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夏の夜の夢

 どんより立ち込めた黒い雲を押し上げるように、狂ったオレンジ色が照りつける夕暮れだった。昼間に一雨降ったこともあり、辟易するほど蒸し暑い中、首筋の汗を拭いながらとぼとぼと家路を辿っていた。アパートにさしかかったところで燻ったにおいを嗅ぎ、ああそんな時期かと角を曲がると、向かいの大家の玄関先から青白い煙が上がっていた。  一斗缶の蓋の上で、交互に組んだ木片が燃えている。  この辺りは新盆で、家々は七月の半ばに迎え火を焚く。  先祖を迎える慣習も、彼らにとって一週間に満たないほんの短い帰省なのだから、あの世もこの世とさして変わらぬせせこましさだよなあ、なんてぼんやり考えながら、見るともなしに、やがて陽の沈む空を振り仰いだ。  早くに帰った日は、風呂上がりに目分量で作ったハイボールとありあわせの惣菜で晩酌をするのがほとんど日課だ。開け放ったベランダの窓から迎え火の残り香が漂ってくるのだけがいつもと違う、いつも通りの夜。なぜだか妙に酒が進み、二杯目に手が伸びた。  ぼうっとテレビを眺めていると、手の中をすり抜けて、突然、白い毛玉が走り出す。  驚いて行方を追うと、軽やかな毛玉は玄関でぴたりと止まり、そこには一人の男が立っていた。  浅い色のデニムに、紺のニット。白いスニーカーは少しくたびれている。 「久しぶり」  所在なげに両手を尻ポケットに突っ込んで、彼は笑っていた。  ああ、そんな時期。 「……久しぶり」  おうむ返しに答えるだけのことに、ひどく気持ちが揺れる。 「今夜、泊めてくれない?」  この時期ふらりとやって来る、別れた恋人。  昔に渡した合鍵を、今も悪びれずに使うのだ。  足元の猫を撫でる彼のつむじを見ながら、黙って頷くと、沈黙は肯定だと知る男はやはり黙って上がり込んでくる。彼の周囲をぐるりと一周し、俺のほうへ戻ってくる白い毛玉。去年の今頃にはまだいなかった子猫にとって、彼はどんなふうに映っているのだろうか。 「その子、名前は?」 「ツナ」 「ふうん」 「そこ……アパートの前で、車に跳ねられて死にかけててさ。ほっとけなくて。繋ぎ止めた命だから……ツナグのツナ」  奇妙な名づけの言い訳を聞いているのかいないのか、彼の知る頃から大して変わり映えもしていないだろう部屋を見回している。少し痩せ気味の、しかしニットの上からもしなやかさのわかる背中をじっと見ながら、ぽつりと訊ねる。 「ねえ、なんで、俺のところに寄るの?」 「なに、今さら」 「今さら思ったんだよ。まっすぐ帰ればいいのに」  はっきり聞いたわけではないが、彼がここに立ち寄るのは、単に通り道だからだろう。 「ふうん、いいの?」 「……よくない、けど」  意地の悪い反問に知らず尖った唇を弄りながら打ち明けると、はは、と弾けるように笑われる。 「そういうとこ、ほんと変わらないな。可愛いよ」 「なんだよ、それ」 「そのまんまだよ。いい加減、ほかのやつのもんになったんだろ?」  甘くて苦い言葉が引っ掻いたのは俺の心で、その耐えがたさに、苛立のような悲しみのような気持ちが音になって口から飛び出す。 「ひどいやつ。俺がまだ、お前に未練あること、知ってるくせに」  そうでなければ、別れた恋人など部屋に上げるものか。  俯く彼に構わず、俺は力ずくで、結んだ唇に口付けた。  散らばった洗濯物を脚で避け、敷きっぱなしの布団にもつれ込む。  俺の名前を呼ぶ、彼の低くも高くもない声。それは単なる空気の振動ではなく、俺の身体を熱くし、俺の記憶をひりひりと蘇らせる。我慢の滲む息遣い、腕時計の冷たく硬い感触、手のひらの厚み、胸の湿り気、腰がぶつかる骨っぽさと弾力、ストロークの癖……今朝見た夢も思い出せないのに、それよりずっと遠いすべての記憶が、一瞬で奔流となって注がれる感覚。  俺たちは恋人だった頃から潔癖な関係などではなかったから、俺はわざといやらしい言葉で彼を急かし、彼は決してそれに応えず俺を焦らしに焦らした。  夢中で喘ぎ続け、声も出なくなったところで、さんざん堰き止められた絶頂があっけなく解放される。濡れた下腹と、ぱくぱく痙攣する尻穴と、身体を破ってどこかへ行きそうな鼓動。セックスの終わりは身体と裏腹に虚しくて、汗だくで仰向けになったまま沈黙だけがどれほど流れたろう。いつか、彼はばかに丁寧な手つきで俺を抱きしめて、 「俺のことなんか、早く忘れな」  なんていうから。あまりのことに、俺は、声を上げて泣いたのだと思う。  明け方になって、寝苦しさと、ツナのちょっかいで目が覚める。  開けっ放しの窓から流れ込む風は生ぬるく不快で、いつの間にかたぐり寄せたタオルケットの中でやはり俺は汗を掻いていた。目覚めた俺には興味のないツナは部屋を出て行き、俺はめくり上げたタオルケットの下、粗相を見て一人笑った。  彼はもういない。  寒の戻りを肌身で感じる、晩春のことだった。  久しぶりにゆっくり会えることになって、外食の気分ではなかった俺はピザでも取ってしまおうかと携帯電話を弄っていた。しかし結局その日に彼は現れず、翌朝、彼のフェイスブックに投稿されたのは家族による本人の訃報だった。  自殺だったという。  彼の生きる理由になり得なかった自分を恨んだし、せめて一緒に死にたかったと思った。  あれから何年か経つが、色違いの歯ブラシは今も一輪挿しの花のように洗面所に飾られ、置き忘れの紺のニットからはもう彼のにおいもしないのに、たまらずそれを嗅ぎながら寝る夜がある。留守電の中の、待ち合わせに遅れた俺に不機嫌になった彼の声で何度も抜いた。  この町が迎え火を焚いた夜、ついでにふらりと立ち寄って俺を抱く恋人。  点けっぱなしのテレビから、小さなボリュームで早朝のニュース番組が聞こえる。  彼はもういない。  俺は真っ裸のままごろりと大の字になり、三文字の名前を声を出さずに呼んだ。

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