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アネモネ -side T- 01

 盆休みに入って自宅で怠惰に過ごしていたところ、食材も酒もないことに気づいた三島が、猛暑の中やむなく出掛けたコンビニで糸井を見かけたのは、ただの偶然だった。  前回もたまたま店の入り口で出くわして、ご近所さんであることが発覚した糸井から、このことは糸川には絶対言うなと口止めされた。その際あまりに邪険にしてくれやがったので、今回は気づかなかったことにしてこっそり買い物を済ませようと思ったのだが、商品を選ぶ糸井の様子のおかしさに気づいてしまって、三島はやれやれとため息をついた。  このくそ暑いのに鼻から顎まできっちりとマスクをつけて、時折背中を丸めてごほごほと咳き込んでいる。足取りは鈍く遅く、レトルトの粥やらスポドリやらが入ったかごがひどく重そうだ。  もう何の関係もないのだし、気にかける義理もないのだから無視すればいいとも思ったのだが、性根の世話焼きが祟ってついそのかごを奪ってしまった。 「……? 三島、さん?」  ぼんやりした顔を上げた糸井は案の定ひどい夏風邪をひいていて、どこの病院も盆休みで救急くらいしか開いていない状況にもかかわらず、一人暮らしの部屋で自力でなんとかするつもりだったらしい。  恋人である糸川はどうしたのかと訊くと、今日はまだ大阪にいて、しかもこの連休は会う予定がないのだという。遠距離恋愛中ならなおさら、長期休暇はなるべく予定を合わせて一緒に過ごすものではないのだろうか。遠距離恋愛どころか真剣交際の経験がほとんどない三島でさえそういうものと思っていたのだが、どうやら目の前の男にとってはそれは当たり前ではないらしい。  糸川は(なぜか)糸井にいたくご執心なので、呼べば喜んで看病しに来ると思うのだが、それも糸井は強く拒んで、さらに三島に口止めをした。  ああ、と三島はいろいろ察した。なんだかんだで三島は糸井の近くで十年ほどを過ごした人間である。糸井の悪いところを、誰よりもよく知っている。  であれば糸井は頑なに糸川を頼ろうとしないのだろうし、かといってさすがにこれほど具合の悪そうな人間を放っておくわけにもいかない。死なれては夢見が悪い、と三島は看病を代行することを決め、糸井の意思を無視して自分の買い物をさっさと済ませた。  遠慮というより困惑しきりの糸井を追い立てるように家に帰して、有無を言わせず上がり込む。掃除の行き届いた室内はしかし、かなりの割合を植物に占拠されていて三島は面食らった。そして部屋の一角にあるガラスのケースには、大事そうにしまわれたカメラとレンズ。  そういえば大学時代、糸井は植物の写真をよく撮っていた。取り立てて親しくはなかった頃も、三島は糸井の撮るものを好ましく眺めていた。  糸井の目を通して写し出される鮮やかな花々。透明度の高い風景。  窓際のラナンキュラスと、その背後に遠く広がる空。  うわべでしか人と接しないつまらなさの陰に、三島はいつも、糸井の本質を探していたような気がする。 「うわ……九度六分。死ぬんじゃねえの」  あれこれ世話を焼いてベッドに押し込んで、計った体温の高さへの驚きが思わず声に出る。寝ろ、と命じられた糸井は心細げに、高熱に潤んだ瞳を向けてきた。 「……ここにいるから」  だから余計なことを考えずにとにかく早く寝てしまえと、三島は糸井に背を向けてベッド横に座り込んだ。そのまま放っておいたら、間もなくやや苦しげな寝息が聞こえてきた。  冷凍庫の隅に入っていた保冷剤を、畳んで棚に置かれていたタオルにくるんで首元に置いてやる。寝入った糸井はその冷たさを求めるように首を傾けた。そんなあどけない仕草を初めて見たような心地で、三島は糸井の寝顔を覗き込む。  あの頃――糸井を初めて抱いた頃、糸井がこんなふうに甘えてくることを夢想した時期があったな、と三島はぼんやり思い出した。  繰り返すが、三島はほとんど真剣交際というものをしたことがない。幼い頃には人並みにクラスの可愛い女の子へ恋心を抱いたこともあったのだが、高一のときに個別指導の女子大生講師に同意なくキスされて以来、女性全般もキスも苦手になってしまった。  大学で東京に出て、性欲は同性とでも解消できることを知り、以来恋愛感情を伴わないセックスばかりを重ねてきた。元がへテロだったからか、同性と恋愛をするという発想がなかったのかもしれない。入れて出してスッキリすればそれで良いという利害一致のセフレが常に何人かいた。  同じサークルの後輩だった糸井が、いつからか自分に特別な視線を向けていることにはなんとなく気づいていた。きらきらとした、純粋な、憧れみたいな、きれいな感情。だけどそんなものを負うのは、手軽な性欲解消手段を持っている三島にとっては億劫すぎて、とりあえず見て見ぬふりをした。  数年、見ないままただの先輩として一緒にいた。他の誰とも分け隔てたことはない。本当にただの一後輩扱い。