何かがおかしい。もし『空気』というものが精巧に構成されたパズルの様な可視の存在であったとするならば、どこかが一段ずつずれてはまっているのに、必死で一枚の絵を表しているような、そんな違和感である。  歩く生徒たちはいつもより静かだった。何かを言いたげな表情をしているのに、誰もそれを表に出そうとはしない。その光景に妙な違和感を覚えた生徒もいたが、まるでその絵を台無しにしてはいけないと察するかのように(いびつ)なパズルの一部となり、それがまた妙な絵を作り上げていた。時々堪らなくなった誰かが歪なパズルの理由を誰かに尋ねるのだが、返ってくる言葉があまりに曖昧で、その誰かはただ不可解な表情を浮かべることしかできなかった。つまるところ、何が原因なのか、何が原因でこの歪な絵が出来上がっているのか誰にも分からず、歪なパズルの伝言ゲームは広がっていたのだった。 「何かあったのかな?」  唱が小さな声で奏一に尋ねた。 「さぁ。でも、『何があったのかな?』って感じだよな」 「ああ」  この気持ちの悪い空間の一部となり、二人は得体の知れない不安に支配されたままホールへと続く道を進んだ。急な風が木立を揺らし、木々がざわざわと音を鳴らした。  歪なパズルのピースたちは所定の位置に腰を落ち着けた。ステージに向かって、前から一年、二年、三年の順に並び、各学年がまた前から声楽クラス、ピアノクラス、弦楽器クラス、管楽器クラスの順に並んでいる。各クラスの順番は、左から五十音順に並ぶことになっているため、『い』から始まる五十嵐奏一は一番下手(しもて)に、『さ』から始まる佐伯唱は下手から五番目の位置に座っていた。奏一の右目からは唱の姿がよく見えた。  始業式はつつがなく行われた。生徒たちの作り出す歪な絵をお構いなしに行われたことが、より違和感を生じさせた。もやもやした様子の中、学長挨拶、生活指導教師からお決まりの言葉が並べられ、歪な絵は徐々に生徒たちのうんざりとした態度に溶かされていった。  退屈に溶かされてしまいそうな空気の中、副学長に耳打ちされた学長が「最後に」と言葉を放った。 「今日、聖堂には警察の方々が来られていますが、君たちはいつもどおりの生活を行うように」  その瞬間、騒めきとともに空気が逆戻りした。生徒たちの緊迫した空気を感じていたであろうに、学長はそれ以上語らず、始業式は幕を閉じた。  警察が来る、ということは只事ではない。何もなければ警察は来ないからだ。生徒たちは何も見えなかった様子の中から、『警察が来るようなことが起こった。』とだけは理解した。  生徒たちは各々の教室へ戻る途中、先程のパズルを打ち破るかのように口を開いた。単に何らかの事故があっただけではないか、人が殺されたのではないか。そんな推測の中、爆弾が仕掛けられたのではないか、強盗が人質を連れて聖堂に潜伏しているなどというドラマチックな空想を巡らせる生徒までいた。山中の、特に刺激的なことが起こるわけでもない学校で起こった事件である。それに加えて、語り部は多感な少年たちなのだ。音楽を愛する彼らの卓越した独創性や芸術性が織りなすものなのか、はたまた十代の若い好奇心が織りなすものなのかは分からないが、生徒たちは口々に各々の物語を語った。  様々な音が奏でられる中、唱と奏一は(もっぱ)ら聞き役に回っていた。 「やっぱ、『大事件』なんだな」  奏一が呟くと、唱も「そうだな」と呟いた。唱の声が若干重い。少なくとも、奏一にはそう感じられた。 「なんか心当たりあるのか?」 「いや、……ないけど」 「あるだろ」  打ち返すような奏一の台詞に、唱はしばし沈黙すると、いつもの声の調子で言った。 「いや、何でもない」 「なんだよー」  奏一は頬を膨らましたが、唱は「憶測でものを言うのは良くないだろう」と小さな苦笑を浮かべるだけだった。 「ま、そうだよな」  まだ納得がいかない様子だったが、奏一は引き下がった。その様子にまた唱は笑みを浮かべる。その脳裏に一人の影があったことに、奏一は気が付いていなかった。  二年声楽クラスの教室には、また先程の歪な光景が広がっていた。奏一と別れた唱もその光景の一部となり、自身の席に腰を下ろした。唱の席は窓際にある。教室の中の雑音は右の耳からよく入った。雑音の主な音はひたすら『今朝起こった警察沙汰』の話題だった。だが二年声楽クラスの内容は他のクラスと比べ、少しポイントが絞られていた。  唱は斜め後ろの席に目をやった。その席にはまだ主が来ていなかった。そのことに気付いていたのは唱だけではない。二年声楽クラス全員である。二年声楽クラスの噂は、『今朝起こった警察沙汰に『そいつ』が関与しているのではないか。』というものになっていた。  ただ、澤村音楽学院では、新学期に生徒全員が揃わないことは当たり前の様子でもあった。その理由の一つとして、生徒の大半が他の地方出身者であり、実家が通学圏内ではないことが挙げられる。台風など天候による交通手段の制限などで、新学期当日に間に合わない場合があるのだ。もう一つとして、既にプロとして活動しているなど、校外で活動を行っている者がおり、そのスケジュール上、始業式に間に合わない場合が挙げられる。それらの理由から、欠席している生徒がいることは珍しいことでもないのである。そのため『そいつが関与している。』と決めつけるのは、いささか乱暴だった。現に、他のクラスでもまだ姿を現していない生徒がいることが判明していたため、なおさらだった。 「皆、席に着いて!」  野太い声とともに、担任の郷司(ごうじ)が教室に現れた。その声にざわついていた生徒たちが各々の席に着き、静かになった。 「出席を確認するぞ」  郷司が教室を見渡した。一クラス二十人ほどで構成される声楽クラスでは、その都度一人一人の名前を呼んで確認するようなことはしない。郷司が空席を確認して、名簿にその席の主の欄にチェックを入れるだけである。郷司は唱の斜め後ろあたりに目をやってから、名簿の上で軽くボールペンを動かした。 (やっぱり、来てないのか)  郷司の行動で、どこか希望的観測を持っていた唱は現実を突きつけられた気がした。 「えー、始業式で学長も言われたことだが、聖堂には警察の方々が来られている。聖堂は立ち入り禁止となるから、近付かないようにな」 「何があったんですか?」  人一倍好奇心が強く、行動力のある生徒が口を開いた。 「詳しいことが分かれば伝える」  郷司の返事はつれないものだった。詳しいことは分からないが大まかには分かっていて、だがまだ生徒たちに話す時ではない、ということか。生徒たちはそう判断し、それ以上の質問を重ねなかった。 「それと、逢坂(おうさか)先生がご実家の事情により、暫く休職される。逢坂先生の代理は、ひとまず外部の先生で補うことになる」  逢坂は二年声楽クラスを担当する専属教師である。また生徒が少しざわついた。聖堂の事件ほどの衝撃はないが、それでも生徒たちが動揺するに十分なニュースだ。しかし郷司はこの件についても、それ以上の説明を行わなかった。 「では、これでSHRを終わる。次の時間までは自習にするので、まだ夏休みの課題が終わってない奴はそれをしても構わないぞ」  そう冗談めかす郷司に、心当たりのある数人の生徒がぎこちない笑い声を立てた。  夜、風呂上りの唱は窓辺に椅子を運び、外の景色を眺め涼んでいた。眺めていたといっても目に映るのは山の黒い木々ばかりで、学校の校舎から見える景色とそう変わらない。山中の孤立した空間はまるで鳥籠の様だ。ただ夜になれば星がよく見えるので、唱個人の感覚としては、そう悪いものだと思ってはいない。