それも、どちらかといえばあまり接しないようにしていたくらいだ。誰と接するにも一枚皮をかぶっているような糸井を三島は胡散臭いと思っていたし、そんなつまらない人間は願い下げである。  それでもなぜか、糸井の視線は光を帯びたままだった。そして外面の胡散臭さとは裏腹に、糸井が撮る写真は三島を惹き付けるところがあった。  大学卒業前の追い出しコンパで、いつも酒を口にしない糸井が隅っこでめそめそと飲んでいるのを見て、なんとなく興を引かれた。このつまらない男の、面白い何かが見られるような予感。  それは的中したと言える。  ――俺は、生まれてから十一年間の記憶がないんです。  記憶喪失なんてフィクションの世界でしか見聞きしたことはなくて、三島の関心は大いにそそられた。内面を表に出せない糸井の根源がそこにあると確信して。  ――俺は、三島さんの言う通りつまらない人間です。人生半分、持ってないんです。  正直なところ、このとき三島は少し、高揚していた。  それでもおまえは俺を好きになったんだろう。俺を求めたんだろう。俺におまえの不足を埋めてもらえるんじゃないかと、期待をしているんだろう。  三島は相手の期待に応えるのが得意だと自覚している。それが自分の長所であり価値だとも自負している。だから、この可哀想な糸井を救うことができればさぞ自尊心も満たされるだろうと、そういう打算が働いた。  何が足りないか言ってみろ。寂しい、甘えたいと乞うてみろ。全部俺が満たしてやる。俺がおまえの不足を埋めてやる。  その意気込みの端の方で、別の小さな予感もあった。  もしかしたら、糸井へのこの庇護欲はいつか、恋愛感情になるかもしれない。糸井が三島を求めるなら、糸井は自分にとって、特別な相手になるかもしれない。  いつか、糸井は自分の恋人と呼べる存在になるかもしれない。  ――俺、誰ともつき合ったりとかする気ないんだけど、セフレとしてならこれからも会うよ。どうする?  嘘は入れず、この後の進展に大きな期待を含ませて誘ったところ、糸井は頷いた。それを見て、三島は糸井を手に入れたと思った。  糸井の甘えもわがままも、全部聞いて叶えてやると。そして、今は出せない糸井の本心の受け皿に自分がなるのだと。そう思っていた。  けれど、実際はそうはならなかった。  糸井は何も言わない。自分の希望も、意思も、三島を好きだとさえも。  その他大勢へ見せるのと同じ、一枚皮を隔てた表情しか見せず、三島にもその内面を一切晒そうとしない。ただ黙って、薄く笑って、何もかも仕方がないというように受け入れた顔で。  それなら何のためにおまえの傍に俺がいる? 俺に何も求めないおまえと一緒にいて、いったい何になる? 「……つまんねぇ」  三島は急速に糸井への関心を失った。妙な期待を抱いてしまった分、その反動もあったのかもしれない。失望は大きく、怒りに近かった。  こいつはだめだ。誰のことも、好いた相手のことすら信用できない。信頼して寄りかかることができない。そんなやつとの関係を恋愛にしたって、何もいいことがあるわけがない。  苛虐的に扱ってさえ文句ひとつ言わない糸井に、三島は早々に見切りをつけた。  そういう扱いで満足しているなら、ずっとそのままでいればいい。おまえが幸せになれないのは、幸せになろうとしないからだ。  そしてそこから七年、不毛な関係が続くことになる。 「三島さんのことはもう好きじゃないからね」  そんなだった糸井が、熱が下がった今、ふてぶてしい顔で面と向かって不遜なことを言う。あまつさえ、三島がつまみにしていた豆菓子を横からかっさらって平然としている。ある意味三島には衝撃的なことだ。 「あー! おまえ!!」 「お腹減った。お風呂入ってくる」 「横暴だ! 糸川に言いつけてやる!」 「その前にその口縫い付けてやる」 「えっ、こわっ。糸井こわっ」 「嫌なら全部黙っといてね。全部」  あの頃の糸井と比べれば雲泥の差で可愛くない、のに、嫣然と笑う可愛くない糸井はとても興味深くて魅力的だ。 「……おもしれぇ」  好きな相手には、おそらく嫌われることを極度に恐れるために、何も言えなくなってしまう糸井。その彼が、好きではないかつ事情を知られている相手になら、これほど気安く接することができるのだ。彼との関係を恋愛にしない方が良いと考えた三島の判断は正しかったと言えるだろう。  だが、今の糸井には好きな人がいて、その人も糸井を好いている。糸井と恋愛関係にある糸川は、自身の内面を晒すことのできない糸井に、何ができるのだろう?  糸井に対する執着が強く、愛情深く諦めが悪い糸川だから、きっとそれも乗り越えようとはするのだろう。でもどうやって? (どうにもできっこねえだろ、そんな無理ゲー)  策など三島には到底思い浮かばず、底意地の悪い笑みが浮かぶ。 (どうせ、早晩こいつらも破綻する)  それまで、面白い糸井を独占しつつ高みの見物を決め込む三島だった。

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