そのうえ、夜は夏でも気温が下がり随分過ごしやすくなるので、その点も暑さに弱い唱としてはありがたいものだった。まだ完全に乾ききっていない唱の髪は、いつもよりウェーブが強くなる。その髪を夜風が優しく(もてあそ)んだ。  思わず唱の口から歌声が漏れた。その声は女性のものを思わせるほどに高い。 「相変わらず綺麗な声してんなぁ」  風呂を済ませた奏一が部屋に戻ってきた。まだ髪はしっかり濡れ、体からは蒸気が立っている。その声の方へ顔をやり、唱は柔らかな笑みを零した。 「唱はちょっと歌う時でも裏声になんだな」 「ポップスだったらならないよ。今のは授業でやった曲だからなっただけ」 「ポップスなんて歌うのか?」 「歌うよ。あまり知らないけど。……女の人の歌とかだったら、ポップスでも自然にファルセットになるかな」 「へぇ」  唱は学院に二人しかいない『カウンターテナー』である。カウンターテナーとは、ファルセット(裏声)で女性パートやそれと同等の高さに相当するパートを歌う、変声を終えた男性歌手のことである。ソプラノほどの高音を歌うことは難しいが、独特の中性性があり、神秘的な歌声なのだ。それに加え、唱の声には女性にも劣らない独特の明るさや華やぎがあった。 「でも、そんなとこ居たら風邪ひくぞ」 「このくらいなら大丈夫だよ。奏一も来たら?」 「おう」  奏一も椅子を窓辺まで引っ張ってきて、唱に並んだ。 「涼しいな。気持ちいい」  髪を拭きながら奏一が言う。 「だろう? クーラーなしでこれは嬉しいよな」 「あぁ。でももう少ししたら閉めるぞ」 「過保護だなあ」  唱の顔に(わず)かな苦笑が浮かぶ。 「過保護もクソもあるか。風邪引かなくても喉に悪いだろ」  気遣う言葉に、唱は小さな笑い声を立てた。純粋に嬉しいのだ。 「じゃ、もう少ししたら窓からは離れる」 「そうしろ」  奏一も満足げな笑みを浮かべた。  寮の部屋は二人一部屋が基本である。その割り当ては学年ごとに分かれており、入学した最初の一年、つまり中等部から入学した場合、中学一年時は完全なランダムで決められるのだ。その後、特定の者と同室になりたいと希望届を出せば、二年からそれが叶えられるシステムとなっている。  唱と奏一が同室になったのは中等部一年の時だった。無論、部屋が同室となったのは全くの偶然からだ。最初の一年を問題なく過ごせたので、二年からも同室でいられるよう希望届を出した。お互い同じクラスに特別仲の良い友人がいたわけでもなく、また新しい同室者と一から生活上の関係を築くのも面倒だ、という考えが一致したからだった。  ところが、二年では少し喧嘩をした。喧嘩の理由は下らないものが多かった。教科書が自分の机まではみ出ていただの、菓子のくずが床に零れただの。その程度で怒鳴りあう喧嘩をすることがあったので、お互い少し近寄りすぎたのだろう、生活習慣の不一致が出たのだろうと次は希望届を出さないでおこうと話をした。だが、たまたま他に気を取られていた奏一が、「また佐伯と同じ部屋で構わないか?」と寮長に問われ、「あー、はいはい」と適当に返してしまったため、三年も同室になってしまった。それが唱を苛立たせた。  三年も同様、二年からの継続でやはり上手くいかなかった。ちょっとしたことが癇に障る。傍に寄られると妙に体が緊張し、頭の中が無闇にぶわっと混乱するし、簡単なことができなくなる。触るなんて以ての外だ。今まで暮らしていた世界に相手の姿があるだけで、全く違う景色に見えてしまう。挙げ句の果てには、お互い『変な病気をうつされたのでは』と不安を覚えた。そのくせ絶対同じ時間に登校し、下校も一緒、食事も同じ時間に食堂へ行き、自由席であるにも拘らず向かい合って食事を取る。そして食後は練習室や娯楽室へ向かわず、同じ部屋で過ごすのだ。「真似するな!」などといがみ合いながらも一緒にいた。高等部に上がれば離れよう。そう考え、残りの中学生活を過ごすことにした。  そのころにはもう、お互いいがみ合うことに疲れていた。何やってるんだ、と内心溜め息をついた。でも相手のことを考えると、ぶわっとした苛々は治まらない。相手のことを考えると、心臓の音が頭の中にまで響くぐらい苛々と……。  その時だった。 (あれ? これってもしかして、『好き』ってことじゃないか?) (もしかして、これって『好き』ってこと?) (頭の中がぶわっとなるのは、苛々してたんじゃなくて、好きだったから⁇)  その瞬間、心臓の音を起爆スイッチとして、頭が爆発したような感覚に襲われた。たちまち顔が真っ赤に染まる。 (でも……)  相手は自分と同じ男なのだ。『ドキドキ』と『イライラ』を間違えるほどに、心のどこかでありえないことだと思っていた。 (もしかしたら、あいつは本当にムカついているのかもしれない) (俺じゃあるまいし、でなけりゃあんな態度取らないよな)  そう思い意気消沈した。ところがそうしたことにより、相手に対する態度が軟化し、歯車が良い方向へ向かって転がりはじめたのだ。今は互いの気持ちを知り、受け入れられるまでに至っている。 「あ~、気持ちいいな……」  風に(もてあそ)ばれる髪を落ち着かせながら、唱が呟いた。心地よさげに目を細める唱の姿を目に映し、奏一の内がふにゃりと曲がる。 (今日、もしかしたら、いけるかもしれない……)  ふと奏一の脳裏に邪な思いが湧き立った。幸い明日は休日で朝もゆっくりできる。唱も急ぎの予定はなかったはずだ。音楽を専攻する者が利用する寮とあって、部屋の防音もほぼ完璧だ。 「唱……」  そう(ささや)いて手を伸ばした。が、その手は虚しく空を切った。 「そろそろ課題をやらないと」  既に唱の体は椅子を持ち上げ、勉強机へと向かっていた。奏一の手には気が付かなかったようだ。 「課題って、明日休みなんだから、明日すればいいだろ」 「駄目だ。明日の午後にある特別講習の課題なんだから。そういえば、奏一も講習なかったか?」 「音楽理論の講習がある……」 「あの先生厳しいから、課題が出てなくても予習しておいた方がいいんじゃない?」 「そうする……」  『明日の午後からの講習なら、課題は午前中にやれば?』とは言えなかった。唱は早め早めにものを進めたい性分だ。既に課題に没頭している。奏一自身も予習は必要なしで受けられるほど甘い講習ではない。  付き合って一年以上経過したのにも拘わらず、キス以上の進展が全く望めない理由。それは多忙を極める互いの生活である。ほぼ毎日学業に追われ、酷いときには寝に帰るのがやっとの時もある。それは中等部時代の比ではない。  両者とも、色事には淡泊な方だと思っているが、決してその『意志』がないわけではない。互いに健全な男子で、そういった『意志』はあるのだが、互いの時間がそれを許さないのである。奏一は内心涙を流し、教科書を開いた。  始業式から数日が経過したが、警察が引き上げた後も、聖堂には立ち入り禁止のテープが貼られたままだった。始業式に顔を出していなかった生徒もほぼ顔を揃え、平常どおり授業が行われる中、やはり『あいつ』の席は空席のままだった。そうすると、段々生徒たちは『あいつ』が聖堂で起こった一件に関わっていると決めつけはじめたが、誰もそれを口にしなかった。そのような軽はずみな言動は控えるべきだ、という意識もあるのだろうが、何より多忙を極める厳しい音楽学院で生き残るためには、いつまでも他者に気を取られている時間はない、というのが本音のようだった。  そうして数日が過ぎたある日のHRで、『聖堂の窓から更科和季が転落し、意識不明の重体である。』ことが報された。

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